第10話★存在感で殴るのが悪女ですわ
「ベアトリーチェ・スカーレット公爵令嬢ではございませんか?」
だから、そう声をかけられてもすぐに反応は示せなかった。
呆然と立ちすくむベアトリーチェの背後で「聖女リリィ・ハルモニア様だ!」との民衆の浮足立った声が聞こえて初めて「ああ、聖女様に話しかけられているのね」と気づいたくらいだ。
「聖女様、なんとお美しい姿……」
「月の女神の様だ」
「神事でもないのにそのお姿を拝見できるなんて、今日は素晴らしい日だ」
聖女を目にした民の声が聞こえる。
皆、同様にその眩しいほどの輝きに目を奪われているようだ。
不思議なものだ。
前世と同じ姿なのに、自分が聖女でいた頃は毎日のように救貧院や医療院へ顔を出し、祈りの時間も国民たちと顔を合わす機会が多くあったせいか、「お! 聖女様!」「今日もお元気そうですね」とフレンドリーな挨拶を交わすことはあれど、日常的な光景すぎてこのように現れただけで崇められたことはない。
焦点が定まらずにいた目線を、ゆっくりと声の主――聖女へと向ける。
「
聖女は民衆の声が届いているであろうにも関わらず、彼らには見向きもせずベアトリーチェだけに話しかけていた。これだけの注目を集めているのだから、民衆に手を振るなどのパフォーマンスを行うであろうと思っていただけに、意外だった。
それほど、神殿前に稀代の悪女がいる、という状況が聖女にとって予想だにしない出来事だったのだろう。
さきほどまでの愛らしい微笑みはどこへ消えたのか。口元はかろうじて微笑みの形を保っているが、ベアトリーチェに対し、どこか厳しい目線。詰問するように問われる声には剣がある。不思議な感覚だ。まるで、鏡の中から「お前は誰だ」と語り掛けられているような奇妙な感覚。
ふっ、と笑みがこぼれる。
つまり、これは、《喧嘩を売られている》って認識でよろしくて?
「――あらァ? ごきげんよう聖女リリィ・ハルモニア様」
聖女様の登場で、なぜか戦闘本能を刺激されてしまったらしいベアトリーチェは、ベルスリープの袖口から、隠し武器の如く黒の扇をとり出す。そして、先ほどまでの困惑を一切感じさせない、なぞに勝ち誇った顔で妖艶にほほ笑み、その口元をバサリと扇で隠した。
よろめきかけていた姿勢を正し、扇を構えていない手を腰に添え、胸を張る。マーメイド型のドレスは、ベアトリーチェの魅惑のボディラインを引き立てており、悪魔的な魅力を放っていた。
すると、このベアトリーチェの美ボディスタイルに魅了されたのか、周囲がざわついた。特に男たちが。なにせ、身長も、胸も、態度も。すべてにおいて、ベアトリーチェが聖女より勝っていたのだ。
「あいにく、ここは偶然通りかかっただけですわ、お気になさらず」
「…………」
公爵令嬢、としては少々不遜すぎる態度だが。堂々たる姿でそう答えるベアトリーチェに、聖女の張り付けたような笑顔の口元がヒクりとひくつく。
「――まぁ、そうでしたか。そうですよね、ベアトリーチェ様が神殿に訪問されたことなんて、過去に一度もありませんでしたので、驚いてしまいましたわ」
過去に一度も、をそこまで強調する必要があったのか。
おほほ、と上品に口元を隠しつつ、しっかりとした
ベアトリーチェの悪行を鑑みても、その反応は正しい反応なのだろうが、どうやらそれ以上にこの聖女様は自分に対していい感情を抱いていない、ということが容易に察せられる。
――なるほど、わたくしの右手の火傷にも気づいていないようね。
仮に気付いたとしても、この様子だと聖女直々に治癒してくれる、なんてことは天地がひっくり返ってもありえなさそうだ。残念。しかし、当初の目的であった聖女との邂逅は果たせたのだし、ここはひとまず一旦撤退し、違うルートを模索することにしよう。
「安心してください。もう帰るところで――」
「―――おい」
耳に心地よく響く低音。その声にハッと、正面を見る。
正直、聖女にばかり意識を集中しすぎていて、いつの間にか目の前に立っていた男の存在を忘れていた。
身長170ほどあるベアトリーチェが見上げるほどの体躯。がっしりとした肩幅に、厚みのある胸筋。
漆黒の黒髪の毛足は金で縁取られており、エメラルドのような翠と、ルビーのような鮮やかさをもつ赤のグラデーションが美しいアレキサンドライトの瞳。
その顔は、まごうことなく今朝、父から手渡された釣書でみた顔。
「もう一度、名を名乗れ」
《ダンテ・アレキサンダー・カドニウム皇帝陛下》だ。
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