じりじり

 7月中旬。周囲の生徒たちがすっかり夏服に着替え終わった頃。私は冷え性だから春からそれほど見た目に変わりはない季節が始まる……というか、とっくに始まっている頃――


「もうすぐ夏だね!!」

「あぁもう聞こえてますから。大きい声出さないでください。というかもうとっくに夏です」


 期末テストが近づいたある日の休日のこと。私は自分の部屋で志希先輩と一緒に勉強をして過ごしていた。


「夏と言えば海だね!!」

「私が海好きそうに見えます?」

「見えないね!!」

「だから声大きいですってば」


 部活で日々忙しく過ごしている志希先輩とは遊園地以来ずっとデートらしいこともできていなかったから、テスト勉強の時間くらい一緒に過ごしたいという先輩の要望を断ることができなかった。そうして我が家にやってきた先輩と今は向かい合って休憩中。おやつを食べながらテスト後に訪れる夏休みの計画を立てていたのだった。


「だって夏休みだよ!?ホテルのプールとかどう?オススメのところがあるんだよねぇ~」

「ホテル?……なんか、ヤです」

「えぇ?何々?何想像したの?やらしいことしないってばぁ」

「今ので絶対嫌になりました」

「えぇー?じゃあ好きそうなのはー……温泉とか?」

「え、いいですね。最高じゃないですか」

「え、マジ?浴衣脱がすの最高じゃん!」

「温泉もナシで」

「冗談だよぉ。ごめんてばぁ~」


 謝りながら抱き着いてくる志希先輩。相変わらず距離の詰め方がおかしい。一応恋人同士なのだからおかしいことはないのだけれど。私はまだ先輩との関係に慣れそうにない。先輩の腕の中に閉じ込められながら、私は内心ソワソワしていた。


「もういいですから。離れてください」

「えぇ〜やだぁ。学校だと嫌がるじゃん。今くらい好きにさせて?」

「うぅ……」


 学校で志希先輩に近づかれてしまうと、先輩のファンにもはや殺意に似た憎悪の眼差しを受けてしまうから、正直言って私は今の学校生活に疲れ始めていた。人気者の恋人になるって本当に大変なことなのだと思う。そんな私を察してか、最近は学校では先輩が表立っては近づいて来ることはなくなっていた。なんだか気を遣わせてしまって申し訳ないような気持ちがあったから、素直に甘えられると拒みづらかった。


「円歌ちゃん、冷たくて気持ちいい」

「……先輩の体温が高いんですよ」


 夏でも油断したら冷えてしまう指先に、志希先輩の指が絡んで、私より大きな手に包まれる。バスケ部のエースをしている先輩の指は、少しゴツゴツとしていて手の平は少し固い。晴琉は先輩のことを天才だと言っていたけれど、そこに積み重ねた練習と努力の痕を感じて胸がときめいていた。


「……あの写真、綺麗だね」

「はい?……あぁ、ベッドサイドのやつですか?」

「うん。三人とも良い笑顔だし、景色のも綺麗」


 私を抱きしめたままの志希先輩はベッドサイドにある写真に目が留まったようだ。そこには私と葵と晴琉と三人で撮った写真と、何枚か景色の写真が飾られている。


「ありがとうございます。景色の写真は私が撮ったんですよ」

「へぇ〜。写真好きなんだ?」

「そうですね……」

「あれ?確かウチの高校に写真部あったよね?入らなかったの?」

「……もう写真はいいんです」

「極めたってこと?」

「ふふ。そういうことじゃないです。ただ、もう……」

「……何かあった?」


 それは小学生の頃のことだった。母方の祖母の田舎に遊びに行った時に見つけた祖母の古いカメラに幼い私は夢中になった。滞在中は田舎の景色を中心にたくさん撮って、家に帰るころには駄々をこねた私を見かねて祖母からカメラを譲り受けた。そのくせ家に帰ったら見慣れた景色ばかりで途端に撮る意欲が無くなってしまった。

 そんな私を見かねた母親から「大事なものを写せばいいんだよ」って言われて。それから言われた通り何枚何枚も撮って。中学生になって溜まったものを見返した時、私は写真を撮ることを止めてしまった。


「――円歌ちゃん?」

「あ、すみません、ぼーっとしてました」

「ごめん、そんなに嫌なことだった?」

「いえ、たぶん……知って嫌な気持ちになるのは先輩だと思います」

「んー……それなら言ったほうが良いと思うなぁ」

「どうしてですか?」

「私は円歌ちゃんのことが知りたいから。あと何を知っても受け入れる自信があるからね」

「……本当にいつもすごい自信ですよね」

「年上だからね〜。さぁお姉さんに話してみなさいな」


 今まで誰にも話してこなかった、話したくなかった過去の写真のこと。どうして志希先輩に話そうと思ったのか、自分でもよく分からなかったけれど……たぶん、全てを吐き出して楽になりたかったのかもしれない。


「……ベッドの下に昔私が撮った写真があるんですけど……えーっと、これだ」


 ずっと志希先輩に抱きしめられたままだったけれど、ようやく離れてベッドの下を漁る。昔もらったお洒落でお気に入りだったお菓子の缶が置いてあって、缶を開けると当時撮った写真がこれでもかと出てくる。懐かしさとともに溢れる苦い思い出に、心が締め付けられる。

 そこにある写真に写っているのは……「大事ものを写せばいいんだよ」と言われた私が撮ったものは――


「全部葵ちゃんだね」

「……そうですね。全部葵です。この頃の私が撮りたかったのは……全部、葵だったんです」

「なるほどねぇ。円歌ちゃんの好きな人、葵ちゃんなんだね」

「ごめんなさい」

「なんで謝るの?」

「だって……私、先輩と付き合ってるのに。なんでこんなもの見せてるんだろう……」

「何でも受け入れるって言ったでしょ?大丈夫だよ」


 再び志希先輩に抱きしめられた。さっきは私に甘えているような感じだったのに、今度は私を甘やかすように優しい力で抱きしめてくれて、私は自然と受け入れていた。ソワソワとした心のざわめきもなく、むしろ私からもたれるようにしていた。どうして先輩はこんな中途半端な私に優しくするのか分からず疑問を持ったまま、私は先輩に都合よく甘え切っていた。


「……私が撮った写真……葵、全部こっちを見ていないんです……私の方を全く……」

「んー……言われてみれば確かに」

「この写真たちを見てたら、なんか……私の一方的な気持ちを現わしている気がして……なんかもう、私、ストーカーみたいで気持ち悪いなって思っちゃって。そうしたらもう、カメラを構えることができなくなって……」


 話している途中から自然と涙が零れていた。わざと視線を外したり横顔だったり、写真の構図として視線を合わせないことはよくある。でも葵は明らかに、意図的に視線が合わなかったように思えた。あれは、合わなかったわけではなかった。


「……気持ち、伝えられなかったんだね」

「出来ないですよ。だって……葵は私のことを見ていないと思って……」


 そして、葵が晴琉のことをきらきらした目で見つめていたのは私がカメラを撮れなくなった頃と、ちょうど同じ頃だった。言葉を続けられないほどに涙を零す私を、優しく志希先輩は受け止めてくれる。


「よしよし。よく言えたね」


 志希先輩は私の頭を撫でた後、しばらく抱きしめたままでいてくれた。時間が経つにつれ涙も収まり、葵にも晴琉にも見せたことがない弱い自分を見られた事実に恥ずかしさが込み上げてくる。私はもう話題を変えてしまいたくなっていた。


「あの、先輩。すみません。勉強、中断してしまって」

「えぇ?今それ言う?大丈夫だよ~」

「ありがとうございます」

「それより円歌ちゃんは大丈夫?」

「はい、なんかちょっとすっきりしました」

「それは良かった」

「……でも、このままじゃ、先輩に申し訳ないです……」

「え~大丈夫なのに……じゃあ、お詫びでもしてもらおっかな?」

「お詫び?」

「うん」


 志希先輩に抱きしめられていた状態からどうにかして離れようとしていたら、肩を掴まれて向き合う形になって、体は離れたけれど至近距離で目と目が合って――


「こっち見て?……あれ?照れてる?」

「先輩……近い……」

「お詫びなんだから、ちゃんと言うこと聞いてこっち見て?」


 頬に手を添えられて志希先輩の方を向かされる。逸らした目が再び合って……先輩の自信に溢れた目で見つめられてしまうと、やっぱり私は捉えられたように、目を逸らせなくなってしまう。


「今はもう、円歌ちゃんのことを見てるのは私だけだし、私のことを見てるのは円歌ちゃんだけだよ?」


 私は黙って志希先輩に従うように、静かに頷いた。


「うん。分かればよろしい。でも……もうちょっと分からせちゃおうかな?」

「え?……あっ……先輩っ!……ちょっと、待ってっ……」


 志希先輩の口角が上がったのを間近で見たと思ったら、先輩との距離はあっという間に零になった。


「息、出来なっ……」

「すぐ息上がっちゃうんだね……かわいぃ……」


 志希先輩は私の唇に自身の唇を押し付け、私から酸素を奪うようなキスを続ける。苦しくて離れようとする私を先輩はじりじりとベッドの脇まで追い詰めていく……かと思えば体が持ち上げられ、遂にはベッドに押し倒されていた。


「あの……先輩?」


 ようやく唇が離れたけれど、先輩は私を見下ろすように私の体の上に覆いかぶさっていて、その目は色気を含んでいて……私には感じ取ることができないくらい、色んな感情が混ざっているように見えて――


「なんか、ごめん……今、すごく円歌ちゃんが欲しい」


 えっと、その……両親から今日帰るの遅いって聞いてたけれど。


「……先輩、ちょっと、待ってください。私にがっつきすぎじゃないですか?」

「ん-……円歌ちゃんさぁ、私が付き合う時に言ったこと、覚えてる?」

「え?」


 付き合う時に言ってくれたこと?……今はもう、見下ろす志希先輩の欲情が絡んだ目に見つめられ、色気を纏った手で頬を撫でられてしまったら、頭が上手く回らなくなっていて……。


「えっと……」

「本当に嫌だったら、ぶっ飛ばしていいって言ったでしょ?」

「……そんなこと、出来るわけ、ないじゃないですか……」


 弱いところを見られて、優しくされて、それでいて私は既に息が上がっていて冷静になれなくて……志希先輩を拒むなんて到底できなかったし、そんな気持ちは、少なくとも今この瞬間だけはなくなっていた。


「じゃあもう止まらないから」

「……いじわる」


 そう言って志希先輩の顔が近づいていくる。小さな抵抗の言葉を言ったけれど、先輩は嬉しそうにしていて意味なんてなかった。間もなく唇に触れた、柔らかい唇の感触を味わいながらも、頭の片隅に浮かんでしまうのは葵のことで、胸が苦しくて――


(このまま志希先輩に身を委ねたら、葵のことを諦められるのかな――)


 そうしてそのまま抵抗することもなく、志希先輩のことを受け入れてしまった私はきっと、片思いを続ける苦しみから解放されたかっただけなのかもしれない。

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