第3話「梅雨空の告白」



第1話「見つけた足跡」


梅雨入り前の蒸し暑い午後、私と優里さんは職員室に向かっていた。

二十年前の教員写真について、古林先生に聞いてみようと決めたのだ。


「緊張しますね」

優里さんが呟いた声には、期待と不安が混ざっている。手には創作ノートを抱えていた。この数日、物語は急速に進んでいるという。


古林先生は、優しく私たちを迎えてくれた。

「二十年前の教員のことですか?確か写真のアルバムがあったはずです」


先生が古いアルバムを取り出すと、埃が舞い上がった。ページをめくる音が、静かな職員室に響く。


「ここにいました。佐伯純子先生。当時の図書館司書でしたね」

写真の中の佐伯先生は、凛とした雰囲気の女性だった。香月美月さんと一緒に写っていた先生に間違いない。


「実は図書室で、面白い物を見つけたんです」

私は香月さんの手紙のことを話した。もちろん、手紙の中身には触れずに。


「佐伯先生と香月さんは、とても仲が良かったと聞いています」

古林先生は懐かしそうに語り始めた。

「佐伯先生は素晴らしい方でした。生徒一人一人の読書記録を覚えていて、その子に合った本を薦めてくれる。特に香月さんとは、文学談義をよくしていたそうです」


職員室を出た後、私たちは図書室に戻った。

優里さんは窓際に立ち、外を見つめている。


「物語が見えてきました」

優里さんが静かに告げた。

「香月さんは、きっと佐伯先生のことを特別な存在として見ていたのだと思います。でも、それは決して口に出せない想いだった。だから手紙に託したけれど、最後まで渡せなかった」


夕暮れの光が、優里さんの横顔を照らしている。創作ノートには、新しいページが書き加えられていた。


「読ませていただけますか」

私の問いかけに、優里さんは少し躊躇ってから頷いた。


主人公が図書室で出会う司書の先生。本を通じて深まっていく特別な感情。けれど、決して言葉にはできない。そんな思いを抱えながら、卒業の日が近づいていく−−。


「これは、香月さんの想いそのものかもしれません」

私の言葉に、優里さんは真剣な表情で頷いた。


「朝倉さん、この物語を完成させたいのです。二十年前に託された想いの結末を、私なりの形で」


図書室に初夏の風が吹き込み、カーテンが揺れた。

二十年の時を超えて、また新しい物語が紡がれようとしていた。





第2話「受け継がれる言葉」


梅雨前の蒸し暑い昼休み、図書室では読書感想文コンクールの準備が進んでいた。

私と優里さんは、過去の受賞作品を探すため、書庫の奥まで足を踏み入れている。


「これだけの作品が残されているのですね」

優里さんが古いファイルに触れながら言った。埃を払うと、その下から二十年前の受賞作品集が姿を現した。


「あの頃の図書委員会の記録もありますよ」

私がファイルを開くと、香月美月さんの名前があった。図書委員長として、様々な企画を立ち上げていたことが記されている。


「驚きました。この読書感想文コンクール自体が、香月さんの発案だったのですね」

優里さんがページをめくりながら、感嘆の声を上げた。そこには、企画書の原案が残されていた。


『本を通じて心を通わせる。それは永遠に残る贈り物になるはずです』

香月さんの言葉が、今でも強く響いてくる。


「これを見てください」

優里さんが一枚の原稿を取り出した。それは佐伯先生から香月さんへ宛てた、感想文へのコメントだった。


『あなたの言葉には、いつも心を揺さぶられます。その感性を大切にしてください』

丁寧な文字の一つ一つに、温かな想いが込められているのが伝わってきた。


「このコメントの後ろに、何か書かれていますね」

私が指摘すると、優里さんが原稿を裏返した。そこには、香月さんの走り書きのような文字。


『先生の言葉が、私の心を照らしてくれる。でも、この想いは誰にも−−』

後は、消されていた。


「きっとこれが、手紙を書くきっかけだったのかもしれません」

優里さんは創作ノートを開きながら言った。新しく書き加えられたページには、主人公が先生からもらった言葉を大切に綴るシーンがあった。


「優里さんの物語は、現実の出来事とリンクしていますね」

私の言葉に、優里さんは真剣な表情で頷いた。


「二十年前の想いを、できるだけ正確に描きたいのです。それが私にできる、香月さんへの恩返しだと思って」


外から蝉の声が聞こえ始めていた。夏の足音が近づく図書室で、私たちは過去の記録に向き合っている。


「この感想文コンクール、今年は特別な意味がありそうですね」

私が言うと、優里さんは静かに微笑んだ。


「はい。きっと香月さんも、どこかで見守っていてくれると思います」


書庫の窓から差し込む光が、古い原稿を優しく照らしていた。

二十年の時を超えて、言葉は確かに受け継がれていく。









第3話「言葉の向こう側」


読書感想文コンクールの応募が始まって一週間が経った。

図書室には、放課後も生徒たちが訪れ、真剣な表情で本を選んでいく。


「香月さんが始めたコンクールが、こうして続いているのですね」

優里さんが受付カウンターで感想文を受け取りながら言った。その手元には、既に十通ほどの応募作品が積み重なっている。


「美咲さんも応募してくれるといいのですが」

私の言葉に、優里さんは静かに頷いた。先日から美咲さんの姿を見かけていない。


「あ、これを見てください」

優里さんが一通の感想文を手に取った。表紙には見覚えのある名前。美咲さんの応募作品だった。


『母の青春』というタイトル。

選んだ本は、二十年前に佐伯先生と香月さんが読んでいた詩集。図書カードの記録から、美咲さんが探し当てたのだろう。


「この感想文、素晴らしいです」

優里さんが原稿を読み進めながら言った。

「お母さんの高校時代を想像しながら、この詩集に込められた想いを読み解いていて」


私も一緒に読ませてもらう。

美咲さんは、母である香月さんが当時感じていた想いを、娘の視点から丁寧に描いていた。


「このページを見てください」

優里さんが一節を指さした。


『母は図書室で、きっと誰かと心を通わせていたのだと思う。本の中の言葉を通じて、伝えたい想いがあったはず。今の私にも、その気持ちが少しだけ分かる気がする』


「まるで、香月さんの手紙の内容を感じ取っているようです」

私の言葉に、優里さんは物思いに沈むような表情を見せた。


「創作の方は、どうですか」

問いかけると、優里さんは少し俯いてから創作ノートを開いた。


「今、大切なシーンを書いているところです。主人公が自分の想いと向き合うところ」


その時、図書室のドアが開いた。

美咲さんが、少し恥ずかしそうな様子で入ってきた。


「応募作品、読んでいただけましたか」

「はい、とても素敵な作品でした」

優里さんが満面の笑みで答える。


「実は、もう一つお願いがあって」

美咲さんが取り出したのは、一冊の古いノート。

「母の高校時代の読書ノートを見つけたんです。これも、参考にしていただけますか」


私たちは顔を見合わせた。

新しい手がかりは、きっと物語をさらに深めてくれるはずだ。


夕暮れの図書室に、また新しい言葉が加わろうとしていた。





第4話「読書ノートの告白」


放課後の図書室。私と優里さんは、香月さんの読書ノートと向き合っていた。

二十年前の夏、高校二年生だった彼女が綴った言葉の数々。


「このノート、まるで日記のようですね」

優里さんがページをめくりながら言った。本の感想だけでなく、日々の出来事や心情も細やかに記されている。


「佐伯先生との会話も、たくさん書かれています」

私が指摘した箇所には、文学についての対話が丁寧に記録されていた。


『今日、先生とヴァージニア・ウルフについて話しました。私の拙い感想を、先生はいつも真剣に聞いてくださる。その眼差しが温かくて、私の心は言葉で満たされていきます』


「この後のページが気になります」

優里さんが次のページを開くと、そこには詩の創作が綴られていた。


『あなたの言葉は 私の心を照らす光

届かぬ想いを 本の中に隠して

いつかこの気持ちが 誰かに伝わりますように』


「この詩、謎の詩集に挟まれていた言葉と」

私の言葉を受けて、優里さんは詩集を取り出した。確かに、文面が重なる部分があった。


「香月さんは、自分の想いを詩に託していたのですね」

優里さんが静かに言った。創作ノートには、新しいページが書き加えられている。


「私の物語も、大きく変わりそうです」

「どんな風に?」

「主人公が自分の気持ちを詩に込めていく展開を」


その時、美咲さんが図書室に姿を見せた。

「お二人とも、読書ノートの内容はいかがでしたか」


「とても素晴らしい記録でした」

優里さんが答える。

「お母様の繊細な感性が伝わってきて」


「実は、もう一つ見つけたものがあるんです」

美咲さんが差し出したのは、一枚の写真。

文化祭の図書室の展示写真で、香月さんと佐伯先生が並んで微笑んでいた。


「この写真の裏に、日付が書かれていて」

確かに、読書ノートに記された文化祭の日付と一致している。


「お母様は、この日のことを特別な思い出として」

優里さんの言葉に、美咲さんが静かに頷いた。


「母は今でも、高校時代の図書室の話をすると表情が柔らかくなるんです。きっと、大切な想い出なんだと思います」


夕暮れの光が、読書ノートのページを優しく照らしていた。

二十年の時を超えて、母から娘へ。そして私たちへと、想いは確実に受け継がれている。






第5話「文化祭の記憶」


早朝の図書室で、私と優里さんは文化祭の記録を探していた。

二十年前のアルバムには、香月さんと佐伯先生の写真が何枚も残されている。


「展示テーマが『言葉の花園』だったようですね」

優里さんがアルバムのキャプションを読み上げた。図書室全体を一つの庭園に見立て、本から抜き出した珠玉の言葉を花のように飾っていたという。


「この展示、佐伯先生が企画して、香月さんが中心となって作り上げたみたいです」

私が古い議事録を開くと、準備の詳細な記録が残っていた。


「放課後は毎日のように準備をしていたとか」

優里さんの言葉に、私たちは顔を見合わせた。毎日の準備の中で、二人の距離は確実に縮まっていったはずだ。


「読書ノートにも、その頃の記述がありました」

取り出したノートには、香月さんの胸の高鳴りが克明に記されていた。


『放課後の準備で、先生と二人きりの時間が増えていく。一緒に本を選び、言葉を探し、それを形にしていく。この時間が永遠に続けばいいのに、と思ってしまう。でも、それは叶わない願いだと分かっている』


「文化祭当日の記録もあります」

優里さんがページをめくると、そこには感動的な光景が描かれていた。


『展示を見た生徒たちが、本の世界に引き込まれていく。私の選んだ言葉に、誰かの心が触れる。先生が私に向けてくれた笑顔が、この上なく愛おしかった』


「この後のページが」

私が言いかけると、図書室のドアが開いた。


「失礼します」

見知らぬ女性が入ってきた。スーツ姿の、凛とした雰囲気の人だった。


「私は香月美月と申します。娘の美咲から聞いて、伺わせていただきました」


私たちは息を呑んだ。目の前にいるのは、二十年前のヒロインその人。


「懐かしい場所ですね」

香月さんが窓際に立ち、静かに微笑んだ。

「ここで過ごした日々は、今でも鮮やかに覚えています」


優里さんが創作ノートを強く握りしめる。

その物語の主人公のモデルが、今、目の前にいる。


「実は、皆さんにお話ししたいことがあって」

香月さんの声が、柔らかく図書室に響いた。


夏の日差しが、三世代の想いが交差する空間を、優しく包み込んでいた。






第6話「永遠の言葉」


図書室の時間が止まったかのような静けさの中、香月さんは窓際に立っていた。

二十年前と変わらない佇まいに、私と優里さんは言葉を失っていた。


「佐伯先生のことを、調べていたのですね」

香月さんが私たちの方を向いた。その瞳には、懐かしさと共に深い感情が宿っていた。


「手紙のことも、ご存知なのですか」

優里さんが静かに問いかけると、香月さんは優しく頷いた。


「あの手紙は、確かに佐伯先生に宛てて書いたものです。でも、私は最後まで渡すことができなかった。それは、先生が既に誰かを愛していたから」


香月さんがカバンから一冊の本を取り出した。それは、私たちがよく知る赤い詩集だった。


「これは佐伯先生から、卒業式の日にいただいたものです。先生は言いました。私の書いた詩が素晴らしかったからと」


本を開くと、見覚えのある青い栞が挟まれていた。


「実は、この栞には裏側があったのです」

栞を取り出した香月さんが、そっと裏返す。

そこには、佐伯先生の筆跡で言葉が記されていた。


『あなたの言葉は、いつも私の心を照らしてくれました。この想いは、きっと永遠に変わることはありません。だから、あなたも自分の言葉を信じて』


「先生は、私の気持ちを知っていたのですね」

香月さんの声が微かに震えた。

「そして、このような形で応えてくださった」


優里さんの創作ノートが、小さく揺れる。

物語は、思いもよらない方向に進もうとしていた。


「佐伯先生は今、文学研究者として活躍されています」

香月さんが続けた。

「先生から教わった言葉への情熱は、私の中でずっと生き続けている。それは、娘の美咲にも受け継がれているのかもしれません」


夕暮れの光が、赤い詩集の背表紙を照らしていた。


「想いは、必ずしも形として実を結ばなくても、誰かの心に確かに届くのですね」

優里さんの言葉に、香月さんが深く頷いた。


「そうですね。今の皆さんにも、きっと伝えたい言葉があるのでしょう」


私は思わず優里さんを見つめていた。

彼女の創作に込められた想いも、きっと誰かに届くはずだ。


図書室に、静かな風が吹き抜けていった。

二十年の時を超えて、言葉は永遠に生き続けている。





第7話「受け継がれる物語」


香月さんが去った後の図書室には、不思議な余韻が漂っていた。

窓から差し込む夕陽が、赤い詩集の背表紙を今までとは違う色に染めているように見える。


「優里さんの物語は、どうなりそうですか」

私が声をかけると、彼女は創作ノートを静かに開いた。


「最初に考えていた結末とは、違うものになりそうです」

優里さんがページをめくりながら言った。

「想いは必ずしも伝えられなくても、確かに相手に届いているということ。それを物語で表現したいと思います」


机の上には、香月さんから預かった品々が置かれていた。

古い図書カード、文化祭の写真、そして佐伯先生からの栞。二十年の時を超えて、これらが私たちの前に現れた意味を、二人で考えていた。


「不思議ですね」

優里さんが窓際に立ち、外を見つめる。

「香月さんが図書委員長だった時も、この窓からこんな風に夕陽が見えていたのでしょうか」


「きっと同じ景色を」

私の言葉に、優里さんが振り返った。その瞳が、夕陽に輝いている。


「朝倉さん、私の物語を最後まで読んでいただけますか」

「もちろんです」


優里さんは創作ノートの新しいページを開いた。

主人公が図書室で見つめる夕陽。そこに重なる、大切な人への想い。

二十年前の物語と、現在の物語が、確かに響き合っている。


「この作品には、きっと私の全ての想いを込めることになると思います」

優里さんの声には、強い決意が込められていた。


その時、図書室のドアが開いた。

美咲さんが、少し興奮した様子で駆け込んできた。


「大変です。母が話していた佐伯先生のことで、新しいことが分かって」


私たちは顔を見合わせた。

物語は、まだ新しい展開を見せようとしている。


優里さんは静かにノートを閉じた。

「朝倉さん、この先も一緒に」


私は頷いた。

図書室の天井に、夏の夕暮れが深い影を落としていく。

二十年前に始まった物語は、私たちの中で確実に生き続けていた。


二人の影が、静かに重なっていく図書室。

次のページは、きっと私たちが紡いでいくことになるだろう。

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