第2話「新しいページ」
第1話「五月の記憶」
図書室の窓から差し込む五月の陽射しが、本棚に並ぶ背表紙を優しく照らしていた。新緑の匂いを含んだ風が、カーテンを静かに揺らす。
「この棚の整理、終わりましたよ」
優里さんの声に振り返ると、文学全集が新しい順に美しく並べられていた。背表紙の金文字が陽の光を受けて煌めいている。
「さすが優里さん、きれいに揃ってます」
「でも、これを見てください」
優里さんが指さした棚の隅には、見覚えのある古い詩集が置かれていた。先月から私たちの謎解きの相手をしている一冊。不思議なことに、いつも違う場所で見つかる。まるで、図書室の中を漂っているかのように。
「また場所が変わってる」
「はい。昨日は確かに、あちらの文学書の棚だったのに」
私は詩集を手に取った。表紙の手触りは、もう随分と馴染んでいる。ページを開くと、懐かしい青い栞が目に入る。
「そういえば、朝倉さん」
本を整理しながら、優里さんが言う。
「昨日の続き、書けました」
創作ノートを差し出す優里さんの表情が、いつもより少し誇らしげに見える。
この一ヶ月で、優里さんの物語は着実に進んでいた。本好きな少女が、図書室で出会う不思議な詩集の謎。その展開が、現実の私たちの姿と重なることは、もう二人だけの秘密。
「今回は図書委員会の思い出の場面を書いてみたんです」
「思い出...ですか?」
「はい。主人公が、大切な人と過ごした春の記憶を振り返るところ」
その言葉に、私の心が微かに揺れる。
先月から過ごしてきた時間が、走馬灯のように浮かぶ。出会いの日の春風。詩集を見つけた午後。二人で読んだ物語の数々。
「あ、これ」
ノートを読みながら、私は声を上げた。
主人公が見つける古い図書カード。そこには、誰かの心情が読書記録として残されている。
「この設定、素敵です」
「ありがとうございます。実は...」
優里さんが言いかけた時、詩集から一枚の紙が滑り落ちた。
見覚えのない原稿用紙。インクの色が少し褪せている。
『五月の陽射しは、いつも君を美しく照らす。だから私は、この想いを―』
二人で目を見合わせる。また新しい言葉が見つかった。
しかも今回は、季節まで現在と重なっている。
「朝倉さん、この文章」
「はい、私も気になっています」
「まるで、誰かの日記のよう」
優里さんが原稿用紙を詩集に挟み直しながら言う。
「それと...この文章のこと、物語に使わせてもらってもいいですか?」
夕暮れの図書室で、優里さんの瞳が期待に輝いていた。
そこに映る私の姿が、まるで物語の一部のように見えた。
「もちろんです」
答える私の声に、小さな高揚が混ざっていた。
この不思議な物語が、また一歩、前に進もうとしている。
第2話「言葉の在処」
昼下がりの図書室は、いつもより静かだった。午後の授業が始まっているはずなのに、私と優里さんは特別に時間をもらっている。読書週間の準備のためだ。
「この企画、面白そうですね」
壁新聞を作りながら、優里さんが言う。
「みんなのおすすめ本を紹介するコーナー」
黒板に『あなたの心に残る一冊』という文字を丁寧に書きながら、私は昨日見つけた原稿用紙のことを考えていた。褪せたインクで書かれた、誰かの想い。
「そういえば」
優里さんが作業の手を止める。
「昨日の文章、気になって夜も眠れなかったんです」
「私もです」
正直に答えると、優里さんの目が輝いた。
「実は、調べてみたんです」
そう言って取り出したのは、古い図書原簿。
「この詩集が図書室にあった記録を探していたら...」
ページを開くと、そこには驚くべき事実が。
この詩集、二十年前にも同じように登録されていない本として記録が残っていた。
「これって...」
「はい。二十年前から、この詩集は図書室にあったみたいです」
私たちは顔を見合わせた。
長い時を越えて、この詩集は誰かの想いを運んでいる。
その事実が、胸の奥を震わせた。
「あの、優里さん」
「はい?」
「その...物語の方は?」
少し躊躇いながら尋ねると、優里さんは嬉しそうに微笑んだ。
「今朝、新しい展開が浮かんだんです」
創作ノートを開く優里さん。
主人公が図書室で見つける古い記録。そこから紐解かれる、二十年前の誰かの物語。
「現実と、リンクしてますね」
「はい。朝倉さんと一緒に謎を解いているみたいで...」
その時、外から風が吹き込んできた。
壁に貼ろうとしていた原稿が舞い、私たちは慌てて追いかける。
「あ」
原稿を掴もうとした瞬間、本棚の隙間に見覚えのある背表紙が。
例の詩集が、また場所を変えていた。
「ここにも...」
取り出してページを開くと、新しい付箋が挟まれていた。
薄紫色の、古びた付箋。
『言葉にできない想いを、本の中に隠すことにした。いつか、誰かが見つけてくれることを願って―』
「この文章」
優里さんが息を呑む。
「まるで、昨日の原稿用紙の続きみたい」
窓から差し込む陽射しが、付箋の文字を優しく照らす。
二十年の時を超えて、誰かの想いが私たちに届いた瞬間。
「優里さん」
「はい」
「この謎、一緒に解いていきませんか」
答える代わりに、優里さんは創作ノートを開いた。
新しいページには、まだ見ぬ物語が待っている。
第3話「二十年前の想い」
放課後の図書室に、夕立の音が響いていた。
突然の雨に、読書週間の準備は中断を余儀なくされている。
「二十年前...」
窓際で雨を見つめながら、優里さんが呟いた。
「その頃の図書委員さんたちは、どんな人だったんでしょう」
机の上には、私たちが見つけた古い図書原簿が広げられている。
そこには、たくさんの名前が記されていた。
当時の図書委員たちの、丁寧な字跡。
「あ、これは」
私は一つの名前に目が留まる。
「香月 美月...この字、どこかで」
優里さんが身を乗り出してきた。
「そう言えば、昨日の付箋の字に似てません?」
慌ててカバンから詩集を取り出す。
薄紫の付箋と、図書原簿の文字を見比べてみる。
「本当だ...」
確かに、特徴的な字の癖が一致している。
「でも、不思議です」
優里さんが詩集のページを捲る。
「どうして二十年も前の方の文章が、今になって...」
その時、雷鳴が響いた。
一瞬の停電で、図書室が暗闇に包まれる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい...」
暗がりの中、私たちは無意識に近づいていた。
すぐに非常灯が点き、薄暗い光が室内を照らす。
「あれ?」
優里さんの声に、私も気づいた。
詩集から、何かが滑り落ちている。
古ぼけた写真。
制服姿の女生徒が、この図書室で微笑んでいる。
裏には日付と名前。
『1994年 図書委員会にて 香月美月』
「この方が...」
二十年前の図書委員。
私たちに言葉を残した人。
「朝倉さん、見てください」
優里さんが写真を指さす。
背景の本棚に、見覚えのある背表紙が写り込んでいる。
「この詩集...二十年前から、ずっとここに」
「しかも同じように、誰かの想いを運んで」
雨音が静かになっていく中、私たちは見つめ合った。
この偶然は、本当に偶然なのだろうか。
「優里さん、その...」
「はい?」
「今の創作ノート、見せてもらえますか?」
優里さんは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んで頷いた。
ノートを開くと、新しく書き加えられたページがある。
主人公が見つける古い写真。
そこから始まる、二十年前の誰かの恋の物語。
「これって...」
「はい。今日見つけたことを、もう書いてしまいました」
夕暮れの図書室で、現実と物語が音もなく重なっていく。
まるで、時を超えた誰かの想いが、私たちを導いているかのように。
第4話「時を結ぶ栞」
朝の図書室は、いつもと違う空気に包まれていた。
私と優里さんは、昨日見つけた写真を改めて見つめている。
「やっぱり、この本棚ですね」
優里さんが写真を持ったまま、窓際の本棚へ歩み寄る。
二十年の時を経て、本棚の位置は変わっていないようだった。
「同じ角度から撮ってみましょうか」
私の提案に、優里さんが目を輝かせる。
「いいアイデアです。比べてみれば、何か分かるかも」
スマートフォンで同じアングルから撮影する。
画面に映る本棚は、確かに同じ場所。
でも、並ぶ本の背表紙は、ほとんどが入れ替わっていた。
「あ、でもこれは」
優里さんが写真の一点を指さす。
「この赤い背表紙の本、今も同じ場所にあります」
私たちは本棚から、その赤い装丁の詩集を取り出した。
ページを開くと、古びた栞が挟まれている。
「この栞...」
私は息を呑んだ。
最初に見つけた青い栞と、同じ手触り。
「誰かが、大切に使っていたんですね」
優里さんがそっと栞に触れる。
「同じ手作りの栞...きっと、偶然じゃない」
その時、廊下から声が聞こえてきた。
「図書室、開いてますか?」
慌てて写真を詩集に挟み、本を戻す。
朝の開室時間が始まっていた。
来室者の対応をしながら、私は考えていた。
二十年前の香月美月さん。
手作りの栞。
そして、私たちの見つける言葉たち。
昼休み、優里さんが教室に来た。
「朝倉さん、新しいページ、書けました」
創作ノートには、主人公が見つける赤い詩集のことが書かれていた。
そこに挟まれた栞が、過去と現在を繋ぐ鍵になるという展開。
「優里さんって、不思議です」
思わず口にした言葉に、優里さんが首を傾げる。
「現実で起きたことが、すぐに物語になって」
「それは...」
優里さんの頬が、薄く染まる。
「朝倉さんと一緒にいると、言葉が自然と溢れてくるんです」
その瞬間、窓から風が吹き込んできた。
創作ノートのページが、自然とめくられる。
そこには、まだ誰も知らない物語が、静かに息づいていた。
二十年前の誰かの想いと、今ここにある私たちの気持ちが、少しずつ重なり始めている。
「この先も、一緒に...」
優里さんの言葉が、春の陽射しのように温かい。
教室の窓から見える図書室の窓に、午後の光が優しく差し込んでいた。
第5話「重なる足跡」
読書週間の準備で、図書室は放課後も賑やかだった。
新入生たちが、思い思いの本を紹介する文章を書いている。
「みんな、楽しそうですね」
本棚の整理をしながら、優里さんが微笑む。
手には赤い装丁の詩集。昨日見つけたものを、元の場所に戻そうとしていた。
「あの...その本、少し見せてもらえますか?」
一年生の女の子が、おずおずと声をかけてきた。
「もちろん」
優里さんが差し出した詩集を、女の子が手に取る。
「きれいな装丁ですね」
「実は、お母さんが図書委員だった時に、よく読んでいた本らしくて」
女の子の言葉に、私と優里さんは思わず顔を見合わせた。
「お母さんの名前は?」
「香月...今は結婚して苗字が変わりましたけど」
その瞬間、図書室の空気が変わったような気がした。
二十年の時を超えて、想いが繋がる音が聞こえた気がして。
「あの、これ...」
私は鞄から、昨日の写真を取り出した。
「もしかして、このお写真...」
女の子の目が、大きく見開かれる。
「お母さんだ!若い時の写真...どうしてここに?」
説明をすると、女の子は不思議そうな顔をした。
「お母さん、昔の話はあまりしてくれないんです。でも、図書室の思い出は、よく話してくれて」
その時、赤い詩集から一枚の紙が滑り落ちた。
便箋には、優里さんの創作ノートと同じインクの色。
二十年前の想いが、また一つ形になる。
『あなたと過ごした図書室の日々は、私の宝物。いつか、この想いが誰かに届きますように―』
「これ、お母さんの字に似てる...」
女の子が呟く声に、何かの糸が繋がっていく感覚。
「あの、もしよければ」
優里さんが、創作ノートを取り出しながら言う。
「お母さまのことを、もう少し聞かせてもらえませんか?」
夕暮れの図書室で、三人の影が重なっていく。
窓から差し込む光が、赤い詩集の背表紙を優しく照らしていた。
「それと...このことは、お母さんには内緒にしておきたいんです」
女の子の言葉に、私たちは頷いた。
きっと、この偶然には何か意味がある。
優里さんのノートには、また新しいページが加わっていく。
二十年前の図書委員の物語と、今を生きる私たちの物語が、静かに響き合っている。
この瞬間が、かけがえのない一頁になることを、私は確かに感じていた。
第6話「届かなかった言葉」
「香月さんのお嬢さんが、今の一年生だなんて」
図書室の整理をしながら、優里さんが感慨深げに呟く。
昨日の放課後から、私たちの中で何かが変わり始めていた。
「美咲さん...優しい子でしたね」
私の言葉に、優里さんが静かに頷く。
美咲さんは、お母さんの高校時代の思い出を、たくさん聞かせてくれた。
「でも、不思議です」
本を元の場所に戻しながら、優里さんが言う。
「どうして香月さんは、お嬢さんに図書室での想いを話してないんでしょう」
その時、私の手から本が滑り落ちた。
床に散らばったページの間から、古い封筒が現れる。
「これは...」
封筒の表には、『図書室の天使へ』という宛名。
香月美月の サインらしき字で書かれている。
「開けてみましょうか」
優里さんと見つめ合い、そっと封を切る。
中からは、黄ばんだ便箋が出てきた。
『私の想いは、きっと届かないまま終わる。
でも、この図書室で過ごした日々は、永遠に私の宝物。
あなたが本を大切にする姿、
言葉に込められた想いを読み解く瞳、
それらすべてが、私の心の中で輝いている―』
「この手紙...」
優里さんの声が震えている。
「届けられなかったんですね」
私たちは、また顔を見合わせた。
二十年前の想い。
そして、今ここにある気持ち。
「あの、優里さん」
「はい?」
「その...創作の方は?」
優里さんは、少し俯いてから言った。
「実は、書けなくて」
「え?」
「香月さんの想いを知って、主人公の気持ちが...分からなくなってきて」
窓から差し込む夕陽が、優里さんの横顔を染めていく。
「今までは、朝倉さんのことを想像しながら書いていたのに」
その言葉に、私の心臓が跳ねる。
「今は...現実の方が、物語より不思議で」
優里さんの瞳が、夕陽に輝いていた。
「私も」
思わず口にした言葉に、自分でも驚く。
「優里さんと過ごす時間の方が、物語みたいで」
図書室に、静かな空気が流れる。
二人の呼吸が、不思議と重なっていく。
その時、廊下から声が聞これた。
「まだ開いてますか?」
美咲さんが、また図書室を訪ねてきたのだ。
私たちは慌てて手紙を隠す。
けれど、この想いは隠せない。
二十年前の届かなかった言葉が、今を生きる私たちの背中を、そっと押しているような気がした。
第7話「言葉を紡ぐ場所」
五月の終わりが近づく放課後。
私と優里さんは、図書室の窓際で美咲さんを待っていた。
「お母さんの高校時代のアルバムを、持ってきてくれるって」
優里さんの声には、小さな期待が混ざっている。
見つかった手紙の続きを探る手がかりになるかもしれない。
「でも、不思議ですよね」
本棚の整理をしながら、私は言った。
「どうして香月さんは、手紙を渡さなかったんでしょう」
「それが...」
優里さんが創作ノートを開く。
「想像で書いてみたんです」
新しく書き加えられたページには、二十年前の物語が綴られていた。
図書室で出会った特別な人。
でも、想いを伝えられないまま、時が過ぎていく。
「これって...」
私の言葉を遮るように、図書室のドアが開いた。
「ごめんなさい、お待たせして」
美咲さんが、古いアルバムを抱えて入ってくる。
三人で開いたアルバムには、二十年前の図書室の写真がたくさん。
制服姿の香月さんが、本を読む姿。
委員会のみんなで写った集合写真。
「あ」
優里さんが、一枚の写真に目を留めた。
香月さんの隣で、誰かが微笑んでいる。
「この方...」
私も見覚えがある気がした。
「どこかで...」
「廊下の写真です」
美咲さんが教えてくれた。
「歴代の教員写真、覚えてません?」
その瞬間、記憶が蘇る。
優里さんと顔を見合わせた。
図書室に通じる廊下の、古い写真の中の先生。
「まさか...」
手紙の宛先は、その先生だったのかもしれない。
でも、なぜ渡さなかったのか。
その時、アルバムから一枚の紙が滑り落ちた。
図書カード。本の貸出記録。
そこには、香月さんと、その先生の名前が交互に並んでいる。
「同じ本を、二人で読んでいたんですね」
優里さんの言葉に、私は頷いた。
本を通じて交わされた、静かな想い。
美咲さんが帰った後、夕暮れの図書室で私たちは考えていた。
二十年前の想いは、どんな形で残されているのだろう。
「朝倉さん」
優里さんが、決意を込めた表情で言う。
「この物語、最後まで書かせてください」
窓から差し込む夕陽が、二人の影を優しく重ねていた。
この図書室は、いつの時代も、誰かの想いを優しく包んでいる。
そして今、新しい物語が、また一つ生まれようとしていた。
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