2.ねこまんま

 うちの支店でいちばんの若手であり新婚一年目の凪ちゃんは、近々新居を建てる予定らしい。仕事中、資料を作るふりをしつつこっそり家や庭のデザインをチェックしているのを私は知っている。

「鳥井さん、新居はどうですか?」

 休憩中、興味津々に尋ねてくる凪ちゃん。

 新居といっても築七十年の家だ。どこもかしこも古いし、歩くたび床はみしみし言うし、新居という感じがまったくしないけれど。

「まあまあ楽しくやってるよ。猫もいるし」

「猫飼ってるんですか? いいですね、うちも家建てたら飼いたいと思ってて」

「猫?」

 差し入れのマドレーヌを食べていた草刈さんが、ぴくりと反応した。

「その猫、猫ちゅ〜ぶは好きか?」

「へ?」

 猫ちゅ〜ぶ……って、テレビのCMでよく観るアレだろうか。

「いえ、買ったことないので……草刈さん、猫好きなんですか?」

「いや別に」

 草刈さんはそう言うと、ふいと背を向けてコーヒーを片手に自分のデスクに戻く後ろ姿を見ながら、確信した。

 ――あ、絶対猫好きだ、この人。


 さて、今日は何にしようか。

 レシピ帖をパラパラとめくっていると、見計らったようにみりんが近寄ってくる。

 すっかりキャットフードで餌付けされているけれど、野良猫精神は健在らしく、しょっちゅう外を出歩いている。庭の木陰で昼寝していたり、扉を開けた拍子にするりと中に入ってきたりと、気ままな野良猫ライフを満喫しているようだ。

 今日はきゅうりがある。ささみも、かつお節もある。そして、それにぴったりのレシピがある。

『猫と一緒に食べるねこまんま』

 人間用と猫用にちゃんと分けて書いてあるのがなんだか微笑ましい。

 きゅうりを千切りにし、塩をふってしんなりするまで置き、水にさらす。

「猫用のきゅうりは常温に戻して、塩はなし。ささみは少しだけ、と」

 ささみに酒をふって鍋にかけ、火が通ったら繊維にそってほぐして、味噌を塗る。

『ねこまんまは行儀が悪いからやめなさい』

 と、幼い頃母に言われた記憶がある。

 私の地元名古屋では、ねこまんまと言えば関西風のご飯に味噌汁をかけたものだった。関東風のねこまんまは味噌汁ではなく、かつお節でだしを取るらしい。

 ――うちの実家も昔猫を飼っていたけど、一緒に食べるっていう発想はなかったな。

 住む場所が違うだけで、食べるものも食べ方も、全然違う。行儀が悪いと言われていたことですら、場所が変わると普通のことになったりする。

 器にご飯を盛り、きゅうりとささみを乗せて、冷や汁をかけ、かつお節と白ごまを乗せる。

「はいどうぞ」

 床にねこまんまを盛った小皿を置いた。

 福永さんによると、みりんは十歳くらいのメス猫だそうだ。人間にすると五十代後半。なんだか親近感が湧く。

「もう若者とは言えないからね」

 消化しやすいように、自分のより細かく、量も少しだけにした。

 みりんは鼻を近づけ、それから器用にきゅうりをくわえて、おいしそうに食べた。

 その様子を眺めながら、はっと気づく。

 もしかして消化を良くするために野菜から食べている……?

 みりんを見習って、私もきゅうりから食べる。でもすぐに、順番なんて忘れていた。

 ――知らなかった。きゅうりと汁物って合うんだ。

 薄く味噌を塗ったささみと、かつお節のシャクシャク感もいい。夏の終わりにぴったりだ。

 気づけば器を両手にかきこんでいた。

 そうか。行儀なんて気にしなくていいんだ。

 だって、これはねこまんまなのだから。行儀なんて気にしながら食べるほうが、むしろ変なのだ。

 ふう、と空の器を机に置く。

「ごちそうさまでした」

 みりんもあっという間に平らげたかと思うと、すくっと立ち上がって短いしっぽをぴんと伸ばした。居間を出て玄関のほうに歩いていく。

「みりん……?」

 みりんは玄関扉の前に、ちょこんと座っていた。

 外に行きたいのだろうか?

 珍しいな。昼間はあちこち出歩いているけれど、夜は家にいることが多いのに。

 そのとき、気づいた。

 今日は、幸子さんの四十九日だ。

 四十九日は、亡くなった人がこの世からあの世に行く日。

 そして、それまで喪に服していた家族が、日常の生活に戻る日だ。

 幸子さんは、この家から出て行くのか。

 みりんには、それがわかるのだろうか。

 私が扉を開けると、みりんは入ってきたときと同じように、するりと外に出て行った。

 犬は人に執着し、猫は家に執着するという。

 みりんは、家か人、どちらに執着するのだろう。

 もしかしたら。

 もう、ここには戻ってこないかもしれない。

 幸子さんがいなくなった、この家には。

 それでも――

「みりんっ!」

 とことこと夜の街を歩いていくその小さな背中に向かって呼びかけた。

「いつでも戻ってきていいからね」

 みりんは止まらず、でも、手を振るように、しっぽをゆらりと振りながら、夜の街に消えていった。


 翌朝、家を出て、ふと目を留めた。

 塀の上で丸くなって寝ている三毛猫がいた。

 ――帰ってきてたんだ。

 その気持ちよさそうな寝顔に、思わず笑みがこぼれた。

「おかえり、みりん」

 顔を近づけて言うと、聞こえているのかいないのか、みりんは眩しそうに目を閉じたまま、くあーと大きなあくびをした。

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