古民家のレシピ帖
松原凛
1親子丼
緑に囲まれた広い公園のそばに、築七十年になるその古い家はあった。
重厚感のある黒ぐろとした瓦屋根に、石造りの塀。庭には松とハクモクレンがどっしりと構えている。
砂利が敷き詰められた小道を通って玄関の扉を開けると、赤土の三和土があり、上がり框をのぼってそのまま居間へと続く。居間の隣の窓を開けると縁側に出られるようになっていて、廊下の向こうには、小ぢんまりとした離れがある。
その部屋にある東向きの窓だけ、ほかの窓とは違っていた。花のような幾何学模様を描いた線の中に、赤、青、緑、黄色のステンドグラスがはめ込まれている。朝の光を浴びて、その窓は宝石を散りばめたみたいにキラキラと輝いていた。
鳥井遥。五十歳。一ヶ月前、池袋のマンションから、江古田の一軒家に引っ越しをした。前に住んでいたマンションにはエレベーターがなく、四階まで上るのがしんどくなってきた頃。買い物帰りに階段を上っていて、ぐらりと体が傾き階段から転げ落ちそうになって、引っ越そう、と心に決めたのだった。
前のマンションは近くに商業施設があり、たいていのものはそこで揃ったので便利だったが、人通りが多く賑やかな街だった。今住んでいるのは住宅街で、駅が遠くなって通勤に時間がかかるようになったけれど、落ち着いた雰囲気が心地いい。古い街並みがいくつか残っていて、この家もそこに軒を連ねている。
不動産屋のホームぺージを見ると、どこも昔より家賃がずっと高くなっていて、気が滅入っていた。
そんなとき、
『そういえば、営業中に激安物件の張り紙を見ましたよ』
と職場の後輩が教えてくれたのだった。
さっそく行ってみると、普段は通らない道の電柱に張り紙を見つけた。大屋さんの名前と住所、そして、そこに書いてあった情報に釘付けになった。
『三十五坪 百万円 興味がある方はぜひご連絡ください。 福永』
今時不動産を通さず直接大屋さんとやり取りするというのも珍しい。訳あり物件だろうかと不安がよぎった。でも、多少の難があったとしても、東京で、たったの百万で家が買えるのはやっぱり魅力的だった。
『それならぜひ早朝にいらしてください』
電話をかけると、大屋の女性は優しそうな口調でそう言った。
なんで早朝? 疑問に思いつつ、言われた通り朝の七時にその家を尋ねていった。
その理由は、そこに足を踏み入れた瞬間にわかった。朝日が差し込み、ステンドグラスを通してカラフルな光が部屋の隅まで美しく照らしていた。
『見ての通り古い家だから夜はすごく暗いけど、朝の光は本当にきれいなの』
と、大屋の女性、福永さんは目を細めて言った。
そのときにはもう、私はこの家を買おうと決めていた。居間も、台所も、お風呂もトイレも、今まで見てきたどこよりも古かったけれど、そこで暮らしている自分の姿が、いちばん想像できたのだ。
つまり、ひとことで言うと、目惚れだった。
日曜日の午後。居間の掃除を終えて、縁側に腰掛けて冷たい麦茶を飲んだ。八月に越してきたばかりの頃は、暑くて縁側なんて出られなかったけれど、その暑さも少し落ち着いてきて、心地いい風を感じられるようになった。
すぐ隣に離れがあり、目の前では物干し竿に干してある洗濯物が風ではためいている。ひと息つきたいときのちょっとしたテラス席だ。
ハクモクレンは春に花を咲かせるものと思っていたけれど、この家のハクモクレンは秋にも咲くらしい。つやつやとした葉の隙間に、小さな白い花が顔をのぞかせている。
――のどかだ。
のどかすぎて、休日はのんびりしていると、あっという間に一日が過ぎてしまう。
引っ越ししてから一ヶ月。荷物の整理や必要な物の買い物で忙しく、ゆっくり掃除をする暇もなかった。今日は一日がかりで隅から隅まで掃除すると決めている。ひと息ついて、掃除を再開した。
居間の隣に客間と台所があり、その奥に浴室とトイレがある。一つ一つの部屋は銀杏の模様が描かれたすりガラスの扉で仕切られていて、南向きの窓からガラス扉を通して光が反射し、部屋全体を明るく照らしている。
ガラスを拭き終えたら、次は台所だ。焦げ茶色のつるつるした板張りの床がひんやりと冷たくて心地いい。同じ色の二人掛けテーブルと戸棚、シンクはきれいな状態で、すごく大事に使われていたのがわかる。
戸棚に出を伸ばしたとき、指先にコツンと何かが触れた。
――なんだろう、これ。
少し黄ばんだ白い箱だった。開けてみると、小瓶が三つ入っている。
『塩』『砂糖』『胡椒』とそれぞれマジックで書かれた紙がセロテープで張りつけてあり、中にはそれらしき調味料が入っている。
まさか、これを体に振ってくださいとか……いやいや、『注文の多い料理店』じゃあるまいし。
それにしても、業者がきっちりクリーニングをしてくれているはずだけれど、こんな忘れ物があるとは。
数カ月前まで、この家で別の人が暮らしていたのだと実感する。
前の住人は八十代の女性で、一人暮らしをしていたのだが足腰が弱くなり、いまは老人ホームで暮らしていると、一人娘の大屋さんが言っていた。
きっと、几帳面な人なのだろう。調味料は保存状態がよければ五年も十年も長持ちするものもあると聞いたことはあるけれど、知っているだけで、自分ではわざわざ別の容器に入れ替えて、ラベルを貼って、なんて面倒なことはしたこともなかった。そもそも、料理に調味料を使うこと自体、昔に比べると随分減っていた。
最近は照り焼きや塩だれなど、すでに味つけがされた状態で売られている肉や魚も多く、混ぜ合わせるだけで本格的な料理ができてしまう合わせ調味料の種類も多種多様だ。具材と素を入れて、フライパンで炒めるだけ。レンジで温めるだけ。便利になればなるほど、食べるものに手間をかける必要も気力もなくなっていく。一人暮らしならそれで十分だ。どうせ胃の中に入ってしまえば同じなのだから。
前の住人は、そういう手間を嫌わず、きちんと料理をしていたのだろう。
毎日、この台所で。
今度の休みに大屋さんに渡しに行こう。そう思いながら、小瓶の入った箱を戸棚に戻した。
「こちらで注文住宅をご希望ですね」
チェックシートに記入をしながら言うと、向かいに座る若い夫婦が頷いた。
「ええ、子供の入学までにと考えているんですが」
「かしこまりました。では、すぐに打ち合わせに入れるよう準備いたしますね」
ばいばーい、と言う女の子に手を振ってお客さんを外まで見送る。
私の勤める会社は、『柊工務店』という住宅工務店だ。家を建てたいお客さんをの要望を聞いてプランを立てて設計図を作り、建設会社やリフォーム業者に委託するのが仕事だ。全国展開している大手のハウスメーカーに比べると人手が限られていて工期も長くなることが多いけれど、その分取りや設備などを自由に決められて、こだわりを目一杯詰め込めるのが特徴だ。地域密着型の街の工務店として、オーナーさんたちとの関係を大切にし、アフターケアにも力を入れている。
事務所に戻ると、何やら大きな段ボールが目に入った。
「あっ、鳥井さん。さっき林さんがいらっしゃって、ビール頂きました。みなさんで分けてくださいって」
凪ちゃんが嬉しそうに言った。
代々続く酒屋をやっている林さんは、先日二世帯住宅のリフォームを終えたところだった。
「わ、さすが酒屋さん。助かるわあ」
段ボールにギッシリ詰まったビール。なんという眼福……!
「お前、もう仕事のこと忘れてるだろう」
背後からぬっと現れた上司の草刈さんが呆れ顔で言う。
「いいでしょう、喜んだって。こちとら仕事終わりの晩酌くらいしか楽しみがないんですから」
人から言われるのは嫌でも自ら自虐的な言い方をしてしまうのは、たぶん独り身の習性なのだろう。
「別に悪いとは言ってない」
そう言う草刈さんだって、しっかり自分の分を確保して顔が緩んでいるではないか。
「うちの旦那、卵料理に目がないんですよ。最近は卵だって高いのに。しかも卵料理って、三つも四つも使うじゃないですかあ。すぐなくなっちゃうんですよね」
凪ちゃん、本名遠藤凪子、二十八歳。ふんわりとしたボブヘアーにくりくりとした大きな目。小柄なのもあって、なんとなくキノコっぽい。新婚一年目の習性なのか、息をするように愚痴に見せかけたノロケを吐く。
「そんなに卵が好きなら卵かけご飯でいいじゃないの。卵一個で済むし」
と半ば投げやりに答えると、
「それが、火を通してあるふわふわの卵がいいって言うんです。そっちのほうが愛情を感じるからって」
うわ、めんどくさいタイプだ。私が顔を引きつらせていることには微塵も気づかず、どこだかわからない宙をうっとりと見つめる凪ちゃん。
「でもあたし、最近ちょっとわかってきたんです。卵料理って幸せの味がするなあって。黄色があるだけで食卓が華やかになるし」
「幸せの味ねえ」
私にとって黄色のふわふわと幸せで真っ先に浮かぶのはよく泡の立ったビールだが、それは心の中に留めておく。
「あっ、ねえ、草刈さんは卵料理何が好きですか? 参考までに」
と、パソコン越しに尋ねる凪ちゃん。
「うーん……親子丼かな」
草刈さんがキーを打つ手を止めて、言った。
「あっ、親子丼いいですね。よし、今日の夕飯決まりー」
「それはよかったな」
草刈さんが首に手を当ててコキコキ鳴らしながらどうでもよさそうに言う。
草刈敦、五十二歳。二年前に赴任してきた工務店の支店長だ。長身で、黒い短髪に切れ長の目。接客業なのに愛想がなく、いつもどこか疲れた顔をしている。
「お疲れ様でーす」
凪ちゃんは定時ぴったりに立ち上がり、ひらひらと手を振りながら颯爽と帰っていく。さすが新婚だ。スキップまでしている。
外回りに出ていた営業さんたちも次々と帰ってきて報告を終え、六時頃にはみんな退社する。
みんな、一緒に暮らしている家族や恋人がいる。たいてい残るのは、一人暮らし組の私と草刈さんの二人だ。今日中に仕上げておきたい資料があったので急いで打ち込んでいると、
「鳥井、後はこっちでやっとくから帰っていいよ」
六時半を過ぎた頃、草刈さんが言った。
「いえ、私が担当したお客様なので」
「いいからさっさと渡せ。これくらい三十分もあれば終わるから」
そう言われて、じゃあお願いします、と途中まで作った資料を渡す。
草刈さんがうちの支店にやってきたのは、二年前のこと。
草刈さんが来てから、残業がぐっと減った。前の支店長のときは残念できる時間ギリギリまでしていたから、みんな草刈さんが来てくれてよかったと感謝している。少し遠くなってもいいから落ち着きたいと今の家に引っ越しを決めたのも、時間に余裕ができたおかげだった。
ぶっきらぼうだけれど、部下のことを人一倍考えてくれているのがわかる。でも、私は少し心配だった。
「草刈さん」
「ん?」
――あまり無理しないでください。
言いかけた言葉を飲み込んだ。そんなことを言ったところで、きっと余計なお世話だと顔をしかめられるだけだろう。
「……いえ、ありがとうございます。お疲れ様です」
そう言うと、草刈さんはお疲れ、と顔を上げずに言った。
毎日、仕事終わりにスーパーで買い物をしてから家に帰るのが最近の日課になっていた。近くにあるスーパーでは、午後六時半を過ぎると惣菜やパンに半額の値引きシールが張られるのだ。あまり買いすぎると重くて家にたどり着くまでに疲れ果ててしまうから、その日の分だけ買うことにしている。
玄関の扉を開けたとき、風が吹いたように、ひゅっと小さな何かが横を通り過ぎた。
「……猫?」
茶色と黒と白のまだら模様の三毛猫が、中に入っていった。荷物を放り出して追いかけたいところだが、卵が入っているので乱暴に放り出すわけにもいかない。袋をそうっとテーブルに置いて、部屋の中を見回す。
居間の隣、寝室の押し入れの前に、猫はいた。
猫は前足をそろえて座り、じっと押し入れを見上げていた。まるでそこに忘れ物でもあるみたいに。
そろりと近づいても猫は見向きもせず、逃げることもなく、一点だけを見つめている。
「入りたいの?」
答えが返ってくるはずもないが、そう尋ねながら、押し入れの扉を開けた。中には仕切りが二つあり、下の段にダンボール、上の段に布団を入れてある。
と、猫が身軽に跳ねて、トントン、と真ん中、そして上の段に飛び乗った。その拍子に、上から何かが降ってきた。
「痛っ」
それは私の頭に直撃し、そして、畳の上にぽさりと落ちた。
見覚えのないものだった。私のものではない。
また、前の住人の忘れ物だ。
でも、今度は調味料ではなかった。
見た目はアルバムのようだけれど……
『レシピ帖』
白い表紙に黒のマジックで、そう書いてあった。
表紙をめくると、写真を入れるビニールのところに、ハガキサイズのカードが入っていた。料理のレシピカードのようだ。一枚一枚、丁寧に手書きのイラストまでついている。
カレー、里芋の煮物、きんぴらごぼう、親子丼……。
どれも色鉛筆で、丁寧なタッチで描かれている。見ているだけでお腹が空きそうな、おいしそうなイラスト。それに、字もすごくきれいだ。
はっと猫の存在を思い出して押し入れを見上げると、猫がこちらを見下ろしていた。
そういえば。
内見で最初に大屋の福永さんに会ったときに聞かれたことを思い出した。
『あなた、猫はお好き?』
六十歳くらいの、おっとりしていて上品な感じの女性だった。
『はい、まあ。昔実家で猫飼ってたので』
『本当? それならよかった』
ん? よかった?
『もしかしてここ、猫屋敷になってたりします?』
『いえね、そんなことはないのよ。たまあに、野良猫が出入りするくらいで』
『はあ……』
猫の話はそれきりだったけれど、たぶん、いや間違いなく、この三毛猫のことだろう。
野良どころか、この家の主くらいの威厳があるのだが。
もしかして私はあのとき、飼い主として『合格』の判定を受けたのだろうか。私は家を購入しただけで、ペットを買うつもりはなかったのだけれど。
しかしあの目。暗闇の中でキラリと光る眼光が、食べ物をよこせと言っている。
――はあ……なぜこんなことに。
ため息を吐きつつ、私は買い物袋をあさり、食パンを一枚、千切って皿の上に置いた。
猫は警戒するようにしばらくじっとして様子を伺っていたけれど、私がその場を離れるふりをすると見計らったようにぴょんと飛び降りて、皿に鼻先をくっつけるようにして夢中で食べ始めた。
――相当、お腹空いてたんだな。
昔飼っていた猫を思い出して微笑ましくなる。が、こんな餌付けをしてしまったら、本格的に飼うことになるのでは……。
食べ終えると猫はふたたび押し入れに飛び乗り、もう下りて来なかった。そこに居座るつもりらしい。
もふと思った。もしかしてこの猫、飼い主が帰ってくるのを待っているんじゃないか。
でも、前の住人はもう何ヶ月も前に施設に入ったと福永さんは言っていた。
――じゃあ、その間ずっと……?
この家で飼うという選択肢はなかった。実家で飼っていたのは三十年も前だし、自分一人の世話で精一杯なのに、ペットの世話までする余裕はない。
でも、もしそうだとしたら、無理やり追い出すのは気が引ける。この猫は、私よりも前からこの家に住んでいたのだから。
今日はこのままにしておいて、明日福永さんに連絡してみよう。ひとまず、夕食だ。
買い物袋からパックに入った惣菜を取り出す。
――このほうれん草のあえ物、今月何回食べたっけ。
味つけがおいしく気に入っていたのだが、頻繁に食べているうちにさすがに飽きてきて、なんだか味気なく思えてきた。
テーブルに置いた『レシピ帖』に目をやる。どの料理も見ているだけでお腹が空いてしまうような、おいしそうなものばかりだ。
でも、きっと私がそれを作ることはないのだろう。
そこに書いてあるレシピは全部、二人分だったから。
髪を肩の上まで短くしてから、朝の支度が楽になった。薄手のニットにゆるいパンツを合わせて、日焼け止めと下地、オレンジ系の口紅を塗って準備は完了だ。
福永さんのマンションは、江戸川駅から徒歩十五分ほどの場所にあった。
インターホンを押すと、はーい、とスピーカー越しに声がした。
「こんにちは鳥井さん。久しぶりねえ」
にこやかに応対してくれるのは、大屋の福永さんだ。
六十歳を過ぎているけれど現役で仕事をしているらしく、背筋もまっすぐで若々しい。
仕事の挨拶回りなどでよくお世話になっている和菓子屋で購入した饅頭の箱を差し出すと「あら、可愛らしい箱ねえ」と喜んでくれた。
「ごめんなさいね、最近バタバタしてて。散らかってるけど、よかったら上がってちょうだい」
福永さんは夫婦二人暮らしで、息子と娘は家を出てそれぞれ家庭を持っている。旦那さんは自治会の用事で出かけているそうだ。
居間と続きになっている隣の部屋に、黒い大きな仏壇と、その横に小さな祭壇があった。仏壇のほうには黄色の菊の花が、祭壇には花弁を垂らした真っ白な蘭の花が咲いていた。
――あれ。あの祭壇って……。
少し気になったが、今日は渡したいものがあってここに来たのだと思い出す。
「これ、福永さんのお母様のものですよね。押し入れにしまってあったんです」
レシピ帖をテーブルに置くと、福永さんがあら、と目を見張った。
「ごめんなさいね。家具以外は全部片付けたと思っていたけれど……」
ほかにもいろんなものが出てきたけれど、それも持ってきたほうがよかっただろうか。
「こんなの書いてたのねえ。イラストまで。ふふ、母さんらしい」
微笑ましそうにページをめくる。でも、と少し残念そうに続けた。
「もう、たぶん作ることはないわねえ。うちね、宅配サービスを頼んでるのよ」
宅配サービス。最近、テレビやネットでよく宣伝しているのを見かける。献立は年齢ごとに必要な栄養素とバランスを考えて、プロの料理家が考えているのだという。夫婦二人で車もなく、買い物が大変だからと、利用を決めたそうだ。
「でしたら、お母様にお渡ししてもらえないでしょうか。すごく丁寧に書かれているし、きっと大切にされていたと思うので」
「……それはね、もうできないのよ」
福永さんが目を伏せて言った。
「先月、母が息を引き取ったんです」
「えっ」
思いもよらない報告だった。
「施設に入って元気そうにしてたんだけど……ちょうど鳥井さんが入居して少しした頃ね、容体が急変して救急車で運ばれて、病院でそのまま」
「それは……大変でしたね。お悔やみ申し上げます」
福永さんが、悪いわねえ、と困ったように眉を下げた。
「本当は四十九日が終わって落ち着いてから、タイミングを見て言おうかと思ってたの。だって別の場所とはいえ、住み始めたばかりなのに前の住人が亡くなったなんて知ったら、いい気分じゃないでしょう」
「いえ、そんな……」
ようやく気づいた。そうか。まだ四十九日が終わっていないから、仏壇に入っていないんだ。
「母がね、施設に入ってからずっと心配してたのよ。あの家は誰が住むのって。しばらくそのまま空き家にしておくって言ったら、それはだめだって言うの。ちゃんと住む人にお会いして、話をしてから決めてほしいって。まったく、こっちの苦労も知らないで頑固よね」
「どうしてそこまで――」
言いかけて、あ、と気づいた。
「……もしかして、猫のことを心配していらっしゃったんでしょうか」
そう言うと、福永さんが苦笑を浮かべた。
「あの子、もとは野良猫なんだけど、母があれこれ餌をやるものだからよく出入りしててね。最近はほとんど飼い猫状態だったの。うちのマンションでは飼えないから、鳥井さんが住み始める前はちょくちょく顔を出してたんだけど、私には全然懐かないの。でも、あなたは大丈夫だったみたいねえ」
それは、住人として認められたということだろうか。
「鳥井さんみたいないい人が住んでくれて母も安心してるわね……って、安心して逝っちゃったってことじゃないのよ? そういう意味じゃなくてね?」
急に慌てだす福永さん。
「いえ、わかってます」
私は苦笑しながら、そっと白い花が添えられた祭壇に立てかけてある遺影に目をやった。
――福永幸子さん。
今日、初めてその人の名前を知った。なんとも幸多そうな名前だ。
少しうねりのある真っ白な髪。つぶらな瞳に、目尻の優しそうなシワ。三年前、八十歳の誕生日に撮った写真だという。お化粧をして、きれいに微笑んでいる。目元の優しそうな感じが、福永さんにそっくりだ。
絵を描くのが好きで、図書館で絵はがき教室の先生をしていたという。どうりで字も絵も売り物みたいに上手なはずだ。
「あの、もしよろしければ、このレシピ帖、少しの間預からせてもらってもいいでしょうか」
「あなたが?」
福永さんが目を見開く。
変なことを言っているのはわかっている。でも――
「どの料理もすごくおいしそうで、見てたらなんだか、自分でも作ってみたくなってしまって」
私は福永幸子さんという人を知らない。名前も顔も、今日知ったばかりだ。なのに、あの家に住んで二ヶ月、その人のことを、頭の片隅でいつも意識していた気がする。少しずつ、その人のことを知っていくような。
きっと、毎日を丁寧に暮らしていた人。私が疎かにしてきた生活を大切にしていた人。その人の料理を、作ってみたいと思った。
「ええ……少しの間と言わず、もしご迷惑でなければ、もらってあげてください。誰かが作ってくれたほうが母も喜ぶわ」
福永さんは嬉しそうに目尻にしわを寄せて微笑んだ。
祭壇に手を合わせてお線香をあげてから、お邪魔することにした。
「あ、そうそうこれ。玉ねぎ。たくさんもらったから、よかったら持っていって」
と、福永さんがビニール袋にいっぱいの玉ねぎを持たせてくれた。
「ありがとうございます。こんなにたくさん」
ふと思い出して、扉を閉める前に尋ねた。
「福永さん、あの猫の名前ってご存知ですか?」
「そういえば、母がみりんって呼んでたわね」
「やっぱり調味料なんだ……」
「え?」
福永さんが不思議そうに目を瞬かせた。
「いえ、なんでもないです」
私は笑って、頭を下げた。
扉を開けて、誰に言うでもなくただいまと言いながら、玉ねぎの袋をドサッと玄関に置いた。
いい筋トレになったが、こんなに大量の玉ねぎを一人でどう消費しろと。
玉ねぎの賞味期限をネットで調べると、常温保存なら二ヶ月ほどと書いてある。
「一つずつキッチンペーパーにくるんでかごに入れておく。玉ねぎは高温と湿度に弱いので、日の当たらない風通しのいい場所に」
少々面倒ではあったが、すぐには食べきれる気がしないので仕方ない。
玉ねぎをすべてくるみ終えると、忘れていたアラームのようにお腹が鳴った。
玉ねぎで両手が塞がっていたので、スーパーに寄るのを忘れていた。
――作ってみようかな。
レシピ帖を手にとって、パラパラとめくる。
カレー、里芋の煮物、さばの味噌煮、親子丼。
『うーん……親子丼かな』
なぜか、草刈さんの顔がぱっと浮かんだ。ぶっきらぼうで、いつも眠たそうなあの顔が。
今、昨日買った卵と、もらった玉ねぎが大量にある。
それに、そこに描かれた親子丼のイラストが、ふわふわしていてお腹が鳴るほどおいしそうだった。
イラストの下には一言、流れるような美しい字でコメントが添えられている。
『元気が出る親子丼』
思わずクスッとした。
卵料理は幸せの味がすると凪ちゃんは言った。そして、元気が出る親子丼。卵には不思議な力があるのかもしれない。
材料を台所に並べて気づいた。肝心の鶏肉がない。
「結局買い物には行かないとだめか……」
買い物から帰ってきて、腕まくりをして台所に立つ。
こんなにちゃんとレシピで分量を測って料理をするのは、随分久しぶりだった。
昔、一緒に暮らしていた人がいたときは、毎日献立に悩み、レシピを見て、栄養バランスや見た目を考えながら料理をしていた。その関係を解消してからは、何もかも面倒になってしまった。
毎日デパ地下に寄って食べきれないほど惣菜を買い込み、値段など気にせず高いものを買って、たくさん無駄にもした。やけになっていたのだ。そんな生活を何年も続けるうちに、嫌気がさしてしまった。転職をして、住む場所も変えて、最近は老後のことを考えて少しは節約もするようになった。しかし料理だけはあまりやる気にならなかった。一度怠け癖がついてしまうと、なかなか抜け出せないものなのだ。
レシピの手順通りに進めていく。
鶏肉を皮の部分を下にして角切りにし、玉ねぎはくし切りに、三つ葉はざく切りにする。フライパンにサラダ油を入れて中火で熱し、鶏肉、玉ねぎをしんなりするまで炒めて、水、しょうゆ、砂糖、だしを加える。鶏肉に火が通ったら、溶いた卵をゆっくりと回し入れる。
「卵は二回に分けて入れること」
なんだか、実家の母に料理を教わっているみたいで、小さく笑みがこぼれた。
ちょうど、炊飯器がピーッと音を立てて炊き上がった。大きめの器に炊きたてのご飯をよそい、フライパンを傾けてとろとろの卵をたっぷりとかけて、その上に三つ葉を少し多めに散らしたら出来上がり。
「いただきます」
手を合わせて箸を持ち、あつあつのご飯と半熟卵を一緒にして口に入れる。鶏肉も卵も玉ねぎも柔らかくて、喉が鳴るほどおいしかった。
『元気が出る親子丼』
本当だ。凝った手順も特別な材料もない、ごく普通の親子丼なのに。久しぶりに自分で一から料理をしたからか、ご飯ってこんなにおいしかったっけと感動するほどおいしかった。
むくむくと沸き上がるような元気じゃなく、体の内側から温まって芯まで柔らかくほぐしてくれるような。そして、誰かに思わず「おいしいね」と言いたくなるような。
「ニャア〜」
匂いにつられたのか、どこからともなくみりんがやってきた。つぶらな黒目と鼻先を光らせて、じっとこっちを見つめている。少し恨めしそうに。
「あげたいけど、猫って玉ねぎ食べちゃダメなんだよね」
スーパーで猫缶を買ったことを思い出して、皿によそうと、クンクンと鼻先を近づけてから、かぶりついた。
「おいしいね」
声に出して言ってみた。
おいしい。
ご飯を食べておいしいと思うことを、忘れていた。
お店の料理も、スーパーの惣菜も、もちろんおいしいし、手間がかけられている。
これまで、目の前の料理を、ただ空腹を満たすだけに食べていた。短時間で、簡単にできるものがいい。誰とも話さず、部屋では外の世界をシャットアウトして、疲れた体に栄養ドリンクを取り込むみたいに淡々と食事を繰り返していていた。
でもこの古い家では、最初から一人じゃないような気がしていた。私より前からいたまだら模様の三毛猫と、姿は見えないけれどそこかしこに存在を感じる、もう一人の女性が。
怖くはなかった。むしろ、温かいと思った。会ったこともないその人が、そばでそっと手を差し伸べてくれているような気がした。
器いっぱいに盛った親子丼は、あっという間に空になった。フライパンに残っているもう半分の具を皿に移し替えて、ラップをする。卵が固くなったら追加して温めて、また柔らかくすればいい。
ずっと二人分の料理を作るのを避けていた。
必要ないから。一人暮らしなのにもったいないから――。
過去の傷なんてとっくに癒えていたはずなのに、残っていたのはくだらない意地だけだった。
誰かのためじゃなくてもいい。明日の自分が楽をするためにもう一人分作ったって、いいじゃないか。
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