第1話 使徒
「正義と悪、これはよく聞く言葉ですよね。しかし、これはこの世に本当に存在するのか」
この授業だけは睡魔が襲ってこない。なぜだろうといつも思考を巡らせるが、納得のいく答えは出ないままだ。広い教室に数人の生徒と1人の教師。教師は机に伏せている俺に対して、注意することはしない。いつか「時間は有限だから」と言っていた。流れる言葉に耳だけを傾ける。
「例え話をしましょう。1歳にも満たない乳児を死亡させた罪で母親が問われました。原因は餓死、低体温症。しかし母親はリストラで会社をクビになり、彼氏にも逃げられた。電気代も食費も払えない。生活保護を申請しようにも、家族には知られたくなかったために躊躇っていた。この場合、誰が悪いでしょうか」
「母親の危機管理能力が欠けていたから、子供は死んでしまった。直接的に悪と認定されるのは母親です」
真面目な生徒が手を挙げて発言した。新学期の頃に自己紹介をされたが、もう名前と顔が一致しなくなった。そいつは自信満々に答えたつもりだろうか、強い口調だった。教師は興味がないようで淡々と言った。
「罪状だけでは世間はそう判断するでしょうね。あくまで例で前座なのでそう熱くならないでください。正義と悪。生命に余裕のある私たちが殺人は正しくないという認識が、戦時下になれば少なくとも人を殺すことを容認し、あまつさえ賞賛している。正義と悪とは、非常に概念が人や時代によって流されやすい脆いものです。1度自分の意思がどれだけ固いか、試してみるのもいい機会ではないでしょうか」
話し終わったところで終業のチャイムが鳴った。今日はここまでと教師が言うと、挨拶もなく皆散っていった。教師はそれも咎めない。俺はまだ机に伏せている。体が重い。起こそうとすると、教師が俺の方に歩み寄ってくるのが見えた。
「今日はどうでした?」
乾燥した唇を舐め、俺は抑揚のない声で答えた。
「内容は面白かったです。ただ先生にしては抽象的な課題でしたね」
「取り上げるか迷ったんですけどね。ボイレコ、今日も使ってるんでしょう?またじっくり聞き返してください」
そう言い、教室から出ていこうとする教師に、顔を腕にうずめたまま俺は質問した。
「先生は、俺がこんな不真面目な態度をとっているのに、怒らないのは授業を進めたいからですか。他の先生はわざわざ手を止めて、俺に説教してきますけど」
「答え合わせのつもりですか?」無愛想な顔だが、嬉しそうな声だった。「怒っても何も変わりはしないし、お互い疲れるだけですし。それに君は授業を妨げていないのに、止める理由もないでしょう」
また今度、と言うと彼は足音と共に教室を後にした。こわばっていた筋肉から力が抜けていく。大人と接するのは難しい。なんとなく考えていることは検討がつくが、どこに地雷があるかわかったものじゃない。その点、あの教師は生徒を優劣で判断しないし、お咎めも叱りも賞賛もしないから、話はしやすい。3分ほど経つと、もう一度チャイムが鳴った。窓から差し込む西日で、さっきの授業は6時間目かと思い出す。HRが始まった時間だが、間に合わないし、行く気もない。
椅子の背もたれに寄りかかると、ふと、俺1人だけの空間に、気配がした。重い頭を後ろに振り向かせると、背の高い女が1人。このクソ暑い夏にロングコートを着ていて、膝下までありそうなロングブーツを履いている。髪型も変だ。左半分はショートヘアだが、右半分は腰までの長さがある。最近、何度も俺の前に現れたからか、珍しく特徴を覚えてしまっていた。だが、そいつは何も喋らない。
「おい。いいかげん何とか話せよ」
微動だにしない。俺を、髪色と同じ深緑の目でじっと見ている。こいつ、授業中もいたのだろうか。皆が気づいていないなら、俺にしか見えていないのか。
「なあ、なんで一言も喋らないんだよ。いつの間にかいなくなってるしさ。俺の幻覚なのか、お前」
ゆっくり立ち上がり女に近づく。
「悪いな、それ残像だ」
声のした方を向くと、もう1人のあいつが、外を眺めながら窓にもたれていた。
「どうもラグが起こっているらしい。時間は考慮したつもりだったんだが。声と動作、問題ないか?」
女は平然と低く、荒い口調で話し始めた。もはや女と呼べないが。あいつの姿はホログラム…なのか?教室の後ろにいるほうは見ると消えていた。窓際にいるほうに視線を向けると、影はついているし、光も当たっていてまぶしそうに目をしかめている。どう見ても実体があるようにしか思えなかった。
「お前、誰だ?俺のまわりウロチョロしやがって。邪魔なんだよ」
「ここまで言われるとは心外だな……
小馬鹿にした様子で俺の名前を口にした。背筋が凍る。なぜだ。いつから知っている?俺の生活をのぞいていたからか?いや監視が正しいか?
「プライベートに踏み込むなど野暮ったいことはしてないさ。疑心暗鬼なのは変わらないな」
俺の考えはすべてお見通しか。下手に隠し事はできないようだ。
「俺のことは後だ。お前自身について話せ。それしか興味はない」
「ああ、そうだな」
忘れていたとでも言いたいかのように、俺に体を向け、ポケットに手を突っ込んだまま、口を開いた。
「
「後見人?」
「これ以上喋ることはできない。…ああ、そうだ。もう1つ」
「何だ」
女――紫都は、俺を見据えた。
「貴様の血縁者を探している。協力してもらいたい」
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