第4章: ずっといっしょだよ
ある朝。
メイが、僕を見つめていた。
「……」
目が、焦点を結んでいる。
虚ろではなく、明確な意思を持った目で、確かに僕を映していた。
「メイ?」
呼ぶと、彼女の唇がかすかに動いた。
「……ここ……どこ……?」
はっとする。
ついにメイが意識を取り戻した。
だけど、それは同時に、僕の手の中で完全に壊れてしまったはずの彼女が、再び「自分」というものを持ち始めるということでもあった。
彼女は、今、僕を見ている。
この瞳が、どんな感情を宿すのか。
その答えを知るのが、怖かった。
もし、怯えられたら?
もし、逃げようとしたら?
もし、「助けて」と言われたら——。
「……あなたは?」
メイが、小さな声で尋ねた。
胸が高鳴る。
僕を、知らない?
「メイ……覚えてない?」
彼女は、小さく首を振る。
「……何も……思い出せない……」
心臓が跳ね上がるのを感じた。
目の前の彼女は、僕を知らない。
過去も、何もかも、覚えていない。
逃げようとするどころか、不安そうに僕を見つめている。
まるで、迷子の子どもみたいに。
——ああ、なんて素晴らしい。
僕はゆっくりと微笑んだ。
「……メイ。」
優しく、彼女の手を包み込む。
「大丈夫だよ。僕がずっとそばにいるから。」
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
「……あなたは……?」
言え。言ってしまえ。
「君の夫だよ。」
静かに告げる。
決して焦ってはいけない。
ここで欲を出してしまえば、せっかく手に入れたものが壊れてしまう。
ゆっくりと、確実に。
メイが僕を求めるようになるまで。
僕なしでは生きていけないと、心の底から信じ込むまで。
——僕は、待っている。
***
夫。
この人が?
……分からない。
でも、私のことを、こんなに大事そうに見つめてくれる。
この温もりは、嘘じゃない。
私は、記憶を失ってしまった。
何もかも分からない。
だけど、この人はずっとそばにいてくれる。
「……ごめんなさい。」
思わず、そう言うと——。
「謝ることなんてないよ。」
彼は、優しく微笑んだ。
その笑顔に、胸が少しだけ温かくなる。
「ゆっくりでいいから。僕が全部、教えてあげるよ。」
***
時間が経つにつれ、私はこの人——マサシに少しずつ慣れていった。
マサシは、いつも私の世話をしてくれた。
食事を作り、髪を梳かし、そばにいてくれた。
「メイ、今日はスープにしようか?」
「うん。」
優しい。
穏やかで、静かで、包み込むようなぬくもり。
私は、この人とずっと一緒だったのかもしれない。
記憶はないけど。
きっと、そうだったんだ。
***
カサコソ、カサコソ。
庭の草木が揺れる音がする。
私はベッドの上で本を閉じ、そっと顔を上げた。
——鳥? 小動物かな?
ふと、気になった。
ここでの暮らしには、何一つ不満はない。マサシがそばにいてくれるし、私は何も考えなくてもよかった。
それでもたまに、こうして外の気配が気になることがある。
小さな好奇心が、胸の奥で静かに芽吹く。
私はゆっくりと立ち上がり、バルコニーへ向かった。
扉を開くと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
バルコニーの柵の向こうには、木々が揺れる静かな森が広がっていた。
どこまでも続く緑。
その先には、何があるのだろう。
……私は、ここに来る前、どこにいたんだっけ?
考えてはみるものの、霞がかかったようにぼんやりとした記憶。
ただ、この景色を見ていると、何か思い出せそうな気がした。
そっと手すりに触れる。
そのまま一歩、足を踏み出そうとした——。
「——メイッ!!!」
マサシの叫びが、私を引き戻した。
驚いて振り返ると、マサシが部屋の中から飛び出してきた。
彼の目は、恐怖に染まっていた。
「メイ……!」
マサシは駆け寄ると、私の手を掴んだ。その手は、ひどく震えている。
「……ダメだよ、メイ。外に出たら……ダメなんだ……!」
「……どうして?」
私は戸惑いながら尋ねた。
彼は、私の肩を掴む手に力を込める。
「お外はね、危険がいっぱいなんだよ。……君はここにいた方がいい。僕が守るから。だから……お願い、どこにも行かないで……」
その声は、懇願に満ちていた。
私は、はっと息をのんだ。
マサシがこんなふうに取り乱すなんて、初めてだった。
彼はいつも穏やかで、優しくて……私のすべてを包み込んでくれるような人だったのに。
それが今、こんなにも必死に、私にすがるような顔をしている。
——マサシは、私のことをこんなにも心配してくれているんだ。
それが、胸にじんと染みた。
そうだ。私は、何も思い出せない。
だから、何が正しくて、何が間違っているのかも分からない。
でも——マサシが言うなら、きっとそうなのだろう。
外は危険で、私はここにいるべきなのだ。
私を守ってくれるのは、マサシだけ。
「……マサシ。ごめんなさい。もうしないから。」
そう言うと、マサシはぐっと唇を噛んで、私の肩を抱きしめた。
「……お願いだから……どこにも行かないで……」
私は、彼の震える肩を抱き返した。
***
その夜。
「マサシ。」
彼が、振り向く。
私は、そっと彼の袖を握った。
「ずっと……いっしょにいてくれる?」
確かめるように、小さく尋ねる。
マサシは、一瞬驚いたように目を見開いた。
——そして、次の瞬間、私を強く抱きしめた。
「もちろんだよ。
僕はずっと、君のそばにいる。
永遠に。」
「……愛してるよ、メイ。」
囁くような声とともに、彼の指が頬をなぞる。
そのまま、唇が触れた。
——あたたかい。
マサシの温もりが、私の中にゆっくりと溶けていく。
優しくて、切なくて、溺れるようなキス。
そっと目を閉じる。
心が、満たされていく。
——幸せだな。
マサシがそばにいてくれるなら、それでいい。
私たち以外、何もいらない。
ここにいるだけで、もう何も——。
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