第33話
静かな部屋の向こうで電子音が響いてきた。レンジの音だろうか。水希が何か作っているのかもしれない。
「一緒に行ってくれるかな。ユズじゃない、わたしと」
柚希の声は不安そうだった。ここで「行ってくれる」と答えることは簡単だ。だが、その気持ちをパピに聞いたわけではない。今のパピがユズのことをどう思っているのか、それを確かめたことはない。以前ほどユズのことを気にしていないのは明らかだ。
「それは会ってから聞いてみようよ」
「会ってから……」
「そう。みんなとまた会うでしょ?」
「……わからない」
「わたしとは会ってくれたじゃん」
「それはシグが会いに来てくれたからでしょ」
柚希が苦笑する。そして「でも、どうしてあの病院に?」と思い出したように首を傾げた。
「わたし、たぶん病院に通ってることは誰にも言ってないと思うんだけど。それとも、シグには言ってた?」
「ううん。ミユさんから聞いて」
「ああ、ミユさんから」
柚希は納得したように頷いた。その反応が知砂やパピのときと違うような気がする。
「もしかしてミユさんのことは覚えてるの?」
「病院で会ってたっていうのは覚えてる。あと大切な人が意識不明で入院してるってことも。前に一度、病院でばったり会ったときに思い出したんだけど」
「ああ、うん。そのあとでカフェで会う約束したんだよね」
時雨はそう言うと静かに息を吐いてから「ミユさんも、すごく心配してたよ」と続ける。
「あのときはユズのことを気に掛けてあげられなかったって」
「そんなこと……。きっとミユさんの方があのときはずっと辛かったんだと思うし」
「うん。でも、今はもう大丈夫だよ」
時雨の言葉に柚希は「彼女さん、大丈夫だったの?」と顔を上げた。時雨は笑みを浮かべる。
「うん。退院して今は一緒に住んでるみたい。ご両親ともちゃんと話ができたって言ってた」
「そっか。良かった」
心から安堵したように柚希は微笑む。
「そこは覚えてたんだね」
「え?」
「ミユさんの大切な人が彼女さんだって」
「ああ、うん」
柚希は頷くと優しい表情を浮かべた。
「なんか、彼女さんの話をしてるときのミユさんのことは覚えてて」
「そうなんだ」
「ミユさん、すごく辛そうだったけど彼女さんとの思い出を話してるときだけはすごく幸せそうだった」
うん、と時雨はミユが彼女の話をしているときの様子を思い出しながら頷く。そして「そういえば」と続けた。
「今度ね、彼女さんと会わせてくれるってミユさん言ってたよ」
「へえ? ミユさんともそんなに仲良くなったんだね」
「そうじゃなくて、ユズが戻って来たらみんなに会ってもらいたいって言ってた」
「わたし……?」
「そう。ミユさんもずっと待ってる」
柚希は口を閉ざし、さらに強く膝を抱え込んでしまった。そのまま何も話さない。ドアの向こうでは微かに包丁がまな板に当たる音が聞こえてくる。その音に紛れるように柚希が浅くため息を吐いた。
「みんなが待ってるのはユズ、だよね」
ポツリと彼女は言った。時雨は答えず、ただ彼女を見つめる。その彼女の横顔がコスモス畑での彼女の横顔と重なる。
風に揺れるコスモス。そして夕焼けに照らされたどこか切なそうなユズの顔。あのときはよくわからなかった。だが、今なら分かる。
「わたしとユズが二人で一緒に遊びに行ったのって、あのコスモス畑のときだけなんだよね」
時雨が話し始めると柚希は不思議そうに視線だけを向けてきた。構わず時雨は続ける。
「それでもみんな、わたしがユズと一番仲が良かったって言うの。変だよね。本名も知らなかったし、リアルでの連絡先だって知らないのに」
柚希は何も言わず、ただじっと時雨の言葉を聞いている。時雨は微笑みながら続けた。
「最初はみんなとユズとの話を聞けば聞くほど、みんなの方がユズと仲が良いじゃんって思ってた。でも、今こうしてユズの話を聞いてちょっと分かった気がする」
時雨は話しながら目を閉じた。瞼の裏に浮かんでくるのは真っ赤な夕焼け。
「コスモス畑に行った日、帰る前だったかな。すごく夕焼けが綺麗でさ。二人でぼんやりベンチに座ってたんだよね。そのときわたしがユズに聞いたんだ」
「――なんて?」
掠れたような柚希の声。時雨は目を閉じたまま「どうしたら誰かに必要とされる人になれるかなって」と続けた。
「リアルじゃなくてもいい。ネットの中でだけでもいい。誰かに必要とされる人になるにはどうしたらいいかなって。そんなこと聞いたんだよね」
「ユズは、なんて答えた?」
「……わたしもその答えを探してるって」
真っ赤な夕陽に照らされてそう答えたユズの横顔は、その日見た彼女のどの表情とも違っていた。あのときだけ彼女はユズではなく柚希だったのかもしれない。
――もしわたしの何かが変わってもシグはわたしのこと必要としてくれる?
そう言って微笑んだ彼女は寂しそうだった。あのとき彼女は苦しんでいたのだ。一人で、誰かに相談することもなく。
誰かに必要とされる存在になれたら、その誰かに背中を押してもらえたら手術を受ける勇気が出るかもしれない。きっとそんな想いを抱えていたに違いない。
自分と柚希は似ている。だが、柚希の苦しみの方が時雨よりも遙かに深い。だからこそ彼女と距離を感じてしまっていたのだ。
「きっと、みんながわたしとユズが一番仲が良かったっていうのは求めるものが同じだったからなんだね。あと何度か会う機会があればさ、わたしとユズは友達になれてたかもしれない」
その瞬間、柚希は悲しそうな表情を浮かべた。
「もう、友達にはなれない?」
「そうだね」
ゆっくり、時雨は頷いた。
「わたしがもうユズじゃないから?」
「うん。ユズはもういないから」
柚希は泣きそうな表情で「そう、だね」と頷いた。
「みんなが必要としてるユズは、もういないもんね……」
「だから、わたしは柚希のことを知りたいな」
すると柚希は目を大きく見開いた。
「わたし?」
「そう。ユズはさ、きっかけを作るためのキャラだったんでしょ? ずっとユズのままでいようとは思ってなかったはずだよ。だって、ずっとユズのままだと柚希が探してる『本当に誰かに必要とされる存在』にはなれなかったはずだもん」
柚希はしばらく時雨を見つめていたが何を言うでもなく、顔を俯かせて黙り込んでしまった。しばらく沈黙が続いたあと彼女は静かに口を開く。
「――みんなが求めてるのはユズでしょ?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「どういう意味?」
柚希が眉を寄せる。
「話を聞いてて思ったんだ。ユズの中にはやっぱり柚希がいて、みんなの心に響いていたのはユズと柚希、両方の存在だったんじゃないかなって」
「わたしも?」
柚希の表情が少し明るくなる。時雨は「少なくともわたしはね」と笑みを浮かべる。
「ユズはいなくても柚希がいる。わたしにはそれがすごく嬉しい。だって、わたしには柚希が必要だから」
時雨は手を伸ばしてそっと柚希の手に触れる。彼女の細い手は冷たい。そんな手を握りながら「みんながどうなのかは会って聞いてみようよ」と時雨は彼女に言った。しかし柚希は「会ってくれるわけないよ」と視線を俯かせる。
「ずっと連絡もしてなかったのに。それに会ってくれたとしても、こんなわたしを見たらガッカリする」
「そんなこと会ってみないとわからないよ」
「みんなのこと、ろくに覚えてないんだよ? そんなのひどいじゃん。ユズはもういない。残ってるのはこんな根暗でつまらないわたしだけ。せめて記憶が戻るまでは――」
「入るよ」
そのときノックもなく水希が部屋に入ってきた。
「夜食作ったんだけどさ、食べる? ガーリックトースト」
「……寝る前にガーリックトースト」
「美味しそうですけど」
「向こうに用意してるから食べなよ。お腹減ってると元々ネガティブなのがもっとネガティブになるし」
「立ち聞き?」
「柚希の声がでかいからでしょ」
言いながら彼女は時雨に視線を向けた。
「思い出話は終わった?」
「あ、はい。だいたい」
「そ。良いタイミングだったね。早く食べよう」
「そうですね。行こう? 柚希」
「……うん」
柚希と一緒に部屋を出るとスマホにDMの通知が届いた。時刻はすでに深夜を回っている。こんな時間に誰だろうと不思議に思いながら開くと、その差出人の名前はユズだった。
「え、なんで……」
「水希!」
時雨の声と柚希の声が重なった。思わず振り返ると水希がスマホを手にして「なに」と無表情に柚希を見返していた。
「これ、あんたでしょ!」
「いいじゃん。話は終わった。あとは会うだけ。相手の反応なんて予想してもネガティブなことしかイメージできないんだから無駄だって。さっさと会ってダメならダメで別の手を考えればいいじゃん」
「そんなの……」
「もうさ、怖がるのはやめなよ。柚希はもう一人じゃないでしょ」
水希が微笑む。まるでユズのような優しい笑顔で。
「水希がいるから?」
「隣にもいるじゃん。執念の女が。ってか、いつまで手握ってんの? 見せつけてんの? なに、わたしって邪魔?」
水希の言葉に時雨と柚希は顔を見合わせ、吹き出すようにして笑った。水希は呆れたようにため息を吐くと「スープ淹れてくる」とキッチンへ移動する。時雨は柚希を見つめながら「わたしね」と彼女の手を強
く握る。
「ユズと話してると楽しかった。すごく落ち着いたし、すごく穏やかな気持ちになれた。生きててもいいんだって思えることができた。でも、それはユズだからじゃなかったみたい」
ユズとはまるで性格が違う柚希。しかし彼女と話していてもその気持ちは変わらない。楽しいし落ち着く。それと同時に今では彼女の支えになりたいとすら思っている。
「それはさ、きっと柚希がわたしのことをちゃんと見てくれてるからだって思った。わたしは柚希がいてくれたら前に進める。そんな気がするんだ」
「それは、ユズじゃなくてわたしが必要ってこと?」
時雨は頷いた。そして少し照れながら首を傾げる。
「柚希にとってのわたしも、そうなってくれたら嬉しいけど」
「――なってるよ」
ほとんど泣いているような笑みを浮かべながら柚希はそう答えた。
「きっとあのコスモス畑であの質問をしてくれたときから、わたしの中でシグは必要な存在になってたんだと思う。自分と同じものを探してる子。迷子みたいな顔をしてわたしのことを見てた子。わたしが支えてあげなくちゃって、そう思ったんだよ」
「思い出したの?」
しかし柚希は首を横に振った。
「そんな気がするだけ。でも、きっとそうなんだよ」
「そっか……」
時雨と柚希は見つめ合い、そして笑みを浮かべる。
「じゃあ、とりあえず丸く収まったところで早く食べよう。トーストのカリカリ感が失われちゃう」
「水希……」
「雰囲気が……」
「はいはい。ごめんごめん。さ、早く食べよう」
よほど空腹なのか、水希はスープをテーブルに置くと時雨と柚希の肩を押して座らせた。
「あ、お茶もいるよね。あとヨーグルトも合った方が消化にいいかな」
そう呟きながらキッチンに戻っていく水希に柚希はため息を吐きながら立ち上がると「わたしも手伝うから」と声をかけながらキッチンへ行ってしまった。
――やっぱり水希さん、柚希のこと大好きだ。
微笑みながら二人の姿を見つめてから柚希はスマホに視線を向ける。
『明日の二十時。あの駅前のファミレスで会おう ユズ』
『いきなりすぎ。行くけど 知砂』
『明日ってマジで急なんだけど。バイト休まないとだからわたしの分はユズの奢りね パピ』
『先に行って席取っておくね ミユ』
「……みんな反応早すぎ」
思わず微笑みながら時雨もメッセージを入力する。
『みんなで会おうね シグ』
「シグ、早く食べないと柚希が全部食べるって」
「え、柚希ってそんなに食べるの? 太るよ?」
「食べないよ!」
テーブルに戻って来た二人と笑い合いながら時雨はメッセージを送信した。
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