第13話

 だが、翌日どころかそれ以降も彼女は同じ時間にやって来た。葉月が少し時間に遅れると怒られたことすらあった。

 彼女が病院に来るのは決まって平日。土日は現れない。

 彼女と話をするのは平日の十四時から十分程度というわずかな時間。彼女とはいろんなことを話したがプライベートなことには踏み込まない。そんな関係は初めてで、とても居心地が良かった。

 会話を重ねるうちにSNSの話題になり、葉月がアカウントを持っていないことを告げると「じゃ、作っちゃおう。そうすればもっと気軽にいろいろ話せるよ」と背中を押してくれた。


「アカウント名って本名とかでいいの?」


 よくわからずに聞くと彼女は「いや、まあそういう人もいるかもしれないけど普通は違う」と苦笑を浮かべた。


「あなたはなんて言うアカウント名?」

「ユズ」

「ユズ……」


 呟いてから葉月は「そういえば」と続ける。


「あなたの名前、知らないかも」

「ですよねー。わたしもお姉さんの名前知らない。別に呼ばなくても不自由なかったし」


 言って彼女は笑った。たしかに会う時間は短く、会えばすぐに他愛もない会話を話して解散するだけだったので不自由はなかった。


「名前、聞いてもいい? ユズちゃん」


 葉月が言うと彼女は「もうユズって呼んでるからそれでいい気もしますけど」と笑いながらも本名を教えてくれた。しかし結局、彼女のことを本名で呼んだことはない気がする。ユズもユズで葉月の名前を呼んだことはない。なぜならこのやりとりの直後に「ミユ」というアカウント名を二人で決めたから。

 この日からユズは葉月のことを「ミユさん」と呼ぶようになった。そしてSNSでもユズとやりとりをするようになって葉月の心は少し晴れやかになり、同時に虚しくもなった。


「……ミユさん、最近また元気ないね」


 いつもの病院のソファでユズがそう言ったのは、彼女と出会って二ヶ月が経った頃だった。ミユは「そんなことはないよ」と笑みを浮かべる。


「そんなことあるでしょ。顔色も悪いし。最近はわたしがリプ送ってもいいね押して終わっちゃうし……」


 彼女はそう言うと葉月の顔をじっと見つめた。


「別に無理にとは言わないけどさ。話して楽になることもあるかもしれないよ?」


 葉月もまた彼女を見つめ返す。最近はこうしてここで彼女と会う機会も減ってきた。それは単純にユズがあまり病院に来なくなったからだった。その間に何があったというわけではない。むしろ何もなかった。

 ずっと変わらず涼花は目覚めない。彼女の両親は次第に疲弊していき、毎日のように見舞いに来る葉月に対しても疲れたような態度を見せるようになっていた。今まで涼花との関係を誰にも話したことはない。

 二人でなら乗り越えられる気がしていたから。しかし今は一人だ。苦しい気持ちを分かち合う相手もいない。葉月の心も限界が近かった。

 どれくらいそうしていただろう。何も言わず、ただ優しい表情で待ってくれるユズに葉月は「ユズちゃんって」と口を開いた。


「付き合ってる人はいる?」

「うん?」


 予想外の言葉だったのだろう。彼女は困った様子で「うーん。いない」と答えた。


「前は?」

「いないけど……。って、なんでいきなり?」


 困惑したユズの様子に葉月は「ごめんごめん」と軽く笑って謝ると「彼女なんだ」と息を吐きながら言った。


「え、なにが?」

「入院してるの。わたしの彼女なの」

「彼女……」


 ユズは口の中で呟くと少しの間を置いて「彼女?」と繰り返した。葉月は微笑みながらスマホを見つめる。


「うん。わたしの大切なパートナー」


 スマホのロック画面には涼花と一緒に撮った画像。彼女が事故に遭う前日。二人で行った海で撮った一枚。楽しそうに、幸せそうに笑う自分と涼花の姿。


「そうなんですか……。えと、病気で?」


 少し遠慮がちなユズの声に葉月は「ううん」と首を横に振った。


「事故。朝、バイクで出勤中に車に追突されちゃって」

「バイク……」


 ユズの視線が葉月の隣に向いた。そこにはバイク用のグローブを置いている。


「二人でよくツーリングとか行ってたんだ。お揃いのバイク買ってさ」

「楽しそうですね」


 優しい表情で彼女は言う。そして「彼女さんの具合は?」とグローブを見つめながら静かに聞いた。


「もう四ヶ月だからね。怪我の方は良くなってきた。でも意識が戻らなくて――」

「ずっと、ですか」

「うん。でもどうして意識が戻らないのかわからない。わたしには今の涼花がどういう状態なのかわからない」


 今、葉月がこんなにも苦しいのは彼女の状態がわからないからだ。目覚める可能性があるのかないのか。それすらも分からない。


「誰も教えてくれないの。わたしは家族じゃないから」

「……涼花さんのご両親は?」

「聞けば教えてくれるかもしれないけど、わたしと涼花がどういう関係なのかご両親は知らないから。こんなに毎日会いに来るわたしのことをどう思ってるのか、今はそれすらも不安で」


 葉月はそう言うと膝に肘をつき、顔を両手で覆う。


「もう涼花は目覚めないのかもしれない。そう思うと怖くて、眠れなくてご飯も食べられなくて。新しい仕事も見つけられないし……。もう……。もうさ、いっそのこと――」


 いっそのこと涼花のように眠ってしまえば楽になれるのかもしれない。そう口に出しかけたが葉月はグッと堪えた。まだ十代の子にするような話じゃない。それも多少は顔見知りになったとはいえ見知らぬ他人にこんなことを言われても困るだけだろう。

 葉月は両手で顔を覆ったまま深くため息を吐いた。ユズは何も答えない。当然だ。戸惑っていることだろう。

 そう思っていると「もしかしたら今から言うこと、ミユさん怒っちゃうかもしれないけど」と静かなユズの声がした。ミユは顔を上げる。すると隣に座る彼女は優しく、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべていた。


「ちょっと羨ましいなって思っちゃった」

「羨ましい……?」


 葉月が眉を寄せると彼女は「うん」と頷いた。


「だってさ、そんなに思いつめちゃうほど彼女さんのこと好きってことなんでしょ? わたし、そんなに人のこと好きになったことないし」

「……それは、ユズちゃんはまだ若いから」

「別に恋人だとか、そういう相手に対してじゃなくてもさ。家族とか友達とか。自分以外の人のことをそこまで必要だって思ったこともなくて、もちろん思われたこともなくて……」


 そう呟くように言ったユズは寂しげな笑みのまま前方に見えるコンビニへ視線を向けた。


「わたしはいつも自分のことばっかりで、今だって周りのことなんてどうでもいいって思っちゃってる。周りから見える自分が、わたしが思う自分であり続けるようにって、そればっかりで――」

「ユズちゃん?」


 今までに見たことのない彼女の表情に葉月は戸惑い、不安を覚える。そんな葉月の様子に気づかないのかユズは「そんなわたしはきっとこれからもずっと一人だから……」と力なく笑う。


「だから自分にとって必要だって、そう思える相手がいるミユさんのこと羨ましいなって思っちゃった」

「……目を覚ましてくれなくても?」


 葉月が問うと彼女は「くれなくても」と頷いた。


「だって生きてるんだもん。だったら目が覚める可能性はゼロじゃないでしょ?」

「それはそうだけど……」

「きっと目覚めるよ。ミユさんがこんなに想ってるんだから彼女さんだって絶対にまた会いたいって頑張ってる」

「そうかな」

「そうだよ。だからそのときまでさ、彼女さんが目覚めたあと二人でどう一緒に生きていくのか考えておくのもいいんじゃないかなって思う。のんびりと」

「のんびりと?」

「そう。気長に待とうよ。こういうときはさ。気長にのんびりと考えてる間に周囲の環境だって変わるかもしれないよ?」


 そう言って彼女はそっと葉月の手を握った。何か具体的なことを言ったわけじゃない。それでも彼女は理解してくれている。自分と涼花の関係を秘密にして生きてきた苦しさを。

 葉月は思わず笑ってしまう。


「ユズちゃん、ほんとに年下?」


 涙が滲んでくるのは悲しいからではない。苦しいからでもない。嬉しいから。


「どっからどうみても年下でしょ? 女子高生ですけど」


 そう言って笑いながらも握った彼女の手は温かく力強い。葉月はひとしきり笑って「ありがとう」と彼女の手を握り返す。


「ねえ、ミユさん」

「うん?」

「あとでLINEのアカウント教えてよ。色々聞きたいな。ミユさんと彼女さんとのこと。LINEの方が通知に気づきやすいし」


 葉月はユズの顔を見る。彼女の表情はまるで年下とは思えないほど柔らかく優しかった。


「ありがとう」

「……やっぱりミユさんは大人だね」


 その言葉の意味は今もよくわからない。大人なのはユズの方だと思う。だって彼女がLINEのアカウントを教えてくれたのは葉月がまだ不安定で、話し相手が欲しいだろうと察してくれたから。葉月はそれに甘えただけだ。ユズがどうして病院に来ていたのか、その理由を聞くことすらしなかった、自分のことしか考えていないダメな大人だった。

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