ヘルバウンド・ソウル

A230385

プロローグ

──イギリスのどこか小さな農村である日、ある夜、ある赤子が産声を上げた。


赤子は男の子で、父と母、ある若い夫婦の愛と祝福を一身に受けながら産まれ落ちた。

ただ、赤子が生まれた場所は夫婦の小さく質素な家の中だったので夫婦以外に、それを祝福するものはなくここに新たな生命が生まれたことも多くの人は知らなかった。


「...ねえ、わたしの赤ちゃん、どうなってるの?」

若く小柄で華奢な母親は産後で衰弱し息を切らして、弱々しく安堵感と疲労、それから期待を入り混じらせた声で、元気に泣き続ける赤子を取り上げた夫にそう聞いた。

「ああ...そうだな...元気だ。何も心配いらない。」

しかし、夫の方は不思議なことに赤子を見ながら喜びと焦燥、不安の表情を浮かべながら、それを隠そうとする作り笑いの入り混じる複雑な表情で絞り出すように妻に答えた。


だが、そうもなろう。その赤子のへその緒は黒鉄の鎖であり、鎖はつい先ほどまで地獄の炉で鍛えられていたかのように赤熱していて、生々しい肉の胎盤から徐々に変化して赤子と繋がったように見え、またその鎖と同様の物が、赤子の小さな目のあるべき場所から何本も飛び出し、溢れる涙を蒸発させながら赤子を守るように巻き付いていた。


夫は、ある種このような事態を予測していたのか、悲しみと、恐怖の感情はあれど取り乱しはしていない。

「どうか、した?」

「いや!?何でもない。何でもないんだ...」

この状況で夫を急かすように声をかける妻、このまま保留し続けることは出来ない。夫は意を決して赤子から無数に生える地獄のような黒鉄の鎖を掴む。


赤黒く熱された鎖の熱が、夫の皮膚を焼き微かな音を立てるが、夫は声を出すことも表情を苦痛に歪めることもなく、そして...しばらくの逡巡の後、右手で鎖を引きちぎった。

千切れた鎖は、地面に落ちる前に幻の様に掻き消えた。赤子の目から涙の代わりに溢れる赤黒い鎖は無く、代わりにガラス玉のように純粋で無垢な瞳だけがあった。それを見て、彼は少し安堵し手際よく赤子を毛布に包むと妻に預けた。


「まあ、なんて可愛らしいの...」

未だに泣き続ける自らの腹を痛めて産んだ夫婦二人の子を、愛の結晶を聖母の様に慈愛のこもった表情で揺する彼女の内心がどれほどの喜びに満ちているかは、夫には想像もつかない。


「ああ...なんて元気な男の子。大きくなったら、きっとあなたのように優しくて、勇敢な人に育つのかしら。」

「...ああ、きっとそうなる。」

何か気の利いたことを言うでも無く、母となった妻とその子供を見つめながら夫の心は恐怖や、混乱、後悔、そして愛情を振り払って研ぎ澄まされていく。


「そういえば...まだ名前を決めていなかったわね。何がいいかしら?」

「うむ...そう急に思いつくものでもないな...」

夫の要領を得ない回答も気にせず、妻は楽し気に赤子の滑らかでもっちりした頬を撫でながら笑って言った。

「そうねえ...ハルトとかどうかしら?」

夫からの返事は無かった。代わりに夫は腰に手をやり拳銃を抜くと妻の心臓に二発、頭に一発、鉛の弾を撃ち込んだ。


彼の泥の様に鈍化した主観世界の中で、愛する妻を殺したという実感から少し遅れて、乾いた銃声が耳に届いた。

突然の騒音と飛び散る鮮血に、強まった夫婦の赤子の泣き声が、夫のニューロンを苛む中、彼はゆっくりと拳銃を傍の机に置き、先ほどまで彼の妻だった物の残骸を避け、泣き止むことのない赤子を抱え上げ、家からふらふらと足早に立ち去った。


夫は妻を殺したが、首をちぎりはしなかったので小さな農村は消えた。

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