今年も幸せでした
何人目かに関係を持った同い年の男の子は親子二人暮らしの母子家庭で、母親は水商売をしているらしく毎日夜遅くまで働いていた。だから会うときは彼の家でゆっくり過ごすことができた。
『もし吸ってるところを見られても、なんの反応もないと思うけどね』
いつだったか、ベッドの中でタバコの火を付けながら彼はそう言っていた。暗い部屋の中で、ライターの心許ない火が灯る数秒間だけ、彼の口元が鮮明に映っていたのを覚えている。
『あの人、俺が勉強して自立した人間になってくれるならその過程は問わないらしい。こないだ、面と向かってそう言われたよ』
自由でいいじゃん、と私は言った。それは本心からの言葉だった。けれど、彼は寂しそうに笑った。表情は見えなくても、そんな気配が確かにしたのだ。
『それはそれで、虚しいもんだよ』
もういらないからやる、と言われて、彼は唐突に咥えていたタバコを私の口に押し付けた。そして電気をつけて、シャワーを浴びに行ってしまった。私は少しだけ吸い込んで煙に咽せてから、慌てて灰皿を探した。ベッドサイドのテーブルにそれはあった。横には黒いライターが転がっていて、そこにはやけに細くくねくねした字体で[La vie en Rose]と書いてあった。シャワーを浴びた彼は二つの缶チューハイを手にしていて、レモン味とアセロラ味の好きな方を私に選ばせてくれた。
彼との関係は一ヶ月ほど続き、それからどちらともなく距離を置くようになった。私が別の男の子を見繕った頃、彼はもう塾を辞めてしまっていた。
夏芽の家の湯船に浸かりながら、そんな過去のことを思い出す。もう名前も思い出せない、私に酒とタバコを教えてくれた男の子。そういえば、彼も講義を受けている間はメガネをしていたかもしれない。
彼も?
お湯の中に顔を沈めながら、私は一人でふふっと笑う。どうして私は、なんでもかんでも長岡先輩ありきで物事を考えてしまっているんだろう。身体を重ねてもいない、重ねるつもりもない相手が、どうしてここまで頭から離れないんだろう。
彼とはまだしていないから? 今までとは違った形で、私は長岡聡一郎という人間を見定めようとしている?
考えてみても答えは出ないけれど、長岡先輩のことを考えながらあてどなく思考を巡らせるのは、なんだかちょっとだけ愉快だった。
健全で健康的な夏芽は、十時に消灯する。当然私もそのリズムに合わせる。シングルベッドを二人で使うのは流石に寝苦しいので(しかも夏芽は結構寝相が悪い)、私はベッドの脇に布団を敷いて寝る。
「明日から二学期だね」
瞼を閉じて、どうにか眠気を手繰り寄せようとしていると、夏芽のとろんとした声が入り込んでくる。「やだねー」と私は言ったのに、誰それと会うのが楽しみだとか、明日は早速ボランティア部の活動があるだとか、普段よりも間延びした声であれこれと語っている。私はあくびを意図的に一つ吐き出しながら、それらに最低限の相槌を打っていく。
「ね、夏芽」
「んー?」
「今さ、幸せ?」
もしもクラスの誰かに出し抜けにこんな質問をしたら、吹き出されるか、痛いやつだと思われて終わりだ。けれど、この子は違う。
「うん。幸せ」
幸せかと訊かれて、迷いなく幸せと答えられる。こんな私の、一番の親友でいてくれる。
ねえ、気づいてる? 夏休みの最後の日、いっつもあんたに同じこと訊いてるんだよ。
出会ったときからずっと、今日まで無垢に生きてきた和久井夏芽が愛おしい。彼女は私にとって理想の存在だ。彼女は私を頼って、私は彼女に報いてきた。何年もかけて織り成してきた好意と信頼が、私たちを強く結びつけている。歪な人間関係にまみれていた私が唯一、正当な手順と時間を踏んで関係を育んできたと自負できるのが夏芽だった。
夏芽が夏芽らしさを失うなんてあってはならない。ずっと、そう思っていた。けれどこのままじゃあ、この子は不自然に幼い感性を抱えたままティーンエイジャーを終えてしまう。だから、どこかの段階でけりをつけなければいけない。
今の私は、恋愛という名の、表面的な好意を超えた感情のままならなさに呑まれ、傷ついたり順応したりしてしまう夏芽の姿を見たくない。だから、あの子の知見や交友関係をつぶさにチェックし、必要に応じて蓋をしたり、認識を上書きしたりしてきた。その行為の持つ不当な暴力性から、目を逸らしながら。
けれど、タイムリミットは迫りつつある。穢れを知らない無垢で真っ白な背中を、押さなければいけない。たとえ汚れた手垢がこびりついたとしたら、私はその汚点を誇らなければならない。
自然な成り行きに任せて少しずつ変化を見守るのではなく、私の手で終止符を打とう。だって、この子は私の理想で、私のエゴだから。他の誰でもないこの私が、責任を持ってその最期を見届けるべきだ――気がつけば、ごく自然にそう結論づけていた。
だったら、どうすべきなんだろう? 薄紫の無意識の雲を掻き分け、自分が生み出した願いと向き合ってみても、その全容はあまりに茫洋としていて、私の手に余る。溜め息は、エアコンの冷風によって無慈悲に吹き飛ばされてしまい、跡形も残らない。
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