約束
「わ、びっくりした」
突然開いたドアに驚いたのか、部屋の左手に置かれたベッドの上で寝そべって漫画を読んでいたパジャマ姿の彼女はびくりと身体を震わせて顔を上げた。そして私の姿を捉えると、満面の笑みを浮かべてベッドから跳ね起きた。
「みーちゃん!」
出会った頃と変わらない、和久井夏芽の弾んだ声。喜びという感情をこうも余すことなく表現できるのは、一種の才能なんじゃないかと思う。
「元気そうじゃん」
「うん、お昼前には熱も下がっちゃった」
あっけらかんとした調子でそう言われると、なんだか肩透かしを食ったような気分になる。
「なにそれ、来なきゃよかった」
あえて冷たく言い放ってみると、それだけで夏芽はしゅんと沈んだ表情になる。そこでみかんゼリーの入ったレジ袋をちらつかせてみると、途端にその大きな目を輝かせる。本当にわかりやすい子だ。
「明日は来れそう?」
「うん。絶対行く」
ありがとう、いただきます、と受け取った袋から取り出したみかんゼリーをプラスチックの小さなスプーンで健気に食していく姿を見下ろす。うちはペットを飼っていないけれど、お腹を空かせた小型犬がごはんを食べるのを見守る飼い主って、きっと今の私のような気持ちなんだろう。
「なんでさあ、よりによって入学式の日に熱出すかな」
私が情感を込めてしみじみと嘆くと、夏芽はゼリーを咀嚼しながら今にも泣きそうな顔になる。こんなことでいちいち泣かれたら困るので、本当だったらもう少し隠しておこうと思っていた情報を解禁することにした。
「私ら、一緒のクラスだったよ。二組」
「え! 本当?」
やったー、と無邪気に喜ぶ姿は、中学の入学式のときとまったく同じ反応だった。下手すれば、三年後もこの子は同じように喜んでいるかもしれない。
「ていうかさ、なにその髪型。もう少しまともな纏め方があるでしょ」
今気がついたけれど、夏芽の髪型は『おしん』みたいに後ろで引っ詰めただけのひどいものだった。
「だってこれが一番簡単なんだよ」
「あんた跡つきやすい髪質なんだから、クリップとか使いなっていつも言ってるじゃん。あーあ、明日まで跡残ってんじゃない、これ」
「みーちゃん、あとで決めて」
「纏め直すのくらい自分でやれ」
そう言って冷たく突き放しても、今度は彼女の笑顔は崩れなかった。
「じゃなくて、明日の髪型、また一緒に決めて」
今年で十六になるというのにこの子は己の髪型一つろくに決められずにいるけれど、その責任の一端は間違いなく私にある。ゼリーを食べ終えたタイミングで、私はいつものようにヘアスタイルが沢山載っているサイトを開いたスマホを夏芽に渡して、苦しそうに引っ詰められた髪の毛を解いた。
「じゃあこの〈スッキリ大人シニヨン〉は?」
と夏芽は無邪気に提案してくる。
「ない。授業参観のオカンじゃん」
「えー、じゃあ、〈フワフワオニオン〉は?」
「
「タオパイパイって?」
「なんでもない。他の探して」
えー、と夏芽はまた不満げな声をあげる。もうかれこれ十分以上、この子の高校デビューに向けた髪型を探している。私はせめてもの応急処置として、ぺしゃんこになった夏芽の腰あたりまで伸びた髪を櫛で梳いてやる。私が選んであげたシャンプーとコンディショナーの柑橘系の匂いがする。そこにこの家の和風の匂いが混ざり合い、彼女特有の、早く摘みすぎた青いレモンのような香りを生み出している。この世でたった一人、彼女だけの香り。
「もうみーちゃんが決めればいいのに」
「なんで私があんたの髪型を決めなきゃいけないの」
「だって、昔は全部決めてくれたよ」
その通りだった。だから今、甘やかしすぎたな、とちょっと後悔している。
「明日から高校生なんだし、これからは自分で決めれば」
「明日じゃなくて今日からもう高校生だよ」
「はいはい」
とはいえ、なにか特別なきっかけでもない限り、私はこれからもなんだかんだ言いながら夏芽の髪型を決めてあげるんだろうな、と思う。夏芽の柔らかい髪質は触れていて単純に心地良いし、こうして頭を無防備に預けてくれているときというのは、彼女から信頼を寄せられていることを最も実感できる瞬間だから。
それに、いつだったか正確な時期は覚えていないけれど、小学生のとき、夏芽にこう言い聞かせたことがある。
『夏芽の髪型は私が決めるの。だから、髪は勝手に切っちゃダメだよ』
直接確かめたことはない。けれど、当時のその言葉を夏芽はきっと覚えていて、きっとそれは彼女の中で一つの約束として、今もなお健気に機能しているんだろう、と私は確信している。
けっきょく、明日の髪型は〈楽カワローポニー〉に決めた。後ろで括った髪をくるりんぱできない、と不安がっていたけれど、さすがにそれくらいは自分で出来るようになってもらわないと困る。
「あれ、今日はご飯食べてかないの?」
夏芽の部屋をあとにして、ダイニングテーブルで新聞を読んでいたおばあちゃんにお邪魔しましたと声をかけると、意外そうにそんなことを言われた。
「うん。ここに来ること言ってなかったから、家に私のご飯あると思うし」
「そう? まあ、また食べにおいで。ハヤシライス作ったげるから」
「え、めっちゃ嬉しい」
みーちゃんハヤシライス好きだもんね、とおばあちゃんはコロコロ笑った。このおばあちゃんにしてあの孫あり、と言う他ない笑い方だった。
三和土でローファーを履きながら、ふと下駄箱の上に置かれた金魚鉢に目をやる。そこには私たちが中学生になったくらいの頃から飼われている金魚がいるのだけれど、今日は水中を泳ぐその姿に違和感を覚えた。
「おばあちゃん、この子、目の上にコブがある」
「ああ、それねえ、癌だっておじいさんが言ってたよ」
「金魚も癌になるの?」
「さあ、あの人はそう言ってたけどねえ」
「ふうん」
目の上のたんこぶならぬ目の上の腫瘍を抱えた哀れな金魚は、黙々と鉢の中を回遊している。私と目が合うと(合ったんだ、多分)、口先を水面に近づけてきた。ぴちゃん、とかすかな水音がして、それから二階の方で小さくくしゃみが聞こえた。
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