二章 渡りに不死
百二十年ほど前のことだと聞いている。
詳しいことはわからないが、燕家と百々澄家は元は白江という国の同じ一族だったらしい。だがある時、燕家と百々澄家の祖先同士が道を違えた。両家とも先に仕掛けたのは相手の家だと両家に伝わっているため、今となっては発端がどちらだったかは不明だ。
いずれにせよ、燕家と百々澄家はそれ以来、終わらぬ戦争を続けている。
燕風国の第一王子である俺も十二の時から戦場で百々澄の者を何人も手にかけてきた。ちなみに第二王子もいるが、武の才がまるでないので戦場には出ていない。俺にはない部分を持っているのでそれを生かしてほしいが……。
話が逸れた。
揺鈴と出会ったのは十八の時だ。ひとつ年下の彼女と戦場で相対した瞬間、目が釘付けになった。
「貴殿は……!」
「あなたは……!」
二人ともが確信を持って踏み込んだ。ときめきにしては無粋な、鉄と鉄が衝突する音が打ち鳴らされる。俺たちは互いの得物を眼前でぶつけ合った。
その刹那、俺と揺鈴だけの空間がそこにできた。お互いに相手の気持ちが理解できた。目の前のこの者と添い遂げたい。完全なる一目惚れだった。
俺たちは戦うふりをして連絡方法を伝え合った。
両家の戦力は拮抗しているため、今回も決着はつかず痛み分け。
その後は家の者の目を盗んでは連絡し、時に逢瀬を楽しんだ。
関係が強まれば強まるほど、夫婦になりたい気持ちが膨らんでいった。しかし両家の関係を鑑みれば、正式に結ばれることがないこともわかっていた。
一年の後、俺たちはついに駆け落ちすることにした。俺が十九、揺鈴が十八の時だ。
再度大規模なぶつかり合いが起きたとき、示し合わせて戦場を離脱。そのまま遠く離れた村でひっそりと暮らすことになった。
しばらくは幸せな日々が続いた。日の出とともに畑を耕し、日が沈む頃には揺鈴の真心のこもったおいしい料理を食べる。夜は、その、なんだ、寝た。
ところが世の中はうまくいかないものだ。
あの後すぐに駆け落ちがばれたようで、燕風・百々澄の両軍が村に押し寄せてきたのだ。
燕風のほうは第一王子の俺を連れ戻しに来たと言っていたが、百々澄は因縁の敵国の王子と駆け落ちされたのがよほど腹に据えかねたらしく、揺鈴を殺そうとしてきた。
いくら個の武に秀でていても数でこられては敵わない。俺たちは各地を転々としながら逃亡する生活を送ることになった。
弟の膨座からもらった隠れ場所の地図が役に立った。軍の捜索を逃れるためだけあって危険な場所が多かったが、一度赴けば長い日数を見つからずに過ごせた。
とはいえいつ終わるとも知れない逃亡生活は、俺たちの心を徐々にむしばんでいった。
愛を貫くのはこうまで大変だったのか。
俺たちは境遇を、生まれを呪った。ふとした拍子に両家の無理解に憤る言葉を出すことが多くなっていった。
俺も揺鈴も心身に共にたゆまぬ鍛錬を重ねた戦士とはいえ、不安の澱が心の中へたまっていくことは防げない。十分気をつけていたつもりだったが、先に限界を迎えたのは揺鈴のほうだった。
水が流れ落ちる轟音が遠くに聞こえていた。俺たちがいた隠れ場所は滝の裏。外からは見えにくい位置にある洞窟だった。
ただやはり洞窟だと生活用品もなく不便極まりない。
滝の上には水呑という中規模の村があったので、余った生活用品があるか尋ねてみると、ちょうど住人が家財道具を残していなくなった家があり、好きに持っていいと言われた。
運のいいこともあるものだと思う。その空き家について語る村人の表情が暗かったのが気にかかるが、大方村の人々ともめ事があって夜逃げでもしたのだろう。
とにもかくにも家具を洞窟に運び込んだ。滝の裏だけあって道は濡れて滑りやすくなっており、かなりヒヤヒヤさせられた。運動能力に優れた人間でなければ滝壺に落っこちていたかもしれない。
野営は慣れているから食料の確保は苦労しなかった。二人とも料理はできるが、おおざっぱな調理しかしない俺と違って、女の揺鈴はさすがに細やかな料理を作る。その結果、もっぱら揺鈴が台所に立つことになり、俺は食料を探しつつ周囲を警戒するように役割分担するようになった。
そしてそれはある日の夕餉に起きた。
「揺鈴?」
俺は朝の見回りを終えて洞窟に戻ってくると、揺鈴はなぜか自分の得物である『銀月』を手に突っ立っていた。どこか遠くを見ているような表情だ。
「そんなものを持ってどうしたんだ? 追っ手が来たようには見えないが……」
俺に気づいたのか、ハッとして笑顔を作る。
「あっ、ああ、おかえりなさいませ涯牙さま」
「体調が優れないのか?」
「そ、そんなことはありませんわ。今朝食の支度をいたしますわね」
「いや、今日は俺が作ろう。揺鈴は休んでいろ」
逃避行に突入してから結構な時間が経っている。神経が参ってきているのかもしれない。戦士といえど女性だ。男の俺に負担をかけるべきだろう。
だがそれでは遅すぎたのだ。このときにもっと揺鈴の心の内を聞いておくべきだった。すでに歪みが生じていたことに気づけたのに。
別の日。
「あっ……!」
食材を切っていた揺鈴が小さな声をあげた。
「どうした!?」
「い、いえ。指を少し切ってしまっただけですわ」
俺がすぐさま揺鈴に近寄って見ると確かに指から血が出ていた。
「大した傷ではありませんのよ。少し手元が狂っただけで……あっ」
俺は揺鈴の細い指をくわえ、血を舐め取った。
揺鈴が恍惚の表情でぶるぶると震える。
「これでよし。後は俺が代わろう。台無しにしてしまうかもだが許せよ」
「が、涯牙さま……♪ 揺鈴の指を口に入れてくださるなんて、好き……大好きですわ……!」
そこまで言われるとくすぐったい。愛する者が傷を負ったなら手当てするのは当然だ。
後から振り返ると揺鈴はおかしな言い回しをしていたのだが、愛情表現の一種だと思ったのでこのときも見過ごしてしまった。色惚けと言われても反論できない。
そしてとうとうその日が来た。
その日も揺鈴が朝餉の支度をしていた。食材をまな板の上で切る音が心地よく奏でられる。もちろん用いている刃物は例の『銀月』ではない。あれは人を切るもので料理に使うものではない。肉も骨も関係なく鈍い音とともに切断する殺人武器だ。
まさにその鈍い音が鳴った。
「揺鈴?」
調理をする際に聞こえるはずのない音を聞いて、俺は振り返った。
目を疑う。右手で『銀月』を持った揺鈴が、自らの左腕を服の袖ごと切り落としていたのだ。
「が、涯牙さま……揺鈴は、揺鈴は……!」
口から漏れる言葉は恐怖に満ちていた。だが表情は裏腹にわずかな笑みさえ浮かべている。
その不釣り合いさに一瞬疑問がわいたが、おびただしい出血にそんな思いは吹き飛んでしまった。
「なっ、何をやっているのだ!?」
切り落とされた腕を包む大きな袖が吹き出す血で真っ赤に染まっていく。
混乱が頭を支配する。吹き出す血も切り飛ばされた腕も戦場で幾度も目にしたものだ。だがここは戦場ではない。逃亡生活ではあるが、日常の暮らしの最中だ。そこで見る残酷な光景は衝撃の度合いが違いすぎる。
「どうしてこんなことを……いやそれより血を止めねば……!」
俺は布切れで揺鈴の肩口をきつく縛る。多少出血の勢いは弱まったが、大量出血に変わりはない。痛みも相当なものだと思うが、揺鈴に苦しむ様子はなく、ただ呆然と傷口を見ている。危機となればすぐに冷静になれる性格の揺鈴だが、これはさすがにおかしい。まるで痛みを感じていないかのようだ。
「怖い……恐ろしいですわ。涯牙さま……」
「待っていろ、今血止めを塗ってやる」
「そうではありませんの。揺鈴は涯牙さまを愛していますわ」
この場で言うにはあまりにも不釣り合いな言葉に、一瞬手が止まった。
「ああ、俺も愛しているとも。だが今はそれどころではないだろう」
「高い背に鍛え上げた体も、ゆるみのない眉の下の鋭いまなざしも、清潔感のある短い髪も、自分を強く律する心根も、戦士としての強さも、涯牙さまのすべてを愛していますの。愛しているからこそ腕を切り落としたのですわ。そうせずにはいられなかった……! この高ぶった想いが……」
さっきから言っていることが支離滅裂だ。いったいどうしてしまったというのか。
「ああ、揺鈴はおかしくなってしまいましたわ。あり得ない想いが、数日前から頭にこびりついて離れませんの。揺鈴はこれが愛ではないと知っていますわ。ですが、どうしても愛があふれて止まりませんの」
悲鳴に近い声で立て続けにしゃべる揺鈴。苦悶と恍惚が入り交じったような、奇妙な表情に俺は不気味さを覚えた。何か恐ろしいことが揺鈴の身に起きている。
「何だ、いったいお前に何があったというんだ」
「涯牙さまに揺鈴の肉を食べていただきたいのですわ! この体についている肉を、脂を、皮を、口にしてほしいとその想いがあふれて止まりませんの!」
その言葉が頭の中に浸透するまでに時間を要した。揺鈴なら絶対に口にしない、否、まともな人間ならば口にしない想い。狂気としか思えない。
「落ち着け、お前は大けがをして混乱しているのだ……」
混乱しているのは俺のほうだった。順序が逆ではないか。揺鈴は重傷だから混乱しているのではなく、混乱したから重傷になったのだ。
「涯牙さまは悪くありませんわ。揺鈴も揺鈴が狂気に落ちているとわかっておりましてよ……ああ、だからこそ、だからこそ恐ろしいのですわ。揺鈴がこの行為を愛の発露と確信してしまっていることが! 涯牙さまの血肉になることが揺鈴の愛を示すことだと……!」
にわかには信じられないことだったが、必死に訴えてきていることは痛いほど伝わってくる。揺鈴は真剣に言っている。そもそも冗談で腕を切り落としたりするものか。
「わかった! どのような形であれお前の愛は本物だ。だから今は落ち着くのだ。傷に響く」
俺は揺鈴をなだめる。しかし揺鈴はふらりと動くと、切り落とした左腕をいとおしそうに拾い上げた。血の気の失せた指先を伝ってどろっとした血が滴る。
「これが……この肉が涯牙さまに食べられると考えるだけで揺鈴はめまいがしそうなぐらい幸せな気持ちがわき上がってきますわ。やはりおかしくなっていますのね……目にも異常が起きていますわ。最近、急に見えるようになったあたり一面に広がるこの黒い塵もきっとそのせいですわね……」
悲しい気持ちになっていた俺は揺鈴が最後に言った言葉が気にかかった。いやな引っかかりを覚えたのだ。それが正しいならば、事態はより深刻なものになるだろう。俺は恐れを感じながら尋ねる。
「……揺鈴。その黒い塵とやらは触れるか?」
「いいえ、触れても切っても何も起きませんわ。ただ漂っているだけですのよ」
最悪の予想に近づいてしまう。
「それから、塵をよく見てみてくれ。泡状になっていないか?」
揺鈴が何もない眼前に目を凝らす。そしてゆっくりと頷いた。
「なんということだ……」
「涯牙さま、何かご存じですの?」
「以前、弟の膨座から聞いたことがある。人の在り方を歪ませる奇病、黒狂い。かかった者は黒い泡が寄り集まった凶告と呼ばれるものが見えるようになり、肉体や精神に尋常ならざる変化が起きる。黒による狂い、すなわち黒狂いだ」
「なんと……精神や肉体の異常。ではこの激しい想いも、痛みの感覚がなくなったのもそのせいだと仰いますの……?」
「何? 揺鈴、痛覚がなくなっていたのか? 恐るべし黒狂い……」
道理であれだけの大出血を伴う傷にも平然としていられたわけだ。余計な苦しみを受けずに済んだのは不幸中の幸いか。
「病気……揺鈴は病気になってしまったのですわね。自らの体調も管理できず、涯牙さまにご迷惑をおかけして……」
「そう気に病むな。揺鈴の不調に気づけなかった俺も悪い。それに、黒狂いは健康な体でもなると聞く。お前のせいではない」
「涯牙さま……ああ、揺鈴は涯牙さまを愛してよかったと心から思いますわ。ですが、それゆえに余計に苦しいのですの。血肉を捧げたいという想いがこみあげて仕方ありませんわ」
揺鈴が右手につかんでいる左腕の断面から肉の切れ端をちぎり取る。
「恐ろしい……これが愛なのだと心底思ってしまっている自分自身が。こんな、こんな狂った揺鈴をそれでも涯牙さまは愛してくれますの?」
俺は間髪入れず揺鈴を抱きしめ、安心させるように力を込めて宣言する。
「愛すとも。必ず見捨てない。こんなのはただの病気だ。絶対に治してやる」
「ああ……涯牙さま」
揺鈴から漏れたのは歓喜に満ちた声だった。
だが、できるのか。不安の暗雲が俺の心の中に立ちこめる。黒狂いには治療法がないことも聞いていた。
その不安が言わせたわけではないが、俺はもう一つ宣言しなければならないことがあった。
「どんな姿形でもどんな心でも俺は揺鈴を愛し続けると誓おう。だが、いくらお前の頼みでもお前の肉を食うことはできん。人として、夫としてその一線は越えることはできない」
「わかっておりますのよ。涯牙さまを人でなしにしたくはありませんわ。ですが……ああ! この想いを抑えるのは難儀ですわ……」
俺の胸に顔をうずめる揺鈴。その右手がなまめかしく動いて俺の首筋に触れる。その瞬間、俺の勘が騒いだ。今、何か取り返しのつかないことが起きようとしている。
「っ……これは!」
薄く黒い靄が揺鈴の右腕に絡まっているように見える。だんだん靄が濃くなっていくに連れて、それが俺のほうへ移動していることに気づいた。
やがて靄が像を結び出す。否、靄ではない。これは泡だ。無数の泡。すなわち、たった今語った――。
「うおおっ、馬鹿な、これはっ!」
俺はあわてて首を曲げて揺鈴の手から離れる。だが、遅かった。
何が起きたのかはわからない。しかし俺がどうなったかはわかる。
目に映るのは、宙をさまよう無数の黒い泡粒。黒狂いになった証を俺は視認している。
「なぜだ……なぜ急に黒狂いになったのだ」
いや、それはいい。もっと重大な問題がある。
俺はいったいどこがどう狂ったのか?
揺鈴は愛の形が狂い、痛覚が狂った。ならば俺はどうなった?
俺の言葉を聞いて揺鈴が心配そうに顔をあげた。
「が、涯牙さまも黒狂いに……?」
「少し離れてくれ揺鈴。俺に変わったところはないか?」
揺鈴が俺の頭からつま先までをじっと見る。そしてぐるりと回って全方位から全身を確認する。戦いに臨むときの戦士の目だ。異常があればすぐに見つかるだろう。
その間に俺は自らの思考を確認する。今の状況を把握できるか。揺鈴への想いに変化はあるか。記憶や常識と齟齬はないか。
「どこも変わった様子はありませんわ」
揺鈴が少しホッとしたように言う。
「精神にも問題はないようだ。もっとも、痛覚のような外からはわからない狂いは生じているかもしれないが……」
剣の先でつつくと痛みがあったので痛覚はあるようだ。
「まあ今は考えても仕方ない。いずれわかることだ。目下大事なのは揺鈴の体だろう。痛みはなくとも動き回っていい傷ではない。とにかく休むのだ」
「はい……申し訳ありませんわ」
とはいえ洞窟の中だ。比較的平らな場所にむしろを敷いただけの粗末な寝床しかない。これでは治る傷も治らない。
「上の村で藁か何かをもらってくる。しばし辛抱してくれ」
俺は滑りやすい道をできるだけ急いで水呑村に向かった。
村人に尋ねると暗い表情で、
「だったらそこの家のやつに言え。もう必要なくなるからな」
と言われたので訪ねてみると、現れたのは生気のない目をした老婆。俺が用件を言うと、野良着や寝床の厚布をひっぺがして渡してくれた。
「ありがたいが、貴殿は今日からどうするつもりなのだ?」
「そんなことは気にせんでいいよ……」
老婆はどうでもよさそうに言った。水呑村の人は親切、ということなのだろうか。それにしては妙な違和感がぬぐえなかった。
「まあいい、今は揺鈴が大事だ」
栄養をつけようと川で魚を捕まえて、俺は滝の裏に戻った。
すると揺鈴が片手だけで料理の続きをしようとしているところだった。
「休んでいろと言っただろうに、いじらしいやつだ」
「揺鈴だけ何もしないのは心苦しさがありますわ」
青い顔で照れ笑いをする揺鈴。だが俺は直前に揺鈴がとろうとした行動を見逃していなかった。
「その気持ちだけで俺はうれしい。だから、その、なんだ。肉片をこっそりと味噌汁に入れるのは……」
「も、申し訳ありませんわ。想いを抑えきれずつい……」
「いいさ、すべては黒狂いが悪い。お前の肉はお預けにして川魚を食べよう。それまでは休め」
俺はわざと笑い飛ばして、もらった敷布などで柔らかな寝床を作り、揺鈴を寝かせてやる。それから料理の続きにとりかかった。
「男のおおざっぱな料理だ。あまり期待してくれるなよ?」
「涯牙さまの手で作られたなら、揺鈴にとって炭でもご馳走ですわ」
「カカカ、そこまで下手ではないさ」
暗い気分を吹き飛ばそうと軽口をたたき合っているうちに料理ができあがった。
粥と味噌汁と焼き魚。朝の空腹を芳醇な香りが刺激する。
俺はまず味噌汁をすすろうと茶碗を口元に持っていく。
その手が固まった。
「か、あ……?」
口を小さく開けたまま、俺の全身が硬直していた。どれだけ力を入れてもびくともしない。
「どうなされましたの?」
「うぐ、が……」
わけがわからないので、俺は一度茶碗を戻す。すると体はあっさりと動いた。
「な、何だ。食べようとしたら急に体が……」
今度は魚にかぶりつこうとする。やはり口に入れようとするだけで体が石と化したようになってしまう。
食欲がないのとは違う。肉体が食べ物を拒絶している感覚。異常な感覚。こんなことがあるのか。
そこで俺は思い至る。否、たった今あり得ない変容を見たではないか。黒狂いだ。急に体が硬直するなどというのは黒狂いでしかあり得ない。
「やはり俺は黒狂いになっている……! それも、致命的な……!」
食べられない。食べることに対し体が抵抗する。反旗を翻していると言ってもいい。もはや病気と呼ぶべきかも怪しい症状。そして、すぐに対処しなければ確実に死に至る症状。
じわりと嫌な汗をかく。
「まさか、涯牙さまの黒狂いは食べ物を受け付けなくなるものですの……?! それは、それでは涯牙さまは……!」
揺鈴も気づいたらしく、手で口元を覆って絶句した。
絶望が俺の心を飲み込み始める。それを振り払うように首を振った。
「まだだ、まだすべての食べ物が食えなくなったと決まったわけではない。とにかく片端から試してみよう」
まずは粥を試す。やはり体は硬直する。次に外へ出て野草や木の実、キノコに虫など植物も動物も問わず口に入れようとしてみたがやはり駄目。水呑村へも行って干し肉や豆などをひとかけらもらって試す。結果は同じ。
二時間ほどかけずり回ったが、芳しい成果は得られず。
「水は飲めるのが幸いだが……石ころや木片すら無理だとはな」
険しい顔で洞窟に戻ると、揺鈴が心配そうに寄ってきた。
「何か食べられるものはありましたの?」
「何一つ駄目だ」
俺はため息をひとつついて座る。徒労だったせいでどっと疲れが出た。
「お疲れでしたらこちらをどうぞ。きっと疲労回復に効くはずですわ」
「ああ、ありがとう」
揺鈴から渡された椀の中には、ほんのり赤く色づいた汁に細かい何かが散らされていた。
おそらくはこれも無理だろうと思いつつ、揺鈴の気持ちが嬉しくて口元に運ぶ。そして椀の端に口をつける。
「ん? 体の硬直が出ない……これならいけそうだ。揺鈴、いったい何を入れたのだ?」
気分が上がった俺は揺鈴の顔を見る。その恍惚の表情を見て、俺は黒狂いとは関係なしに硬直した。
考えてみれば、この洞窟内で口にしておらず、かつ口にできるものなど一つしか残っていないではないか。
「揺鈴…………さすがに怒るぞ……?」
「気づかれてしまいましたのね……。ほんの少しでしたら許していただけると思ったのですが……」
残念そうな声が返ってきた。
俺はそっと椀を置き、ため息をついた。
沈黙が流れる。
滝の音だけが聞こえる。
「…………いや、待てよ」
つい流してしまったが、重大な事実があったことに気づく。今、食べることができていなかったか。
「ということはまさか……。この黒狂いとは何も食べられないのではなく」
血の気の引く結論を確かめようと、俺は自分の腕に噛みつく。食べるという意志を明確に持って。
口の中に血の味が広がった。
「ぐっ……や、やはりそうなのか……! 俺は、人の肉しか食えなくなったのか……!」
致命的ではなくなったことは朗報だ。しかし最悪が別の最悪に変わっただけだ。人食いとして生きるか、人のまま死ぬか。どちらを選んでも終わりではないか。
「なんということですの……。ですが、揺鈴は涯牙さまに死んでほしくありませんわ。ここは曲げて命をつなぐべきでしてよ」
興奮した面もちで切り落とした左腕をぶんぶんと振る揺鈴。断面の血はすっかり乾いている。
その姿を見て、俺は思う。この黒狂いはまるで揺鈴の想いに呼応したようではないかと。だが意図的に引き起こされる黒狂いなど物知りな弟の膨座からすら聞いたことがない。
揺鈴を一瞬でも疑ったことを反省する。やはり気持ちが悪いほうに引っ張られているらしい。
「俺だって死にたくなどない。お前と駆け落ちしたのも一生を添い遂げたいがためなのだ。だが愛した女の肉を食って生きるような人でなしになるのも受け入れがたい。わかってくれるな?」
「仕方ありません……頭ではわかっておりますわ。それでこそ涯牙さまなのだと」
露骨にがっかりした表情の揺鈴。黒狂いのせいだとわかっていても心が痛む。
「しかし、どうしたものか……」
事実上、選択肢は一つしかない。あとは手段の問題だ。
「出会った人間を殺して食うか、墓を暴いて死体を食うか。……無理だ、できぬ。犬畜生ではないのだぞ、俺は」
かといって他に妙案は浮かばず。いや、諦めるは死だ。戦場でそう学んだではないか。
「……もう一度外へ行って食べられるものがないか探してこよう。今度は大きな町へ出て、行商人にも話を聞けば、何かあるかもしれない」
「では揺鈴も……!」
「駄目だ。お前は怪我があるだろう。血も流しすぎているし、しばらくは体を休めろ」
「そんな、涯牙さまと離れるなんて……」
「我が武に誓って、必ず戻ってくる。何、ほんの数日だ」
おそらくそれ以上は体が保たない。もし見つからなければ、そのときは覚悟を決めねばならないだろう。
「では行ってくる」
「お待ちを。その前に揺鈴をその腕に抱いてくださいませ。揺鈴の温もりを供連れになさって」
「ああ……ありがとう、揺鈴」
俺は揺鈴の小さな体をしっかりと抱き留める。
愛する人の温もりを心身に詰め込み、俺は洞窟を出て町を目指した。
道中で行商人などから珍味の情報を集めるも、手に入らなかったり食べられなかったりと結果は芳しくない。そんな中、人肉を扱う商人が合中にいるという噂をつかむ。丸三日水だけで過ごしていた俺はもう限界だった。
「後は知っての通りだ。人肉商人を訪ねた後にペナ殿を見つけたわけだ」
俺たちは合中の町を離れ、水呑村に近い滝裏の洞窟にいた。
「なるほど、波瀾万丈ですねぇ。ここまでの話は長年生きていても滅多に聞くことはありません」
「長年って……揺鈴たちより少し年上のようにしか見えませんが、あなたいったいいくつですの?」
柔らかく設えた寝床から揺鈴が非難がましく聞いてきた。
「えーと、確か千は越えてるはずなんですが……細かい数字は忘れてしまいました」
「嘘をつくにももう少しまともな数字を出しなさいな。殺しますわよ」
片手で素早く『銀月』を取り出して掲げる揺鈴。寝た態勢からでも揺鈴なら首を飛ばすぐらいはできるので、俺は間に入っていさめた。
「まあまあ、女性に年を聞くのは野暮というものだ。俺たちのこれからに関係あるとも思えん」
「涯牙さまがそう仰るなら……」
揺鈴は刃をすぐに引っ込めてくれた。
「お互いを信頼し合ってるのですね」
「そうだ。俺と揺鈴は愛し合っている。その愛を守るためにもペナ殿には答えてもらいたいことがいろいろある」
その言葉を聞いて、ペナが急にパッと目を輝かせた。
「私にお答えできることなら何でも。さあどうぞ。私を人の役に立たせてください」
「そ、そうか……では聞くが貴殿は凶告や黒狂いのことに詳しいようだな。ならば是非とも貴殿に聞きたいことがある」
俺は若干気圧されつつ尋ねる。
「まあ一通りのことは。凶告、黒狂い、凶告夜行、それらの大まかな仕組み。何からお聞きになります?」
「俺が聞きたいのは他でもない。黒狂いの治し方だ。この恐るべき病をどうにかする術を教えてほしい」
先ほどの勢いとは裏腹にペナは俺の言葉に小首を傾げてしまった。そして少し沈黙があってから口を開く。
「んー……黒狂いは病気ではありませんよ?」
「な、何だと!?」
前提のひっくり返る言葉を聞かされて驚きを隠せなかった。揺鈴も同じだったようで、声を荒らげる。
「こんな狂った状態が病でなくて何だといいますの!?」
「いやいや逆でしょう。痛覚消失、愛と称しての自傷行為、人肉以外の摂取拒絶、人体の食品化、そして肉体の高速治癒。これらを病気と考えるほうが難しいのではありませんかねぇ?」
俺たちは黙ってしまった。言われてみれば病の範疇を越えている。しかしそれ以外にどんな理解ができるというのか。
「……では黒狂いとはいったい何なのだ?」
「中毒症状、というのが一番近いでしょうか」
「中毒か……ある花の種は毒を含んでいて食べすぎると高熱に苦しめられると聞く。それと同じということか」
「では病と一緒ではありませんの?」
なおも納得いかない揺鈴が鋭く問いつめる。
「あくまで近いだけです。なぜならその毒とは凶告だからです。この世ならざる黒泡。凶兆を告げることから凶告と呼ばれたそれが体に定着することで黒狂いは起きます」
「何? 凶告とは黒狂いの結果ではなく原因なのか」
「その通り。そして大量にたまった凶告がある水準を超えることで黒狂いになります。中毒にたとえたのはそのためですね」
その説明に納得できないのか、揺鈴が困ったような表情を浮かべる。
「たまったと言われましても……揺鈴も涯牙さまも凶告などというものをためた覚えはありませんわ」
「凶告はこの世ならざるもの。その振る舞いは不可思議で、他者の在り方を歪めたいと思ったときに体に集まってくる性質を持っています」
「他者の在り方を、歪める……?」
「少し不正確ですが、呪うといったほうがわかりやすいですかねぇ。実はこの呪って相手の肉体や精神を歪める、すなわち黒狂いにする術が凶告夜行です」
「馬鹿な。人を黒狂いにする術だと? そんなのは聞いたこともないぞ」
「凶告夜行を使える域に達する人は希有ですからねぇ。よほど強い想いがないと発動しませんし。他者を呪ったことで凶告が集まりはしますが、たいていは不発になります。そして行き場を失った凶告が大量にたまることで黒狂いになるんですね」
俺はうなってしまった。その様子を見た揺鈴がペナをきっとにらむ。
「ちょっと! 涯牙さまは武に秀でていても学は少しばかり不得手なのですわよ。もう少しわかりやすく説明しなさいな」
「カカカ、揺鈴よ。気を遣ってくれているのはわかるが、その言い方は逆に傷つくぞ」
「あっ、申し訳ありませんわ……」
「気にするな。整理が追いついていないのは事実だからな。弟ならすぐ理解できるのだろうが……ペナ殿、すまんがもう少し短くまとめてもらえるか」
こくりとうなずくペナ。そのまなざしが若干慈しみの色になっていたような気がする。
「要するに、誰かを呪った人間ほど凶告夜行の才を開花させやすく、同時に黒狂いにもなりやすいということです。例えば両親の無理解で婚姻を認められず、駆け落ちしても延々追跡されている恋仲の男女とか」
「……………………」
確かに父や重臣たちの反対にあって嘆くことが多かった。この愛を認めてもらえないことに苛立ちを覚えたことは数知れない。揺鈴も同様だろう。ただ愛し合いたいだけの素朴な願いがなぜ叶わないのか。その後の逃亡生活は言わずもがなだ。
俺の胸中に気づくことなく、ペナは話を続ける。
「ちなみにどういう黒狂いになるかは、当人の願望や深層心理の影響で決まるようです。凶告夜行の場合は行使した側の願望になるようですね。涯牙さんは飢えを人肉以外で満たしたいがため、揺鈴さんは先になった黒狂いの被食願望が影響したんでしょう。私が知るものとは少し違うので推測に過ぎませんが」
「細かい性質の話はどうでもいい。俺は学徒ではないからな。俺が最も知りたいのは、黒狂いとは治せるものなのか、だ」
病とは異なると知った。だが元に戻す方法がないのならば、それは不治の病とどう違う。
緊張の一瞬。
ペナがわずかに眉根を寄せる。その視線を俺に向け、さらに揺鈴に向ける。
「そうですねぇ…………ないこともありませんが」
たっぷり間を空けて出た、つぶやくような言葉。俺はそれをつかむがごとく、がっとペナの両肩をつかんだ。
「教えてくれ。教えてもらわねばならぬ。命と愛以外なら何でも差しだそう。俺の、揺鈴の歪みをただす方法を」
ペナが驚いたように少し目を大きくし、それからうれしそうに微笑を浮かべた。
「愛以外なら何でも、ですか。いいですねぇ……気に入りました。私の出す条件を飲んでくださったらお教えしますよ」
「本当か!? やったぞ揺鈴!」
「ああ、涯牙さま! これで希望が開けましたわね、と言いたいのですが……」
揺鈴の目はペナに向けられていた。その表情に満ちていたのは、疑念。
「この女、本当に信用できますの? 容姿も名前もこの地方ではとんと目にかかったことがありませんわ。もしや涯牙さまを謀っているのでは……」
実のところ、俺も不安はぬぐえていない。ペナの言うことを鵜呑みにしていいのか。揺鈴が心配するのはもっともだ。
「涯牙さまにあることないこと吹き込んで籠絡しようというのでしたら許しませんわ。涯牙さまは揺鈴の愛するお方。あなたみたいな無駄に脂肪のついた女に涯牙さまを渡しませんわよ!」
そ、そっちの心配か……。それならば杞憂だ。
「心配するな揺鈴。どんな姿でも俺は揺鈴を愛しているぞ」
「涯牙さま……!」
「待て、まだ起きあがってはいかん。俺を愛してくれるのはうれしいが自分の身も慈しんでくれ」
俺はあわてて揺鈴のそばに行って、起きようとした揺鈴を寝かせる。
「ふふふ、心配せずとも私は色恋に興味はありません。私が興味があるのは、ただ人の役に立ち、その笑顔を見ることだけです。私はそのためだけに生きているんですから」
ペナが遠くを見るような目になる。その表情はうっとりとしていて、どこか不気味さを感じさせた。一瞬、心の奥底で警鐘が鳴ったが、聞かなかったことにする。
「どのみち他に手はない。貴殿を信じよう。それで、黒狂いを治すための条件とは何なのだ? この武にかけて、どんな困難であろうとやってみせよう」
「そんなにしゃちこばらなくても大丈夫です。やることは簡単、人助けですよ。以前頼まれたことがあるんですが、私一人では手に余る内容だったので、あなた方に手伝ってもらおうと思いまして」
ペナが手伝いを頼まれた相手がいる場所はここからさらに西にあるらしい。しばらく戻って来られないことに加え、なるべく同じ場所にとどまり続ける危険性を考えて、洞窟を引き払うことにした。
「そうだ、借りた布や食器を返してこなければ。ペナ殿、水呑村の人々にあいさつしていってもよろしいか?」
「義理堅い方ですねぇ。緊急時なのだから黙って去っても問題ないと思いますよ」
「そういうときこそ礼儀を忘れないようにしたいのだ」
俺たちは水呑村へ荷物を持って入ると、何やら人が集まってきている。皆沈鬱そうな表情をしており、俺たちを出迎えたというわけではなさそうだ。
村の中央には輿が置かれており、その上には以前敷布を借りた老婆が諦めたような顔で座っていた。
「いったい何をしているのでしょう? お祭りですの?」
「それにしては雰囲気が暗すぎる。ちょっと聞いてみよう」
俺は近くにいた村の男をつかまえる。
「この前いくらか物を借りた礼をしにきたのだが、今日は何かの催しがあるのか?」
「ああ……旅人さんか。今日は年に一度、水神様へ供物を捧げる儀式の日だ」
供物という言葉を聞いて即座に嫌な予感を覚えた。村人たちの暗い表情が予感を後押しする。
「……それは酒や肉を捧げるのか?」
「いいや、そんぐらいでは鎮まらねぇ。捧げるのは人だ。ほれ、あの婆さんだよ。輿に乗せて運び滝へ流すんだ」
やはりそうか。あの老婆が寝床の敷布をはぎとって渡してくれたのは生け贄になることを知っていたからに違いない。どうせ死ぬなら関係ない。そういう思いで渡したのだ。
食器などをもらった空き家の住人もだいぶ前に生け贄になったのだろう。
「止めることはできぬのか?」
村の風習とはいえ、世話になった人が目の前で死んでいくのを黙って見ていられるほど大人ではない。だからつい問うてしまった。
案の定、暗い視線が返ってくる。
「凶告が見えちまったやつは水神様の供物にならなきゃなんねぇからな。あの婆さん、急に熱さ寒さを感じなくなったと思ったら凶告が見え出したらしい。水神様に呼ばれちまったんだろう」
老婆の体の中には薄い影が見えていた。熱さ寒さを感じなくなる黒狂いになってしまったのだろう。敷布をくれたのは死を覚悟しただけでなく、単純に必要なかったからか。
ならばこそ見過ごせない。
「それは黒狂いという病……いや病ではないのだったな。とにかく水神様とは関係ない。生け贄はとりやめてもらえぬか」
村人はずいっと顔を近づけ、ドスのきいた声で言う。
「余所者が口出すもんじゃねえ。これは村の掟だ。それとも何か、お前さんが身代わりにでもなってくれるんか?」
俺はぐっと詰まってしまった。俺ですら半信半疑の黒狂いの正体。ペナからの説明を聞いていないならばなおのこと信じられるわけがない。
そこへ軽々しい声が横から入ってきた。
「あ、じゃあ私が代わりましょうか?」
俺も揺鈴ももちろん村人もポカンとしてしまった。
「ペナ殿、何を言っているのだ!?」
「大丈夫ですよ。私も黒狂いですし、水神様とやらに捧げても問題はないでしょう」
「いや、そういう問題では……」
「第一、こんな暗い顔をしてるってことは、本当は皆さん生け贄なんか嫌なんでしょう?」
村人の男が黙ってうつむく。一方ペナは笑顔になって、明るく声を張り上げる。
「決まりですね。お婆さーん、水神様への生け贄は私になったのでそこどいていいですよー」
老婆は目をパチパチさせていた。当然だ。いきなりやってきた生け贄を代わるなどと言い出す人間がどこにいる。
やはり侮れない。不気味だ。死なない黒狂いということだが、この振る舞いも黒狂いが精神に影響を与えたせいなのか?
「止めなくてよろしいのですの? 揺鈴はあの女のことなんてどうでもいいのですが……」
俺はうなるしかなかった。首だけになっても生きながらえている様を見ていたから、滝壺に落ちるぐらい平気だろうとは思う。
ペナが老婆をどかして輿に乗る。どかされた老婆はペナに向かって涙を流して拝んでいた。
「さ、早く滝へ行きましょう。水神様が待ってますよ」
村人たちは困惑していたが、同じ村の人間を滝に流すのはやはり嫌なのだろう。輿をかつぎあげてペナを運び出した。その後を他の村人たちが列をなしてついていく。
今更やめろと言うこともできず、俺たちは妙な気分のまま行列を追った。
「あっそうだ涯牙さん」
「何だ?」
急にペナが呼んできたので近寄ると、ペナがいきなり服を脱ぎ出した。
「な、な、何をやって……!」
成熟した肉体を惜しげもなく披露するペナ。特に胸が成熟している。
「ま、はしたない。涯牙さまにそんなだらしのない体を見せないでほしいですわ。涯牙さまは揺鈴のような締まった体がお好きなのですのよ」
「そ、そうだな。急に脱ぐからびっくりしただけだ」
揺鈴の体だけでなく俺は揺鈴のすべてが好きだが、それはそれとして男たるもの裸体の胸に反応してしまうのは仕方ない。
俺のそんな気持ちを知る由もなくペナが脱いだ服を投げてきた。
「服が濡れると後で困るので渡しておきますね。落ちた後は適当に回収してください。ではまた後で」
今から滝に落ちることをみじんも感じさせない気楽な声。唖然とする俺に小さく手を振ってペナは遠くなっていった。
やはりどこか頭がおかしい。人の役に立ちたいというだけで生け贄を代わる。いくら不死とはいえ正気を疑う。あの女性を信じていいものか、今更決意が揺らぐのだった。
滝壺の下流。
比較的川幅の狭いところで待機していると、全裸の女の水死体が流れてきた。死体はこちらを見て言った。
「いやー、この時期の水は冷たくて気持ちいいですねぇ」
もちろんペナである。
揺鈴と二人で豊満な体つきのそれを引き上げる。滝に落ちた衝撃で折れたのか腕や足が変な方向に曲がっていた。生傷も多い。見るに耐えないので、すぐさま先ほど脱いだ服をかぶせる。
再生が始まっているらしく、凶告の黒泡がペナへと集まっていた。
「ありがとうございます」
「結構重いですわね。やはり無駄に肉をつけすぎでは?」
「再生の黒狂いのせいで体型が変わらないんですよねぇ。どうも最初に受けたときの肉体を基準にしているみたいでして。もっと痩せておけばよかったかな」
ふふ、と笑うペナ。言うほど気にしている様子はないようだ。どうやら全体的に気にしない性格らしい。まあ、死を気にしないのに体型や年齢を気にしていたらそれはそれで変だろう。
「体型が変わらないということは、年齢も見た目通りではないのか」
「あのときは三十歳前後じゃなかったですかねぇ」
「……今は千歳だったか?」
「この前大台に乗った覚えがあるのでたぶん」
はぐらかしているようにしか聞こえない。やはり答える気はないらしい。だがこの再生力を見るに百年以上生きていても不思議はない。
揺鈴はうさんくさそうな目で、回復中のペナを見下ろして言う。
「それで、涯牙さまにどこで何をさせる気ですの? 変な真似をさせるのでしたらまた首だけになってもらいますわよ」
「大したことではないですよ。ある村に入ってもらうだけの簡単なお仕事です。むしろ揺鈴さんのほうが重要かもしれません」
「揺鈴が、ですの?」
名指しされてきょとんとする揺鈴。
「詳しくは現地で説明しましょう。ちょうど足も治ってきましたし」
そう言うとペナはさっさと歩いていく。
あまりの自由さに、俺たちは顔を見合わせるしかなかった。
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