凶告逃避行~呪われた駆け落ち~

東雲弘治

一章 人食いの黒狂い

 この世界は黒く煙っている。

 ほんの数日前までそのことに気づかなかった。

 浮遊するごく小さな黒い泡。凶告と呼ばれるそれは、空と問わず、地と問わず、気怠そうに漂っている。触れることもできず、ただ不規則に動くだけ。

 誰も正体を知らない。

 そもそも見えない人間もいるのだ。俺もそうだった。

 この俺、燕涯牙の目に映る昼の青空には、黒点が散らばっている。振り返れば、我が愛する百々澄揺鈴との出会いがきっかけということになるのだろう。

「やはり……やはり。許されざることだったのか。燕家と百々澄家が手を取り合うことなど」

 立ちはだかる宿命に怒りをぶつけるように拳を突き出す。漂う凶告を透過して空を切る音だけが残った。

 凶告は死から生まれ、集えば厄災をもたらす。悪いものの形。

 この不気味な黒い粒 が見えるようになったのは、俺の行為が厄災だったという証なのか。

「否! この愛が厄災であるはずがない。両家の不和が何だ! 我らが逢瀬が、二人の男女が結ばれることが、厄災であろうはずがない!」

 俺は自らを奮い立たせるように言葉を紡ぐ。

 すれ違った行商人が不審げにこちらを見た。菅笠を深くかぶっているから顔は見られていないはずだ。

 ここはすでに街道、合中の町まで程なく着く距離だ。

 本来はこんな往来の激しいところへは来たくなかった。合中の町は、燕風国と百々澄国から北の方向へ等距離にあるからだ。姿を隠さなければたちどころに見つかってしまうだろう。

 だがそうせざるを得ない。

 この身に起きた信じがたい状態をどうにかするためには、あの町の商人を訪ねなければならないのだ。

 ――人肉商人を。

 俺は人の肉を手に入れねばならない。そして――、そして食わねばならない。

 そう思っただけで飲み込んだつばが苦く感じた。

 ほんの数日前まで揺鈴の手料理をたらふく食べていたというのに、この変遷は何だ。

 急転した。

 俺は何も食べられなくなった。なってしまった。いまや人の肉だけしか食べられない。

 黒狂い。

 この奇病が俺たちを狂わせた。

「なぜだ……不運というにはあまりにも一気に起きすぎだろう……!」

 ここ数日の急展開に俺の頭は混乱していた。それでも空腹は容赦なく襲ってくる。もう丸三日腹に食い物を入れていない。

 鍛錬で鍛えた足腰でさえ若干のふらつきがある。早く人肉商人を探さなければ。

 俺は菅笠を顔が隠れるように前方へ傾けてかぶり、合中の市内へ入っていった。



 そうして店という店を周り、気づけば夕刻。おおっぴらに人間の肉はあるかなどとは聞けず、迂遠な尋ね方をしていたせいだ。だが。

「くっ……見つからん」

 路地の壁に体をよりかけて天を仰ぐ。

 はぁ、と生気のないため息を宙へ放す。

 考えてみれば当然か。人の肉を好んで食らおう者が表を歩けるはずもなし。看板を表に出す馬鹿者もいないだろう。

「カカッ、ろくに頭も回らんな。燕風国の第一王子ともあろう者がざまない」

 自嘲するも腹の足しにはならず。路地をふらふらと歩く。

 夜が訪れようとしていた。世界が凶告の色に変わる。凶事を告げる泡粒が闇夜に紛れる。

 あちこちで火の明かりが焚かれる。

 だからではないだろうが、目の前に希望の灯火が現れる。

 ふと、商人の服を着た男が前を横切っていった。

 何の気なしに目で追う。商人らしき男は周囲を確認するように見回してから、ひとつの建物の扉を開けた。

「んん」

 俺は少しばかり顔をしかめる。

 嗅ぎ慣れた匂い。俺を国へ連れ戻そうとする連中を返り討ちにしたときの匂い。戦場で漂う死の匂い。

 人から弾けた血の匂いだ。

 商人がすぐに家の中へ入っていったから匂いは途切れたが、気のせいではあり得なかった。

「窓がないからわからなかったのか。――これは当たりか?」

 路地の奥にある人通りの少ない場所。禁忌の食物を密かに売りさばくにはうってつけだ。

 人肉を商うならば当然人間を殺さなければならない。まさか墓を掘り返して腐った肉を売るわけでもないだろう。人殺しなどそう珍しいことではない世だが、おおっぴらにやるほど末ではない。

 隠れてやることには違いないのだ。

 ましてや人の肉を食うなど。

 踏み出した足が止まる。

 できるのか? 入ったとして、肉を手に入れたとして。猪の肉を食ったことは幾度もある。焼くこともあれば生のこともあった。だが人の肉を同じように食えるのか?

「だが選択肢はない。くそっ……畜生に堕ちても生き延びねば。あのような状態の揺鈴を置いて逝くなど天地がひっくり返ろうができぬのだ」

 俺は扉を開けた。中にはあの商人はおろか誰もいなかった。

 座卓が置かれた畳敷きの部屋。八畳程度の小さな部屋だ。行灯が室内をぼんやりと照らしている。

 一見すればふつうの部屋だが、人の住んでいる気配が感じられない。生活をしていればあちこちに痕跡が残るものだ。

「それに、血の匂いが濃くなった。凶告同様、匂いはすり抜ける。――下だな」

 座卓をどかし畳をひっぺがすと階段が現れた。

 途端にむせるような死臭。死体の肉を食らうならば必然か。獣と同じように切断解体しているに違いない。

 悲鳴が聞こえないのは先んじて息の根を止めているからだろう。少なくとも生きたまま肉を削ぐような阿鼻叫喚じみた光景ではなさそうだ。

「死体の肉を削ぐのも見られたものではないだろうが」

 土を削っただけの不安定な階段を下る。ろうそくの灯火が点々とあるだけの薄暗い通路を歩くと、血と死肉の匂いが強くなっていった。

 できるだけ足音を立てないようにひたひたと歩む。

 そして通路の角を曲がると、そこが屠殺の場だった。

 切り分けられた死体を含めなければ、三人。屠殺場にいた人間が一斉に俺を見る。

「おおぉあ!!」

 目から下を巾で覆った男が雄叫びをあげて飛びかかってきた。

 俺は素早く腰の長剣へ手をかけ、抜いた勢いを駆って刃で男の拳を受け止める。鈍い音をともなった重い一撃。剛力に違いない。

「待つのです、喰」

 さっきの商人が鋭く叫ぶ。

 喰と呼ばれた男が、ととんと二歩跳んで後ろに下がる。だがその従順さに反して、目つきは獣のごとくぎらついていた。常人の目つきではない。いや、そもそも――。

「早いことはいいことですが、話も聞かずにというのはいけません。商売の種はどこに落ちているかわからないものですよ」

「いきなり訪問する無礼を許されよ。少々せっぱ詰まっていてな」

 ひとまず落ち着いたと見て、俺は剣を鞘に収める。

「――人肉を売る商人とは貴殿のことか?」

「ええ、当方は劉融と申しまして、世に出ていない新しい商品を開発している商人でございます。ご覧の通り、今は人の肉を商いにできないか試行錯誤の最中でして」

 大鋸を持った男が刃を食いこませている死体を指さして劉融は言う。さらに合図のごとく手を振ると、解体していた男が大鋸を再び動かし始めた。肉がちぎれ、骨が削れる音が部屋の中に響く。

 正気ではいられないような場で劉融は微笑を浮かべていた。

 ややためらってから俺は口を開いた。

「事情があってどうしても人の肉を……食わなければならん。いくらか譲ってもらえないだろうか」

「ふむ、そうですねぇ……」

「もちろん金は払おう」

「ああ、いえ。そうではなく。先ほども申しましたが、これはいまだ開発中の商品でして。未完成の商品を売ることは商人の道に外れます」

 人の道に外れているだろう、と喉まで出かけたが、自分もまたその外道を進もうとしていると気づいて言葉を飲み込んだ。それに、言っても無駄だとわかっている。

「未完成でも構わない。今すぐに食いたいのだ」

「ううぅ……お、俺の肉……!」

 俺の言葉に喰と呼ばれた男がなぜかうなり声をあげてこちらをにらんできた。

「これ、おとなしくしなさい。あなたの分はちゃんとありますから」

 劉融が諭す。

 喰はすでに食べているらしい。あるいは試食係なのか。人の肉を食らう人がそこにいる。あの口布の下は血で汚れているのかもしれない。今から俺も堕ちるのだ。

「まあ、少しでしたら試作品がありますのでお分けしてもよいでしょう。ただし、条件があります」

「条件?」

「商人にとって商品の情報は宝です。売り出すそのときまで一切を秘密にしなければいけません。競合に真似されては敵いませんからね」

 こんなものを売ろうなどという者が他にいるとは思えなかったが、俺は了承した。

「わかった。我が武に誓って口外はせぬと約束する」

 俺は立てた左手のひらを右拳で打った。燕風国の武人が約束をするときの所作だ。

「では特別にお分けしましょう。商品化が成ったあかつきには是非ともご贔屓ください」

 劉融は近くにあった大きな瓶から、たこ糸で十字に縛られた手のひら大の肉塊を取り出してきた。

「塩漬けにしてあります。しばらくは保つでしょう」

 にこやかな表情で塩漬けにした人肉を手渡す劉融。

 俺の手にずっしりとした重み。気が滅入る重みだ。

「礼を言う。貴殿の商売が成功することを祈っている」

 そう言った俺の顔は相当ひきつっていたことだろう。懐に肉をしまい、俺はきびすを返す。

 去り際に振り返らないまま俺は尋ねた。

「この肉の元は、どこから調達したのだ?」

「ご安心を。身よりのない者や人柱にされた者を回収してきただけです。放っておいても朽ちる命。使わないのはもったいないでしょう?」

 得意げな声を背にして俺は夜の町へ戻った。



「とはいえ、だ」

 手の中の肉を凝視する。見た目はそこらの獣肉と同じ。されどそれは。

 先ほどの光景が脳内によみがえる。

 男の手で死体が何のてらいもなく解体されていく。臓物はあらかじめ抜いていたようだが、太股や腹周りの肉は大きく削ぎ取られていた。

 この肉はいったいどの部位なのだろう。

 そして、『誰』だったのだろう。

「いかんな。今はそれを考えても詮無きこと。食わねば……食わねば死んでしまう」

 絶食した胃は一刻も早く食べ物を求めている。人の世の道理など気にしている余裕はない。

 目の前に肉がある。ならば大口を開けて、食らえ。人も獣も変わらん。戦場でとっくに知っていたことだろう。

「そうだ。食うのだ、食って、命をつながねば!」

 手のひらの肉に向かって顔を突撃させる。

 心臓がどこんっと揺れた。

 俺の口の中へ、肉の味が広がり――はしなかった。

「駄目だ! できぬ! どれだけの理由があろうとそれだけはできぬのだ!」

 俺は肉を固く握りしめた。

 ぶちりと切れる感触。自分を抑えつけるようにめいいっぱいの力を込めた。

 腹が獣の咆哮のように鳴ったが、構わず塩漬け肉を夜の闇の中へぶん投げる。

「く、ぅ……」

 揺鈴との駆け落ちは両家の怒りを買った。幾多の追っ手を返り討ちにした。だがそれらは皆武人だ。覚悟して剣を向け、拳をふるった。

 どこぞの哀れな名もなき人ではない。小さき民を殺し、食うなど王族の所業でも、ましてや人のしてはならぬことだ。

 食べられるものか。

 俺はふらつきながらも、確かに地面を踏みしめてその場を去った。

 振り返りはしない。

 未練はない。

 どのみち――背後の闇には後をつけてきた喰という男がいる。

 あの男が平らげてしまうだろう 。

 これでよかったのだ。

 狂気に堕ちた者たちとまともに付き合うことはできない。

 奴らの腹の中は黒で満ちていた。

 俺にはそれが見える。

 巨大な凶告が三人の腹に居座っているのが見えた。

 こうなってはどうにもならぬ。外道の理を咎め立てしなかったのは、確実に歪んでいると知っていたからだ。

 あれこそ黒狂い。

 凶告に憑かれた成れの果て。

 在り方が確実に歪んだもの。人の形をした人でなし。

 そうだ。知っているとも。『ああなった』のは俺の愛した人もだからだ。そして俺自身も……。

 歪な黒い泡が収斂して、その者は狂う。

「揺鈴……」

 彼女に見せられた血塗れの腕が思い起こされる。

 悲しみを胸に、俺はおぼつかない足取りで町を出た。



 空腹の目覚めとはつらいものだ。

 逃避行の最中も大したものは食べていなかったが、食えるだけマシだった。痩せた猪肉でもしなびた木の実でも今は垂涎の一品。

「うおぉ……た、立つのも一苦労とはな」

 寝床にしていた木の幹を支えにして俺はようやっと立ち上がる。

 ぼろぼろと木の皮が落ちた。

 苔まじりの乾いた木片。

 俺は何も考えずにそれを口に入れようとした。

「あっ……かっ……」

 途端に全身がビタと硬直する。

 何を食べようとしてもこうなのだ。魚でも草でも口に入れようとした途端に体が石になったように動かなくなる。どれだけ力を入れても駄目だ。

 俺は諦めて木片を放り捨てる。

「食えないものならばいけるかと思ったが……」

 実のところ、こうなった直後からいろいろと試しており、食べようと思っていたなら木片だろうが鉄くずだろうが同じ反応になる。

 水は飲めることは救いだが、食わずに体力がいつまで保つかわからない。なんとかしなければいけないが、もはや何の手も思いつかない。

 そもそもどんな手を講じようが人の肉を食うことは避けられないのだ。

 完全に道が閉ざされている。

「カカッ、餓死だと?」

 口に出した末路を笑えない 。

 何かないのか。人を食べながら人の肉を食わない方法が。

 俺はあてもなく歩き出した。

 重い足取りの先に奇跡があることを願って。

 俺の周囲を舞う凶告が、そんなものはないとあざ笑っているような気がした。

「……? いや、これは……凶告に流れができている?」

 凶告は生物ではない。聞いた話では、動きはするが、そこに意志も法則も感じられないという。

 だが目の前の凶告はある方向へ向かってゆるやかに流れていっている。

 もはやあても ない。俺は藁にもすがる思いで凶告の流れを追った。別にこの先に窮状を救う何かがあると直感したわけではない。半ばやけっぱちだ。

 だからこそ、これから出会う相手には驚いた。あまりにも都合がよすぎるがゆえに。

 しかし物事は釣り合いが取れるようにできているものだ。

 空腹の限界を越えていた俺はうかつにも警戒を怠っていた。そう、後ろからついてくる黒狂いに気づけない程度には。



 凶告の流れの先には小さな森があった。足を引きずり、草木をかきわけながら奥へ進むと、粗末な小屋を見つけた。

「こんなところに人が……?」

 聞いたことはなかったが、燕風国も他の国もすべての住居を把握しているわけではない。ましてやこんな狭そうな小屋など。

 凶告は小屋の中へひきずりこまれているようだった。

 俺は開け放された窓へ向かって声をかける。衰弱していることが自分でもわかる弱々しい声だった。

「誰かおられるか」

 少し間があって、小屋から人が現れた。

「あらら? ここを訪ねられる方とは珍しい」

 穏やかな声の主は女性だった。その容姿に俺は目をみはる。

 赤褐色の長い髪が波打ったように伸びている。肌の色は生まれたてのように白く、シミひとつ見られない。若干垂れ気味の目は声と同じ穏やかさを感じさせる。

 俺は揺鈴をこの世で一番の美女だと確信しているが、目の前の女性はそれとは別種の美しさを感じる。

 それと、不気味さも。

「異国の者か?」

 つい口に出してから後悔した。

「と、失礼。初対面で無礼だった」

「気にしてはいませんよ。いきなり首を飛ばされるのに比べればこのぐらいは」

 冗談にしては物騒すぎることを言って、女性はわずかに笑みを浮かべる。その目は笑っているようにも笑っていないようにも見えた。いまいち感情がつかめない相手だ。ここも揺鈴とは違う。

「それで、何かご用でしょうか? 私がお役に立てるなら何でもいたしますよ」

「い、いや。頼みごと、というわけではないのだ。ただ凶告の流れを追っていったらここへたどり着いただけで」

「ああ、あなたはゲンジュが見えるのですね。ジュワイゼンネイアの素養があるならば当然ですが」

「は? ジュ……?」

 聞き慣れない発音の言葉を聞いてつい声が出た。空腹だと気遣いもままならない。

「んと、ごめんなさい。今の時代だとマガツでしたか。何十年経っても慣れませんねぇ」

 女性は口元に手を当てて声を立てずに笑った。

「私はペナ・ミドネユメ。仰るとおり遠い彼方の異国出身です」

「俺は……涯牙という。名乗りもせずに済まなかった」

 用心して下の名前だけを言う。

「ほうほう涯牙さん。よいお名前ですねぇ。どこか高貴さを感じさせます」

 内心どきりとしたが、空腹で表情を動かす気力も萎えていたので表情には出なかった。

「それで、凶告がここに流れてきた理由ですが、私の体は凶告を消費し続けるようになっているんですよ。まあ黒狂いの一種と思っていただければ」

「なるほど……」

 俺は半信半疑だったが、ペナの体へ吸い込まれた凶告が薄くなって消える様子を見れば信じざるを得ない。どんな仕組みなのかは見当もつかないが、空腹という大問題を解消する役に立つようには思えなかった。

 やはり無駄骨か。そう思って立ち去ろうとした途端、腹が低く咆哮してしまった。

 その音はペナにしっかりと聞こえていたようで、心配そうな目を向けてきた。

「やつれた顔を見て先ほどから思っていましたが、もしや何も食べてらっしゃらないのでは? 乾物しかありませんが、よろしければご馳走しますよ」

「俺も事情があってな。申し訳ないが、あるもの以外は口にできないのだ」

「それはあなたにかけられたジュワイ……いや凶告夜行によるものですか?」

「マガツ……ヤコウ? 何だそれは。確かに凶告を視認することはできるが、俺が食えなくなったのは黒狂いのせいだ」

「ああ、まあ、そうとも言えますか。人為的に引き起こしたという違いがあるだけで結果は同じですからねぇ。あ、凶告がくっつく位置の違いもありますか」

 淀みなくしゃべるペナに俺は不審を抱く。黒狂いは、俺の弟で物知りな膨座ですらわからないことが多いと苦笑していた未知の奇病だ。それなのにこの女は黒狂いについてさも当然のように語るどころか、それ以上のことを知っているような口振りではないか。ある分野に精通した者特有の自信が見て取れる。

 この異国の風貌をした女性は、いったい何だというのだ。

 俺の警戒心に気づくふうもなく、ペナは言葉を続ける。

「そうですか、特定の食べ物以外は受け付けないと。その空腹から察するにその食べ物とは、入手しづらいものか、あるいは食べることが禁忌になっているものでしょうか。例えば、人肉とか」

「な、なぜわかった!?」

 言い当てられたことに動揺してつい本当のことを答えてしまった。

 ペナの反応はばつの悪そうな微笑だった。

「あら、当たっていましたか。黒狂いならそれぐらい強烈に在り方が歪んでもおかしくはないと思いましたが」

「……驚かないのだな。俺は人を食わねば生きていけなくなったのだぞ? そうだ、例えば貴殿を」

「あ、じゃあ食べますか? とりあえず手首から先だけで」

「はっ?」

 驚いたのは俺のほうだった。何だその軽さは。握り飯をひとかじり分けてもらうなどという話ではないのだ。自らの肉を食べさせるなど、それこそ揺鈴のように黒狂いにでもならなければ出てくるはずのない発想だ。

 頭がおかしいのか?

「頭がおかしいのか?」

 考えたことがそのまま口をついて出た。

「正気なんですよねぇこれが。私は人の役に立つことが何よりも好きなんです。さあ、遠慮なさらず」

 ずいっと手を出すペナ。ぞっとするほどきれいな手だ。

 揺鈴の手も美しかった。握れば温かかった。

 それを思い出し――俺は声を荒らげた。

「馬鹿者が! 自らの体を他人に差し出して食わせるなど、許されるわけがない。小さくても一生の傷になる。腕を切り落とせば二度と生えぬのだ!」

 極限の空腹でも怒りを伴えば大声は出せるらしい。

 しかしペナは動じない。表情を崩さず、何事もないかのように話を続ける。

「あなたは矜持のある方ですねぇ。ここに至ってもまだ我慢するとは、なかなかに心が強い。ですが、遠慮は本当に無用なんですよ。なぜなら――」

 ペナは小屋の隅から鉈を拾うと、片手を机の上に乗せ、薪でも割るかごとく何の躊躇もなく自分の手首を切り落とした。

「な……?! 何をしているっ、死にたいのか!」

 どくどくと血があふれ出す。放っておけば血を流しすぎて死ぬというのに、ペナはやはり平然としている。何だ、こいつは何なのだ。

「そうですね、死んでは困ります。頼まれたことを果たせません。困るから死にません。――ほら」

 ここに来てからずっとペナの体には凶告がゆるやかに吸い込まれていた。今、その流れが一気に加速を始めている。

 すると信じられないことが起きた。

 手首からの血がみるみる少なくなり、肉が切断面から盛り上がっていく。常軌を逸した光景に、俺は口を開いたまま言葉が出ない。

 そして三十秒も経たないうちにペナの手首から先は完全に元に戻っていた。

 肉体が異常な速度で治った。治ってしまった。

 まともな人体ではあり得ない状況。

 切り落として床に落ちた手首はまだ血を流している。つまり、血が乾くよりもさらに早く手が生えた。

 夢でも見ているのか?

 例えば黒狂いは人体の常識を越えた症状を起こすが、ここまで現実離れしたものは見たことがない。

 人どころか生ける者の道を外れているではないか。

 治癒の完了と同時に、凶告の流れは再びゆるやかなものに戻った。

「貴殿は……いや、お前はいったい何者だ」

 凶告よりも不吉な相手を前にして、俺の心は動揺に満ちていた。もはや物の怪のたぐいだ。ふざけている。

「そう警戒なさらず。私は人です。れっきとした。まあ、あなたと同じ凶告夜行を受けた身、黒狂いということですよ。私は死なない体になったんです。どんな怪我をしても今のようにたちどころに再生します」

 信じがたいことを微笑をたたえて淡々と説明する。

「馬鹿な……」

 俺は呆然とつぶやいたが、目の前で起きたことは空腹からくる幻覚ではなく、明確な事実だった。

「ですから遠慮は無用です。私のことは実をつける草木とでも思ってくださって構いません。どこでもお好きなところをどうぞ」

 どうぞ、ではない。ためらいなく差し出す不気味さ。自分を草木のようなものとのたまう。治癒力よりもそっちのほうが恐ろしい。

「そういう問題ではないだろう! いくらでも生えてくるからといって自分の体を食事に供するやつがあるか! 第一、痛いだろうが……」

 俺は揺鈴の有り様を思い出して語気が弱くなった。それだけにとどまらず、俺はその場にへたりこんでしまう。足が言うことを聞かなくなっていた。衰弱が甚だしい。空腹とはここまで己を弱くするのか。

「しかし、食べなければ死んでしまいますよ? わざわざこのような場所に来たのも生きるあてを探してのことでしょう。そうまでして生きたいのなら躊躇する必要はありません。さあ」

 そう言われても決心はつかなかった。

 そもそも頭にもやがかかったような思考では決断も何もない。

 餓死。飢え死に。そんな末路は御免だ。だが人肉を食うのは人間の矜持を捨てることだ。できぬ。できぬ……。揺鈴。俺はここまでか。

 ペナが両手をずずっと口の前に差し出してくる。食えということだろう。真っ白な手にかぶりつき命をつなげ、と。

「くっ……ぐぐ。ここで俺が死ねば揺鈴は悲しむ。愛を捨てるくらいならば、俺は喜んで人でなしになろう!」

 ぐわっと口を開けて、俺は差し出された手を握る。冷たい手だった。人の手だった。

 震える歯を突き立てようとした俺の脳裏に浮かぶのはせめてもの願望。

 せめて、せめて人の肉の形をしていなければ……!

 揺鈴の手料理とは言わぬ。昔に食った死ぬほど苦く渋い木の実でもいい。俺は、人の肉の味を知りたくないのだ。

 そう思った直後、凶告の流れが起きた。群をなす油虫のように、俺の中から腕を伝って黒い泡がペナへ流れ込んでいく。

「……これは」

 ペナの表情がわずかに動いた。

 ぼんやりと俺の手を見下ろすと、干した肉といくつかの木の実を握りしめていた。

 どこから、と思う間もなく俺はそれらを口に放り込んだ。

 味はわからなかった。必死で咀嚼して飲み込んだ。

 飲み込めた。

 人間の肉以外は食えないはずなのに。黒狂いが治ったのか?

 否、俺は知っている。

 この食べ物はどこから現れたのか。死にかけの目はしっかりと映していた。

 差し出されていたペナの手が、みるみる姿を変えてこの食べ物になったのだ。ペナの手は肘のあたりまでが消失し、再び再生を始めていた。

「なるほど、凶告夜行……素養があるなら死に際の強い願いがきっかけにもなりますか」

 冷静につぶやくペナ。だが俺はその内容を聞くどころではなかった。

 ペナの足下には変化した食べ物が点々と落ちている。俺はそれらを拾っては口に詰め込む。ようやく味を感じられる余裕が出てきた。食べたことのある味だ。猪肉と木の実の味。結局人肉の味を知ることはなかったが、これが人肉の味でないことはわかる。

「ああ、うぅ……ぐほげほっ!」

 俺はむせた。涙が出た。燕風の王子なれば、食うものに不自由したことはない。真の空腹からの食事がこんなにも感動を覚えるとは思わなかった。

 だが――。

「ふぅ……」

 ため息は悲しかった。

「落ち着かれましたか」

 ペナはこのため息を飢えが満たされたからだととったらしい。

「あなたに起きた黒狂いは、『人の肉しか食べられない』ではなく、『人と認識したものだけしか食べられない』といったところでしょうか。そんな抜け穴があるとはわかりませんでしたね」

「抜け穴か。大した意味のない穴だな」

「おや、どうしてでしょう?」

「何がどうなったのかよくわからんが、つまるところ、俺は貴殿を食した。人とわかって食べたのだ。形式の問題ではない。結局、俺は自分で自分を騙すようなことはできないのだ」

 それは譲れない一線だというふうに俺は言った。

「真面目な方ですねぇ……自分を戒められる人は好きですよ。ずっと生きていてもあまり出会うことはありませんから」

 口元に手を当ててかすかに笑うペナ。すでに手は元通りに治っていた。

「俺はただ自分に正直でありたいだけだ。誤魔化してもしょうがないからな」

 でなければ駆け落ちなどするものか。揺鈴への愛は地位も家柄も置き去りにするほどに強い。悩みこそすれ、決行にためらいはなかった。

 胃にものを入れたおかげか、全身に気がめぐり始める。

 鈍っていた感覚が元に戻った俺は、音を立てぬようゆっくりと剣を抜く。

 俺の動きをペナは微笑んだまま眺めている。

 そして俺は勢いよく体を反転させ、一気に踏み込んで入り口の扉を貫いた。

 男の低い悲鳴。

「ここまで近づいてきていれば病み上がりの俺でも気づく」

 扉を蹴破ると、そこにはあの喰がいた。昨晩出会ったときは目から下を布で隠していたが、今の攻撃ではがれて顔の全体が露わになっていた。

「ううぅおお」

「獣になりかけているのか? 人肉を食らうのもそのせいだろうな」

 喰の口は頬肉がなく口の中がむき出しになっていた。歯は常人のそれではなく、犬や狼のような鋭く尖った歯。噛み殺すための歯がそこにあった。おそらくは手足の筋肉も獣のそれに近くなっているのだろう。地下で受けた剣への重い一撃を思い出す。

「おっ、おっ、い~いことを聞いたな、な、なぁ」

 裂けた口で言葉を乱してしゃべる。なんという凶暴な笑みか。

「俺をつけてきたということは、あの劉融とか言う商人はやはり俺を信用していなかったと見えるな」

 俺の言葉を聞いているのか、喰はばねを押し込むように屈み込んでいる。

「があああっ!!」

 強靱な肉体が弾け、俺をめがけて一直線に飛びかかってきた。

「なめるなよ犬もどき!」

 剣をふるって迎え撃つ。その剣閃が強靱な獣歯で食い止められた。拮抗して出る鋭い音。どんな固い歯だ。

「ぐぎぐぎ……!」

「ちっ、アゴの力も獣のそれか――がっ!?」

 腹に衝撃。がら空きのところへ蹴りをモロに入れられてしまった。俺はよろめいて下がる。まずい、ここを追撃されたら……。

「も、もらっていくぞ。その、肉」

「あらら?」

 喰はうれしそうに笑って、部屋の中に突っ立っていたペナを抱えると入り口の壁を壊して勢いよく飛び出していった。

「しまった、そっちを狙っていたのか!」

 どうにも本調子ではないせいか、気づかなかった。人肉商人からすれば無限に再生する人間など垂涎の的だ。あの喰がそこまで考えていたかは微妙だが、連れ去られてはまずいことに変わりはない。

「くそっ、あの女性には聞きたいことがまだあったのに……」

 凶告についても黒狂いについても通常は知らぬことを知っているようだった。もしかすると俺たちの窮状を打開する手がかりになるかもしれない。

 それに現時点でかろうじて食えるのはペナの体だけだ。

「まだ死ねない。揺鈴を元に戻すまでは人食いの畜生に甘んじてやる」

 俺はペナが最初に切り落とした手首を拾う。

 先ほどの感覚を思い出す。凶告が自分の中に取り込み、体を伝わせて相手へと流し込むような感覚。

 果たしてそれはうまくいき、ペナの手首は干した麦に変じた。両手いっぱいの麦をひと思いに口へ放り込むと、合中の町へ向かった。



 喰は人一人を抱えたままにもかかわらず全力で駆け、あっという間に合中の町へ到着。そして捕まえてきたペナを、劉融が商品開発室と呼ぶ地下部屋へ連れてきていた。

 事情を聞いて目を輝かせる劉融。

「それは素晴らしいですね! 状態のいい肉が無限に取れるとは……原価の概念がなくなります。鮮度のいい肉の調達が商業上の弱点でしたが、この肉があればすべて解決するではありませんか」

「おっ、おっ、俺にも肉くれ……くれ……!」

「もちろん。これ、足を片方切ってくれてやりなさい」

 劉融が鉈を持った解体係に指示をすると、鉈が振り下ろされてペナの右足が根本から切り離された。

「あのー、ここにはいつまでいればいいんでしょうか」

 この残酷な仕打ちをまるで気にせずにペナが尋ねる。

 この場の誰一人として正常な者はいないようだった。そうであれば返ってくる答えもまた正常ではない。

「一生です。ああ、死なないのであれば一生ではなく永遠ですか。あなたはずっとここで肉を提供していただきます。我々の商いの要として役に立ってもらいましょう」

「それは困りますねぇ。役に立つのはうれしいですが、私には大事な頼まれごとがあるんです。ここで拘束されるのは望みません」

「うぁぐ……うるせぇ、う、うるせぇぞ。肉。黙ってお前は食べられろ」

 ペナの足を鋭い歯で噛み砕く喰。血にまみれた形相が恐ろしい。

 それを見ても劉融は笑顔だった。

「いやはや私は幸運ですね。無料で原料が手に入るなど、商売において夢と呼ぶべきでしょう。百々澄家から喰を借り受けて本当によかった。後で十分な対価を送らねばなりませんね」

 その言葉で俺は姿を現すことに決めた。

「そうか、お前たちは百々澄の者だったか。つくづく因縁がある」

「おや、先日の……因縁とはどういう?」

 劉融は笑顔を崩さず、しかしその目は油断なく光っている。

「俺は燕家の涯牙。故あって第一王子の座を捨てた男」

「う!? 燕風のニンゲン! ど、百々澄の敵、こ、殺す!」

「まあ待ちなさい、喰。王子の座を捨てたと言っているでしょう。ならば敵ではありません。お客様かもしれない方を邪険にしてはいけませんよ」

 劉融は落ち着いた様子で喰をなだめる。この期に及んでなお商機を考えるあたり生粋の商人と言えよう。だから今はまだ俺は客として相対する。

「そうだ。俺はやはり客として来た。譲ってほしい品があってな」

「人肉ですか? 塩漬けならまだ残っておりますが」

「いいや。欲しいのはたった今足を切り落とされたその女性だ」

「ああ、新鮮な肉をご所望でしたか。ですが、まだ商品の特長を調べ終わっていないので後にして……」

「俺が欲しいと言ったのはその女性だ。切り分けた肉としてではなく、そのすべてを売ってくれと言っている」

「それはできかねますね。金の卵を生む鳥を売るようなもの。そんなことをしたら商人失格です」

 交渉は終わった。俺は武に誇りを持っているが、戦わずに済めばそれに越したことはない。だが、人間を食肉としか見ない外道に鉄槌を下さぬほど甘くもない。

「……わかった。狂っていても商人か。ならば知っていよう。この世には金を払わずに商品を奪う人間がいることを!」

 俺は怒声とともに劉融へ切りかかった。その剣の横側から喰の腕が伸びて当たり軌道をそらす。

「いやはや、客ではなく強盗でしたか。しかし、ふふ。ここであなたを始末すれば百々澄に恩が売れるというもの。敏藍、喰、この強盗を処分しなさい」

「人を食らうなら同じ外道。外道なりに決着をつけるのが筋よ」

 鉈を持った解体人・敏藍、獣と化した食人鬼・喰。二つの視線が俺を強烈に威嚇する。殺意を明確にしている。

「来い雑兵ども! 我が武を目に焼き付け地獄への土産とせよ!」

 俺は手をひらつかせて二人を誘った。

「うるぉおおぁ!」

「フウッ」

 鉈と拳が同時に打ち込まれる。

 狭い部屋だ。抑えきれない殺意をすぐさま発散しようとすれば同時に突撃するほかない。

 俺は剣を横に構えて上段にかざしていた。地に根をはるように足腰の体勢を作り、二撃分の衝撃を受け止める。

 国から持ち出した唯一の宝、名工の鍛えた頑強な長剣『風頑』は攻撃をきっちりと受け止めた。

「ぐっ、ぬ…………――ぜいっ!」

 そのまま力を受け流して回転。攻撃者たちの体勢が崩れる。こちらへよろめいた敏藍の背骨に渾身の力で肘を落とす。

「げがはぁ!」

 敏藍は鉈を取り落として地面に勢いよく叩きつけられた。起きあがってくる様子もない。やはりただの解体夫に過ぎなかったようだ。武の心得がなくとも敵は敵。

「兵でなくても容赦はしない。殺意をもって攻撃するならそこは戦場と心得よ」

 もう一方もまた兵ではない。兵と呼ぶべきものではない。

「うるぉお……! こ、殺す。て、て、てめぇの肉も食ってやる……!」

「黒狂いを軍に組み込んでいるとの噂はあったが、百々澄ならさもありなん。揺鈴も知らないのは秘匿されていたからか」

 だが今は些事に過ぎない。目の前の敵をただ打ち倒すのみだ。

「がぁあっ!」

 前のめりになって突撃してくる獣の顎を持った男。宣言通りに大口を開けて俺を食いちぎろうとする。

 二種の鋭い音が交錯する。金属剣と獣歯。どちらもひびも入らずに硬度は拮抗。――ならば!

 俺が剣から手を離して両の拳による打突の構えをするのと、喰が初戦のように蹴りを繰り出すのが同時だった。

 今度は鈍い音が生じた。

「ぐ、強力」

「ううぅ~っ……!」

 空腹を解消したばかりでまだ本調子ではないためか、鍛え上げた拳の骨まで衝撃が響く。

 だがそれは向こうも同じだったようで、互いに飛びすさり、間合いを取った。

 喰が噛んでいた剣を吐き捨てる。

「ぶぅっ! まじぃ~、鉄の味は、き、嫌いだ! 食うなら、人の肉に限る……ぐふふっ!」

「俺は願い下げだ。どうであれ人が人を食うものではない」

 余裕ぶってみたものの、剣を放してしまったのは痛い。

 加えて体力の消耗が思ったより激しい。この相手をせめて退かせるぐらいには追いつめられるかどうか。

 にらみあいの中、ごりごりと音が鳴る。

 音のほうを見やると、劉融がペナの首を切り落としていた。

「なっ、お前、何をやっている?!」

「戦闘に巻き込まれてはたまりませんからね。この方にお聞きしたら首だけでも再生できるとのことでしたので、首だけ持って退散させていただきましょう」

「首だけの状態から再生するとさすがに時間がかかるので、できればやめてほしいんですけどねぇ」

 首だけになったペナはちょっと困った顔をしているだけで平然としゃべっていた。

 この部屋の中で一番の化け物ではないか。

 必死の状況でこんなわけのわからない光景を見せられては気が散ってしまう。目の前で対峙しているのは、その隙を見逃してくれる相手ではなかった。

「がぁお!」

 隆々とした筋肉が腕の振りとともに俺のわき腹を直撃する。

 俺の体は壁に吹き飛ばされた。寸前で腕の守りが入っていなければ、あばらを折っていただろう。

「ぐっ、がはっ! これは、猪の突進を受け止めたときのような……!」

 かなりまずい。衝撃が体から引かない。早く立ち上がらなければ。

「うるぅあ!」

 喰の追撃を転がってかろうじてかわす。だが攻撃は止まらない。両手を組んで槌のごとく叩きつけてきた。

 落ちた剣を拾って中腰で受け止めるのが精一杯だった。

「うっ、おおおおお!」

 床にめり込みそうなほどの圧力。中途半端な姿勢で、しかも壁際では受け流すのも避けるのも難しい。

 全身がみしみしと軋むのがわかる。歴戦の将にも渡り合えるだけの研鑽を積んできたつもりだったが、こんな規格外の相手は想定していない。

「ぐるぅふふ……ぶっ潰して、挽き肉にして、食ってやるぅ!」

「押し切られる……!」

 剣を持つ手が限界を迎えようとしていた。

 そして。

「ギャアアアアアアアアアッ!!」

 遠くから凄まじい悲鳴が轟いた。

「なっ!? あれは、商人の声か?」

 地下のこの部屋へ続く通路に絶叫が反響していた。

 さすがに喰も驚いて圧力がゆるんだ。その隙に俺は喰の腹を蹴飛ばして距離を取る。

「て、て、てめぇえ! 仲間を呼んでやがったなあぁ!?」

「カカッ、何の準備もなく単身突撃するほど俺は蛮勇ではないぞ!」

 優位を誇示するためにそう強がって見せたが、もちろん俺は一人でやってきた。俺の味方は誰一人いない。来るはずがない。揺鈴を、愛する人を助けるために俺は彼女を置いて一人でこの町にやってきた。

 あんな黒狂いになってしまった揺鈴のそばにはいられない。いてやれない。だから待つように言い含めてきた。

 だが果たして素直に待ってくれただろうか。

 目の前の黒狂いたちを見て俺は不安を覚えた。こいつらは自らの在り方に疑問を持っていない。歪みきっている。

 聡明な揺鈴は異常に気づくことができた。そうであってもその影響から逃れることはできないのではないか?

 揺鈴の歪みは俺に対しての執着だ。愛情と言ってもいい。その本質は変わっていないがゆえに、耐えられなかったとしてもおかしくはない。俺を追ってここまでたどり着いてもおかしくはない。

 だから、その声が聞こえたときも俺はあまり驚きはしなかった。

「涯牙さまぁ……♪」

 とろけるような甘い声が俺の耳を打った。

 白い足袋がとたとたと愛らしい音を立てる。

 肩まで伸びた白銀の髪が場違いに美しく揺れる。

「揺鈴……」

 薄闇から現れ出でたのは、幼さの残る可愛さをした俺の想い人。片方の袖がちぎれた花柄の振り袖を前後逆に着る彼女こそ、百々澄揺鈴。

 揺鈴は俺だけに見せてくれる満面の笑顔で、俺の腰へ抱きついてきた。

「離れること三日、とうとう見つけましたのよ……お会いしとうございましたわ……」

 俺の胸元におでこをこすりつけて、親愛の情がこもったようにつぶやく揺鈴。蜜花のような香りが鼻孔をくすぐる。

 戦闘中にもかかわらず、俺は顔がゆるむのを止められなかった。揺鈴の銀髪を優しくなぜてやる。俺とて本当は一日たりとも離れたくはなかった。

「愛しているぞ、揺鈴……」

「い、い、色ボケどもぉお! 何を、何をいちゃいちゃとしてやがるぅ! お、俺を無視するんじゃねぇえ!!」

 喰が飛びかかってくる。

 俺の気持ちはすっかり弛緩していたのだが、それは別に色ボケだからではない。

 もう勝っているからだ。

 揺鈴が首を反ってぼそりとつぶやく。冷たい温度で。戦士の顔で。

「お死になさい」

 目にも留まらぬ速さで揺鈴の右腕が動き、背中から何かを取り出して投げた。

「ッ! ぎゃわんっ!?」

「あら、まだ首がつながっていますのね。なかなか迅いですわ」

 直前まで俺に向けていたものとは似ても似つかぬ、完全なる無表情で攻撃の結果を口にする揺鈴。

 喰の片腕が二の腕のあたりで切断されていた。直前で体をひねっていなければ首が落ちていただろう。代わりに襲うのは痛み。喰はうずくまって絶叫する。

「お、お、おおおおおおおおォ!! 腕っ、腕がああぁああああぁ!!?」

 揺鈴の手には投擲した得物が戻っていた。くの字をした大きな刃『銀月』。投げれば手元に戻ってくる、百々澄家お得意の変則的な武器だ。

 揺鈴は百々澄家の次期後継者。本来ならば、頭首の百々澄電左衛門を除けば、単体で渡り合える者はいない。

 少なくとも消耗している今の俺よりは遙かに強い。

「どうする、喰とやら。俺たち二人を相手にしてまだ一戦交えるか?」

「ぐ、ぐぐ……てめぇら、殺すからな。確実に!」

 喰は腕を押さえた格好で、跳ぶようにして走り去った。勝機があるかどうかを考える程度の理性は残っているらしい。

「逃がしませんわ」

 揺鈴は追撃の手を止めない。『銀月』の刃を暗い通路に向かって投げ込んだ。だが喰の悲鳴は聞こえず、刃も戻ってこなかった。

「何かで防がれたらしいな。まあいい、とにかく助かった。揺鈴、感謝せねばなるまい。ありがとう」

「いいえ。お礼を言われるようなことは何もしておりませんわ。揺鈴は涯牙さまの言いつけを守らずにここへやってきてしまったのですから」

 憂いの表情と裏腹にどこかそわそわとしている揺鈴。

 俺にはその理由がわかってしまう。それこそがまさに俺が揺鈴から逃げてきた理由だからだ。

 答えが揺鈴の左袖口から取り出された。

「どうしても……どうしても揺鈴を食べていただきたくて」

 干からびた左腕が。

 袖で覆われた部分の腕は、肩口から先が存在しない。黒狂いによって乱心した揺鈴が自ら切り落としたのだ。あの『銀月』を用いて。

「揺鈴…………」

「ああ、そんな目をなさらないで。わかっておりますわ。揺鈴が狂気に堕ちていることは。愛の形が歪んでいることは。ですが、ですが我慢できませんの。心の内からわき上がってくるこの想いを解き放たずにはいられないのですわ」

 痛ましい。二つの意味で痛ましかった。

 切り落とされた揺鈴の腕の傷跡が、そして歪まされてもなお深く感じる俺への愛情が。

 いっそ俺を嫌いになる狂いなら諦めもついただろう。だが揺鈴の愛そのものは何も変わっていない。ただ発露の仕方が変わっただけだ。

「わかっているだろう、揺鈴。お前のことは骨の髄まで愛していることも。であるがゆえにその願いは聞けないことも。愛を誓った伴侶の肉を食らうなど、天が許そうと俺は許せない。今は耐えてくれ」

「その言葉が聞けただけで揺鈴は幸せですわ」

 無理矢理に作ったであろう笑顔で言う。その表情が心中で吹き荒れる衝動の強烈さを感じさせて、俺はつらくなった。

「なるほど。黒狂いと凶告夜行の才が同時に出たわけですか。こんな例は久々に見ましたねぇ」

 深刻な雰囲気を無視するようのんきな声に視線を向けると、そこには恐ろしい光景が広がっていた。

 ずり、ずり、と血塗れのぼろ切れを引きずりながら、下半身の途切れた女性が手だけで地面を這ってきている。

「きゃあああ! 何ですのこいつは!?」

 揺鈴が悲鳴をあげる。

 俺も思わず一歩後ずさってしまった。

 四肢のもげた人間は見たことがある。体をまっぷたつにされて絶命した者を見たこともある。だが上半身だけで平然と生きている人間は知識の中にすらなかった。

「本当に……どういう体をしているのだ……?」

「いやはや、腕だけで這ってくるのはなかなか疲れますねぇ。首を落とされるとこれだから嫌なんです」

 正直言ってかなり心臓に悪い光景だった。出血が続いているせいで地面には血の痕がべったりと続いている。

 下半身が断裂したペナの体には凶告がものすごい勢いで集まっていた。高速で再生をしていることがよくわかる。

「ん、そのぼろ切れはあの商人のものか? 血だらけのようだが……」

「そこの女の方にバッサリ真っ二つにされましたからね。しかも縦に」

「涯牙さまのことをお尋ねしたら、『あの強盗でしたら、私が処分を命じました。今頃商品にもならない屑肉になっているでしょう』などとふざけたことを申したのですもの」

 そう言って揺鈴は頬を膨らませる。

「おかげで凶告が発生して回復が早まりました。どうもありがとうございます」

 もともと心を許した人間以外には冷たい揺鈴だ。俺がらみだとさらに沸点が低くなるので、思わずぶった切ってしまったのだろう。だからといって外道の商人に同情する気もないが。やはり人は人の肉を食べるべきではない。たとえそれが愛する相手のものだとしてもだ。

「さて、ここで話をするのもなんだ。一度外へ出ようじゃないか」

 と言ってから気づいた。下半身再生中のペナを今外へ出すと騒ぎになってしまう。

「……やはりしばらく待たねばならんか」

「そうしていただけるとありがたいですねぇ」

「今更聞くのもなんだが、貴殿も痛みを感じぬのか?」

 俺は時間潰しがてら気になっていたことを尋ねる。戦いに慣れた俺でも痛いものは痛い。

「すごぉく痛いですねぇ。でも何千何万回と繰り返していると反応するのに飽きてくるんですよ」

 やたら大げさに言うなと思った。ペナの外見からして二十代か、悪く見積もっても三十そこらだろう。その程度で何万回も死ねるわけがない。どうにもつかみどころがない。この不可思議な女には聞かねばならないことが山ほどありそうだ。 

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