第23話

 その日は平日で、比較的涼しい一日だった。

 九月も下旬。流石の残暑も、そろそろ終わりが見えてきたのではないだろうか、という時分。朝晩は過ごしやすくなっても、日中はまだ暑さが残る日もある。

 最近は放課後残って図書室で…というのが日課なのだが、この日はそういう気分でもなく、さっさと昇降口に向かう。途中で雄太とすれ違い、あれ?という顔をされたが、何か言われる前に「また明日」と挨拶をして逃げるように階段を駆け下りた。

 駐輪場で何人かの友人とも同じような挨拶を交わし、自転車に跨がる。

「………」

 ふう、とひとつ息を吐いてから、碧はゆっくりと自転車をこぎ始めた。

 学校を出て少し自転車を走らせたところの信号で止まる。家に帰るには、この横断歩道を渡って真っ直ぐに行けばいい。

 けれど。

 碧は視線を右に送ってから、ハンドルをぐっと強く握った。そして信号が赤から青に変わるのを待って横断歩道を渡ると、ハンドルを迷うことなく右に切った。


 誕生日になった。

 朝起きてリビングに行けば、両親が「おはよう」「誕生日おめでとう」と口々に祝ってくれた。それに対し「ありがとう」と返して、朝食をとる。何らいつもと変わらない一日のはじまり。

 兄と姉からも、日付が変わった頃にラインが届いていたし、学校に行けば会える友人からも同じようなラインが届いていた。けれど、昨日と今日はやっぱり同じで、身体的にも心情的にも大きな変化はない。

 だから別に特別感はないのだけれど、何となく昨日の夜からのそわそわが止まらない。

 贅沢なプレゼントや、特別な時間が欲しいわけではない。

 ただ、会いたい。

 たったひとつの言葉を、ほかの誰でもない、あの人からもらいたい。

 それだけのことなのに、もうずっと考え続けている。

 迷って、迷って。けれどやっぱり、諦めきることができなくて。

 一日。いや、何なら今日まで毎日のように考えて、決めた。

 店の駐車場を走り抜け、いつものように駐輪場に自転車を停める。

 バイトが無い日の学校帰りに店に寄るのは、本当に久しぶりだ。

 バイトを始めた当初は、別にバイトがなくても気にしていなかったが、休みの日に行くと何だか申し訳ない気分になるようになって、遠のいていた。どうも、みんなが働いているのに……という思いが生まれてしまうタイプらしい。

「……今日だけ」

 碧はぽつりと呟くと、かごから鞄を手にし、従業員側ではない店内入り口へと向かった。

 店に入ると、ふわっとした涼しい空気が碧の身体を包んだ。外の気温も下がってはきているが、まだ暑さが残っているから、この涼しい空間は本当にありがたい。けれどそれも、客側としては、だ。身体を動かしていると、少々の涼しさの中でも暑く感じることもある。

 きっと今日も暑い一日になっているはずだ、と、碧は思いながら店内へと足を進めた。

 

 いるか、いないか。

 会えるか、会えないか。


 飲料の売り場に向かいながら、可能性に思考をめぐらせる。

 前回のバイトの際にシフトを確認したとき、出勤だったのは覚えている。が、出勤していたとしても、会えるかどうかの確率は半分だ。何かのイレギュラーで変更になっていたり、所用で出ていることも考えられる。

 でももし、いま店のどこかにいるのなら……会えるまで待ちたい。

 歩くスピードを落とし、飲料売り場の通路をのぞき見る。いつも碧が作業をしているあたりには誰もおらず、ならば…と碧はお酒のコーナーの方へと向かう。

 学校帰りの制服姿では、立ち寄るべきではない場所。それは分かっているのだが、欲求が抑えられない。

 恐る恐る、といった体でお酒コーナーに踏み込もうとした時だった。

「あれ?牧野くん?」

 掛けられた声に、勢いよく振り返る。

「あ、やっぱりそうだ。どうしたの、珍しい。今日休みだよね?」

 会いたかった人が、見たかった顔が、そこにあった。

「……広瀬さん」

「おつかれ。バイト…は、明日だったよね」

 いつもと変わらない様子で話しかけてくる広瀬にほっとするのもつかの間。ぐっと緊張感がわいてきて、碧はごくりと唾を飲み込んだ。

「牧野くん?何かあった?」

 突っ立ったままになっている碧に、広瀬がどうしたの?と苦笑しつつ声を掛けてくる。

「休みの日に来るの、珍しいな…と思って」

 言われて、碧はええと…と視線を泳がせる。

 誕生日だから会いに来ました。なんて、そんな本意を言えるはずもなく、碧はええと…と口ごもった。

「え…っと。ちょっと……ノートが、無くなりそう、で…?」

 しどろもどろに碧はそう言い、床に視線を落とした。

 もちろんそんなのはただの口から出任せで、ノートなんて買いだめしているものが家にある。それに、ノートだけが目的なら、真っ直ぐ文具売り場に行けばいいだけで、こんな場所を覗く必要もない。

 気づいたか気づいてないか、広瀬は「そっか、それは必要だしね」と言った。

 碧は顔をあげ、広瀬を見る。

 前回バイトに入った日は広瀬があいにく休みだったから、顔を合わせるのは十日ぶりほどになる。一週間に二、三回は会えていた事を思えば間が長い。

 二人の間にわずかな沈黙が流れる。ほんの数秒なのだが、碧にとっては何分にも感じられるような、間。

「………」

 碧は少し躊躇ってから顔をあげると、ゆっくりと口を開いた。

「あの、広瀬さん」

「ん?」

 こんな話をして、どう反応が返ってくるかわからない。

「……たいした事じゃないんです、けど」

 言ったところで、どうなるわけでもないし、ただの自己満足で終わるのも承知している。

「うん」

 けれど、それでも伝えたい。聞きたい言葉が、ある。

「今日、誕生日で」

「へっ?」

 広瀬は驚いた顔をして、それから嬉しそうに表情を緩めた。

「わぁ。それはおめでとう!高三だから…十八かぁ。まだまだ若い!」

 本当におめでとう、と広瀬は自分の事のように嬉しそうに言った。

 その言葉に、胸の奥がうずうず、とする。知らず顔が熱くなってきて、表情が思わず緩んでしまう。

「誕生日かぁ」

 何度目かのおめでとうをもらって、碧は逆に照れくさくなって俯いた。

 誕生日だから、会いたいと思った。ほかの誰でもなく、広瀬に「おめでとう」という言葉を掛けてもらいたかった。

 日々頑張っているから、ちょっとした自分へのご褒美…プレゼントという理由をつけて、自分の欲求のために。

 けれどそれが、こんなにも嬉しいものだとまでは、想像できなかった。嬉しすぎて、いま自分がどんな顔をしているのかが怖い。

 そんな碧の心情を知るよしもなく、広瀬は「あ!」と少し大きな声を出す。 

「じゃあ、こんなところで油売ってちゃ駄目なんじゃない?お母さん、ごちそう作ってたり。おっきなケーキとか?」

 お祝いなんじゃないの?と慌てたように言う広瀬に、碧はふふっと苦笑する。

「そういうのは、もう小学校で終わっちゃいました」

「えー、それは寂し…くない?」

 本当に残念そうに言う広瀬に、碧は小さく首を振る。

「大丈夫です」

 誕生日にごちそうとホールケーキを準備して、というのは、確か小学六年の時が最後だ。中学の時からは、近い週末に外食を、誕生日当日は小さめのケーキをいくつか買って、好きなのを選んで食べるというシステムに変わっていた。

 それに、仮に今ホールケーキを準備したところで、家に住んでいるのは碧と両親の三人。父親があまり甘いものが得意ではないので、小さめのホールケーキにしたところで、ほぼ母と二人で食べることになる。それは流石にしんどい。

 今日も、碧の誕生日を理由にして甘い物好きの母親がケーキを買って帰ってくるはずだが、夕食のメニューは普段とさして変わらないだろう。

「あと、食事は今週末に家族全員で行くんで。…京都まで…」

 それを聞いて、広瀬が「京都まで?」と、また少し驚いた顔を見せる。

「兄が京都にいて、何だったかな…イタリアン?でいいお店があるからって。母と姉も乗り気で」

「オシャレイタリアン……。なんか、勝手に焼き肉!とか寿司!とか想像してた」

 広瀬が言うのに、ですよね、と碧も同調する。

「去年が焼き肉でした」

「やっぱり。定番だよね、何となく」

「今年もそういうのでいいんじゃない、って話あったんですけど…」

 何か食べたいものはある?と聞いてきたくせに、決定権は碧にはなかった。

 成人のお祝いも兼ねるならいつもよりちょっと豪華にしたい…という母の思いに、それなら…と兄や姉が店の候補を出してきた。家族のグループラインにちょっと高級なお店からオシャレな店の候補が流れてきて、碧はそれを他人事のように眺めていたのだった。

「その。誕生日と…成人のお祝い?それを兼ねてってことで、いつもより豪華に。コース料理とか」

「は…。せ、成人……!?」

 ええっ?と広瀬がこれまでで一番驚いたような表情を見せて、碧をじっと見た。

「成人…?」

 入ってきた情報を頭の中で整理しているのが見て分かる。その様子がなんだかおかしくて、碧は小さく肩を揺らして笑った。

「はい。十八で成人…になったので」

 碧のひと言で、広瀬がハッと顔を上げる。

「あ――、そっか、そうなるのか。完全に頭から抜けてた」

 それも致し方ない話だ。身近な家族に対象者がいれば思い至るだろうが、縁が無ければほぼ関係ない話だ。ニュースで話題になった頃を過ぎれば、記憶から薄れてしまってもしょうがない。

「です。全然そんな意識とか無いですけど」と失笑混じりに言う碧に、「だろうねぇ」と広瀬は応えてから、ふうっと息を吐いた。

「でも、それはもうひとつ…おめでとうだね」

 言われて、碧は「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。消えかけていた胸の奥のうずうずが、またひょっこりと顔を出す。それを隠すように、碧は少し明るめの声を出した。

「まあ、成人っていっても、まだ形だけだし。高校生で受験生なのが変わるわけでもないですけど」

 碧が言うのに、広瀬も「確かに」と笑う。

「いきなり社会人になれないしね」

「はい。これで大人の仲間入りって言われても、正直」

「そりゃそうだ」

 法律的には変化があるのだが、自分に直接絡んでくる事はまだない。確か選挙もしばらくはないはずで、実感するのはきっとまだ先の話だろう。

「お酒もたばこも、二十歳からだからね?」

 軽く念を押すように広瀬が言うのに、碧は「わかってます」と返す。成人年齢が引き下げられたが、そこに関してのルールは変わらない。 

「たばこは…多分、というか絶対吸わないだろうな…って思うんですけど。お酒の方は、ちょっと興味はあります」

 言えば、広瀬が目を細めてじーっと碧の方を見据えた。

「んー……。牧野くんは、どうだろ。強いのかな」

「どうなんでしょうね。うちは、男より女の方がお酒が強くて」

「そうなんだ」

「はい。父より母、兄より姉の方が」

 週末のイタリアンも、ワインの種類が豊富というところに母と姉が食いついた。何なら、それが決め手といってもいい。こういう時、牧野家では常に女性の意見がまかり通る。主役であるはずの碧の意見は無いに等しい。

 それでも今回に関しては、兄が「碧はそれでいいか」と聞いてきてくれただけ、まだマシだ。イタリアンのコースと聞いて、なんだか大人っぽいと思ったから、それで大丈夫と返事はした。

「強いか弱いか…。ま、最初は軽いやつから飲んでみてーって感じだろうけど。で、徐々に度数上げてとか。ビールの好き嫌いとかもあるだろうし。今はいろんな種類出てるから……」

 少し口早に言ってから、広瀬は「あ」と慌てたように口を押さえる。

「ああ、こんな話駄目だな。制服を着た高校生に話すことじゃない」

 ごめんごめん、と申し訳なさそうに言う広瀬を、碧はじいっと見つめた。

 そして広瀬も確かお酒が強いという話を聞いたことがあるのを思い出す。飲み会の話を聞いて、いいなぁ、羨ましいなぁと思ったのだったか。

 成人はしたが、お酒を飲めるようになるまで、問題なくその席に一緒するためには、まだ二年かかる。それを思うと、まだ先は長いとしかいいようがない。

 ふと、お酒を飲む自分を想像して、碧は目の前の広瀬に意識を戻す。

「……広瀬さん」

「ん?」

「二年後、二十歳になったら……」

 頭の中に思い描いてしまった、少し未来の想像図。

 はじめてお酒を飲む自分と、それから……その隣にいる人の楽しそうな笑顔。自分の描く未来にいる、家族以外の存在。

「二十歳になって、最初に飲むお酒は……広瀬さんとがいいです」

「……」

「広瀬さんと一緒に、お酒、飲みたいです」

 真っ直ぐに広瀬の目を見て、碧はそう告げた。

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