第1章:魂が目覚めた朝
いつもと違う目覚めだった。
成澤文江は、慣れ親しんだ自分のベッドの感触ではないことにまず気がついた。寝返りを打とうとして、体が異様に軽いことに驚く。シーツの触れる肌の質感も、どこか違和感があった。
「んん……」
自分の声のはずなのに、聞き慣れない音色が喉から漏れる。文江は目を開けた。
見知らぬ天井。アールデコ調の装飾が施された白い漆喰。窓から差し込む朝日は、パステルカラーのカーテンを透かして柔らかな光を室内に投げかけていた。
「ここは……?」
文江は慌てて上半身を起こした。そして、自分の手を見て息を呑む。細く長い指。艶やかな黒褐色の肌。自分の手のはずがない。
ベッドから飛び降りるように立ち上がり、部屋の隅に置かれた姿見に駆け寄る。鏡に映ったのは、まだあどけなさの残る少女の姿だった。きりっとした黒い瞳。高く通った鼻筋。ふっくらとした唇。そして何より目を引くのは、その肌の色。
「まさか……」
文江は両手で頬を挟んだ。鏡の中の少女も同じ仕草をする。間違いなかった。これは15歳のジョセフィン・ベイカーの姿だった。あの伝説的な黒人ダンサーの。
窓の外に広がるパリの街並みを見つめながら、文江は歴史の教科書で読んだ知識を必死で思い出そうとした。1906年、アメリカのミズーリ州セントルイスで生まれたジョセフィン・ベイカー。幼い頃から人種差別に苦しみながらも、11歳でダンサーとしてのキャリアをスタートさせた。そして1925年、パリで『黒人のレビュー』に出演。その大胆な表現と類まれな才能で、たちまちパリの寵児となる。
しかし今は――文江は壁に掛けられたカレンダーを見た。1921年。ジョセフィンがまだニューヨークで踊っていた頃。パリでの大成功を夢見ていた、まさにその時期。
鏡の前で立ち尽くす文江の耳に、廊下から靴音が近づいてくる。フランス語らしき会話が聞こえる。不思議なことに、理解できないはずの言葉の意味が自然と伝わってくる。まるでジョセフィンの記憶が、少しずつ自分の中に溶け込んでくるかのように。
「私が……ジョセフィン……?」
文江は自分の体を見つめ直した。15歳とは思えない長身。しなやかな筋肉。生まれ持った優美さと、幼い頃からの厳しい訓練で培われた身体能力。全てが、これから世界を魅了することになるダンサーの萌芽を感じさせた。
そういえば、昨夜眠る前の自分は何を考えていたのだろう。文江は記憶を手繰り寄せる。鏡の前で自分の醜さを嘆いていた。そして、こう呟いていた。「このまま消えちゃいたい」と。
皮肉なことに、その願いは半分だけ叶えられたのかもしれない。30代の日本人女性としての自分は確かに「消えた」。でも代わりに与えられたのは、20世紀を代表するダンサーの若き日の姿。
歴史が教えてくれる未来を、文江は心の中で反芻する。これから4年後、ジョセフィンはパリで『黒人のレビュー』に出演する。そして伝説的な「バナナ・ダンス」で観客を魅了し、一躍スターの座に上り詰める。やがて彼女は単なるダンサーの枠を超え、第二次世界大戦中はレジスタンスの一員として活動し、戦後は公民権運動にも身を投じることになる。
芸術家として、そして活動家としても輝かしい人生を送ることになるジョセフィン・ベイカー。その15歳の肉体を借りることになった文江は、深いため息をつく。自分にはそんな大役が務まるのだろうか。
「ジョセフィン! もう起きた? 朝食の時間よ!」
文江は思わず背筋を伸ばした。女性の声には威厳があり、それでいて温かみがある。劇場のオーナーだろうか。それとも……。
「は、はい! すぐに行きます!」
返事をする自分の声は、もう文江のものではなかった。15歳のジョセフィン・ベイカーの声だった。
慌てて周りを見回す。部屋の隅には衣装ケースが置かれ、椅子の上にはシンプルなワンピースが畳まれていた。着替えながら、文江は深いため息をつく。
「どうして私が……。でも、これが現実なら……」
鏡に映る少女の瞳には、不安と戸惑い、そして僅かな期待が揺れていた。
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