【転生舞踏短編小説】「鏡の向こうのジョセフィン ―時を越えた魂の舞踊、二つの魂が咲いたパリ―」(約24,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
プロローグ:灰色の朝
また月曜日が始まる。
成澤文江は、いつものように六時半の目覚まし時計の音で目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が、狭いワンルームの床を薄く照らしている。
「はぁ……」
起き上がろうとして、布団の中で体を動かす。すると、贅肉の付いた腹が重たく揺れた。三十二歳。ここ数年で確実に体重は増え続けている。
鏡の前に立つ。少し膨らんだ頬。黒目がちな目は、どこか寂しげで生気がない。
「今日もブスだなぁ……あたし」
自分でも呟きたくはない言葉が、習慣のように零れる。化粧をしても、所詮は取り繕いでしかない。内側から滲み出る地味さは、どうしようもない。
会社まで歩いて十五分。朝の通勤ラッシュに身を任せながら、文江は自分の存在の薄さを実感していた。誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさず、ただ流されるように電車に揺られる。
「おはようございます」
オフィスに着くと、小さな声で挨拶。しかし、忙しそうに動き回る同僚たちの耳には届いていないようだった。
データ入力の仕事。単調な作業の繰り返し。キーボードを叩く音だけが、文江の存在を主張しているかのようだ。
「成澤さん、この資料、コピーお願いできる?」
課長の声に慌てて立ち上がる。そのとき、椅子が大きな音を立てた。
「ご、ごめんなさい……!」
周囲の視線が一斉に集まる。頬が熱くなる。早く消えてしまいたい。そんな気持ちで急いでコピー機に向かう。
昼休み。
いつものように、一人で会社の屋上に来ていた。誰もいない空間で、やっと素の自分に戻れる。
「あたし、なんで生きてるんだろう……」
空に向かって呟く。返事があるわけもない。ただ、工事現場の騒音と車のクラクションが、都会の喧騒として耳に届く。
コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、文江は自分の人生を思い返していた。小学生の頃から目立たない子。中学、高校でも特に親しい友達はいなかった。就職してからも、ただ言われた仕事をこなすだけ。
恋愛経験は皆無。
「こんなあたしじゃ、誰も振り向いてくれないよね」
鏡で見る自分が嫌いだった。内向的な性格も嫌いだった。かといって、変わる勇気も持てない。
昼休みが終わる。また机に戻り、淡々とキーボードを打ち続ける。窓の外では、春の陽気が漂っていた。しかし文江の心の中は、いつも通りの曇り空。
「終電までには帰れそうですか?」
新入社員の女の子が、隣の席の男性社員に話しかけている。楽しげな会話が、他人事のように耳に入ってくる。
文江は黙々と仕事を続けた。誰かに話しかけられることもなく、誰かと目が合うこともない。ただそこに在る、影のような存在。
夜。
いつものようにコンビニ弁当を買って帰る。ワンルームのアパートの鍵を開け、電気をつける。
「ただいま……」
返事をする人もいない部屋で、文江は小さく呟いた。テレビをつけっぱなしにして、味気ない夕食。画面の中の芸能人たちが、遠い世界の出来事のように笑い合っている。
湯気の立ち込めた浴室。文江は膝を抱えて湯船に浸かっていた。安物の入浴剤が溶けた水は淡いピンク色で、わずかにローズの香りがする。その甘ったるい香りが、なぜか切なさを際立たせる。
「はぁ……」
湯船の中で、文江は自分の体に目を落とした。水面から覗く膝は妙に丸みを帯び、太ももは確実に太くなっている。腹には贅肉が付き、まるでゴムタイヤの輪のように段になっていた。
シャンプーの泡が、鏡に薄っすらと膜を作っている。その向こうに映る自分は、ぼんやりとしていて輪郭が定かでない。でも、それは誤魔化しでしかない。きちんと拭けば、醜い現実がはっきりと見えてしまう。
「ダイエットしなきゃ……」
いつものように呟く。でも、その言葉には本気の響きがない。仕事帰りのコンビニ弁当。休日の宅配ピザ。誘惑に負けては後悔する日々の繰り返し。
文江は湯船の中で体を丸める。膝を抱えた時、腹の肉が折り重なる感覚。それだけで涙が出そうになる。
「誰かに好かれたいとか、そんなの……」
言葉が喉で詰まる。お湯に顔を浸けて、シャボン玉のような泡を吹き出す。子供みたいだ。三十二歳の大人が、こんなことをしている場合じゃない。
壁に掛けたデジタル時計が、七時四十五分を指している。もうすぐ八時。いつもの時間だ。
文江は立ち上がった。水滴が体を伝い落ちる。背中を向けた鏡に、ちらりと目をやる。それは失敗だった。
「やっぱり、醜い……」
肩から腰にかけてのライン。足首からふくらはぎのカーブ。かつて女性らしいと言われた部分も、今は全てが歪んでしまったように見える。
バスタオルで体を拭う。布地が肌の凹凸を拾う度に、文江は目を瞑った。
「明日も……」
明日も同じ日常が始まる。同じ時間に目覚まし時計が鳴り、同じ電車に乗り、同じ机に向かう。誰とも深く関わることなく、ただ時間が過ぎていく。
文江はバスタオルに顔を埋めた。ごわごわした布地の感触が、頬を刺す。
「このまま消えちゃいたい……」
そう思った瞬間、デジタル時計が八時を指した。淡いピンク色の湯は徐々に冷めていく。明日も、明後日も、きっと同じ。そう思いながら、文江は湯船から上がった。
布団に入る前、最後にもう一度鏡を見た。
「ねぇ、こんなあたしでも、いつか変われる日がくるのかな……」
鏡の中の自分は、いつもの通り答えてはくれない。ただ、悲しげな目をして立っているだけ。明日の目覚まし時計を六時半にセットして、文江は目を閉じた。
明日もまた、同じ一日が始まる。
そう思いながら眠りについた文江は、まだ知らなかった。
明日という日が、彼女の人生を大きく変えることになるとは。
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