愛を乞うなら

「お母様、どうして伯父様の所に行くの?」


 アナスターシアはあからさまに嫌そうな顔をするローザの頭を優しく撫でた。


「どうして?お兄様のことは好きだって言っていたじゃない」

「伯父様はね?伯父様は……でもあの人が怖いの…………」


 あの人というのは、ユージェニーである。




 ユージェニーはたしかに王妃の座を狙っていた。


 しかしグレアムがクリフに彼女の本性を伝えたところ、クリフは己を律しユージェニーを遠ざけた。


 クリフに拒まれ、焦ったユージェニーは受け入れられた令息の中でも一番身分が高かったテレンスと結婚したのだった。


 アナスターシアは兄のことを馬鹿では無いと思っていたが、いかんせん女性に対する免疫がなかった。だからあんなにあざとい女に引っかかってしまったのだ。



 とはいえ、二人の仲は冷めきっていた。


 

 ユージェニーがふとした時にぼろを出してしまい、その時にテレンスは本性に気が付いてしまったらしい。



 今は離婚寸前といった感じである。


 

 いじめっ子といじめられっ子が親戚になるなんてとアナスターシアは思ったが、ユージェニーは全く意に介さず挨拶の場でも弁えずによく話しかけてきたものだ。



 ユージェニーはテレンスに離婚されてしまうともう後がないと思ったらしく、テレンスだけでなくアナスターシアやグレアムにも媚びを売るようになった。



 その様子が子供たちには恐ろしく見えるらしい。



「ローザ、ユージェニー伯母さんが怖くなくなる話をしてあげる」


 イヴァンが口元に人差し指を当てながら、声を潜めて言った。


「あの人、人参が食べられないんだよ。前の晩餐会でこっそり残しているのを見たんだ」


 ローザは数回瞬きをして、吹き出した。


「私と同じね!」


 けらけらと笑う子供たちを愛おしそうに見ていたアナスターシアは、向かいに座るグレアムが思い詰めた表情をしていることに気付いた。


 しかし話しかけることはせず、彼の為の時間を作った。彼が自分の中で感情を整理できるように。





「伯父様!」


「伯父さん!」

 


 飛び込んできたやんちゃな子供二人を片手で軽々抱え、テレンスは二人に何度もキスをした。

 


「今日も元気でいい事だ。最近はどうだ?」


「僕、剣術の先生に褒められたんだ!筋がいいって!」


「私も私も!先生に賢いねって褒められたの!」

 

 テレンスが二人を降ろし、何度も頭を撫でていると後ろからユージェニーがやって来た。


「……子供がお好きなんですね」


「ああ……」


 実に素っ気ない会話だった。


 一時とはいえ愛し合った仲だと言うのに、テレンスはユージェニーを視界にも入れたくないと思うほど嫌悪感を募らせていた。



 バルフォア公爵はまだ爵位の引き継ぎをしておらず、テレンスは領地で最後の後継者教育を受けているところである。


 教育が始まってからもうかれこれ4年は経ったが、一向に引き継ぎは行われない。



 バルフォア公爵はテレンスがユージェニーとの縁を切り、新しくまともな令嬢と再婚するまで爵位の引き継ぎを行わないのだろうとテレンスは睨んでいた。



 テレンスも早く離婚したかったが、ユージェニーがそれをずっと拒んでいるのだ。ユージェニーとしても離婚した方が良いのにとテレンスはずっと思っていた。



 ――あの時の愚かな自分を殴ってやりたい。そう思いながら深くため息をついたのだった。



「皆疲れているだろうから、早く休みなさい。それから、アナスターシア、明日の朝私が墓まで案内するからちゃんと早起きしなさい」


「お兄様、私はもうとっくに成人していますよ。ちゃんと起きられますから」


「そうか?前まで昼まで寝ないと気が済まないと言っていた気がするけどな」


「…………」


 アナスターシアはむすっとして、テレンスを睨んだ。


 テレンスは何歳になっても妹は可愛いものだなと思うのだった。








「テレンス様、私離婚したくありません」



 夜、テレンスは執務室で父の仕事の一部をこなしながら彼女の一方的な訴えを聞いていた。


「何故?君なら男が沢山いたじゃないか」


「……もう誰もいません」


 テレンスは椅子から立ち上がり、ユージェニーの目の前まで歩いた。そして彼女を見下ろした。


「君の生家は伯爵家なんだから、望めば縁談のひとつやふたつ来るだろう」


「そういう心配をしているんじゃありません!」



 テレンスは意固地になっている彼女の肩に手を置いて言った。



「もう我儘を言うのはやめてくれ。慰謝料なら払うから」


 テレンスがそう言うと、ユージェニーは顔を覆って泣き出してしまった。


「テレンス様……私は、最初あなたの事を利用しようと思っていたんです」


 何を今更とテレンスは思ったが、黙ってそのまま彼女の話を聞いた。


「でも、あなたと過ごすうち……あなたに惹かれて、本当に好きになりました」


 ユージェニーにとってそれは愛の告白であったが、テレンスにとってはただテレンスの身分と資産を手放さないための演技にしか見えなかった。



「嘘だろう。君の本性はもうとっくのとうに知っている。そうやって私をまた騙すんだろう」


「嘘じゃありません……本当です、本当に愛しているんです」



 学園にいた時から彼女の涙を見てきた。テレンスは幾度となくその涙に騙されてきた。


 ユージェニーは、まるでかの羊飼いの少年のようであった。


「嘘ではないと言う前に、まずはどうしてこうなったか考えてみたらどうだ?そうしたら離婚届にサインする気分になるかもしれないぞ」


 テレンスはそう言い残して執務室から立ち去った。


 微かな灯りだけが灯る部屋の中で、ユージェニーは泣き崩れながらも、健気に言われた通りにしていた。




 学園にいた頃、ユージェニーは時めいていた。


 まさに、そこが人生の絶頂であった。


 ユージェニーの母親は平民だった。


 母親もユージェニーのように男を誑かすことに長けていた。というより、ユージェニーは母親から学んだのだ。ユージェニーは、母の口癖や父の前での仕草をよく覚えていた。


 母からよく言われていた。玉の輿を狙いなさいと。あなたは可愛いのだからと。


 だから、ユージェニーは学園で多くの男の心を奪って侍らせていたのだ。



 しかし、ユージェニーは入学式で一等目を惹く、美しい少女に出会ってしまった。自分よりも遥かに美しい彼女に。


 嫉妬した。


 母や父、知り合いによく褒められた己の容姿すら歯が立たない程の彼女の美貌に。


 ――彼女がいなければ私が一番だったのに。



 どうにかして排除できないかと、そう考え始めてしまったのだ。



 彼女が公爵令嬢だと知ったのは、彼女に言いがかりをつけられた時だった。


 ユージェニーはこれを好機とばかりに彼女を陥れた。彼女を権力を笠に着て、立場の弱い者を虐める悪女だと周りに思い込ませた。


 下克上だと思われないように、わざとらしくないように。


 幸い、彼女は単純で、ユージェニーの策略に気付きもしなかった。






 しかし、ある日突然アナスターシアが学園をやめた。




 冷や汗が止まらなかった。もし、もし、私のせいだとバレたらどうしようと思って夜も眠れなかった。


 ――私のせいだ、私のせい……身の程知らずにも嫉妬してしまった、陥れてしまった、傷付けてしまった。


 しかし、半年経ってもそんな日は訪れなかった。ユージェニーの周りの人々は良かったねとしか言わなかった。


 ユージェニーはようやく満足に眠ることが出来た。



 それからユージェニーは調子を取り戻して、また前のように男に媚びを売り始めた。

 玉の輿と言えば、やはり王族だと思っていたが――第一王子は、クリフは、ユージェニーを徹底的に拒んだ。



 ――あの人の仕業だ。直感的にそう思った。グレアムは普段は友好的に接しているが、ユージェニーの本性を早い段階から見抜いていて、一歩引いたところで傍観しているものの刺々しい視線を隠すことはなかった。


 ユージェニーは拒まれたと察した時点ですぐさま他の男に切り替えた。


 ユージェニーに一際心酔していた、アナスターシアの兄のテレンス、学園の教師サディアス、実家の執事のジョナス……ユージェニーはこの中で一番身分の高いテレンスに狙いを定めた。



 彼は妹と同じく単純だった。


 そして、彼女と血が繋がっているだけあると思わせるほどの美貌もあった。


 そんな彼が私に骨抜きにされているなんて周りの令嬢たちが哀れだと思ったが、ほんの一瞬だけそう思っただけだった。




 皆に祝福されて結婚した。すっかり平気な顔をしたアナスターシアも参列していた――グレアムと共に。


 ああ、そういうことなの、と腑に落ちた。あれは嫌がらせだったのだ。


 兄を思ってやった事ではないというのが彼らしいとも思った。



 それよりもアナスターシアが気がかりだった。私を恨んでいないか、と色々と考えているうちにアナスターシアが挨拶に来てしまった。



 ユージェニーは焦りのあまり喋りすぎてしまった。バレていないと思っていても、心の中では常に罪悪感に押しつぶされそうだった。

 

 アナスターシアは特に反応することなく帰ってしまった。



 安堵のあまり腰が抜けてしまいそうだった。彼女が何かを言ってしまわないか――言ったとしても誰も信じないのだろうけれど、彼らの好奇の目が今は痛いほど体に突き刺さったのをよく覚えている。



 結婚してからしばらく経って、テレンスに、ある一人の令嬢を必要以上に詰っているのを見られてしまったのだ。



 ストレスが溜まっていた。



 公爵家での生活はユージェニーの想像以上にユージェニーにとってきついものだった。

 


 姑にいろいろと指摘されて、それでも関係を悪化させることなんてできないからずっと我慢していた。





 私の汚い部分を覆い隠すことは出来なかった。


 いずれ露呈するだろうとは思っていたけれど、思っていたよりもずっと早くバレてしまった。


 あの時のテレンスの、化け物でも見るかのような目が忘れられない。


 顔を怒りに任せて醜く歪ませて、テーブルを思い切り、強く叩いた。


 私らしくなかった。



 もっと、狡猾で姑息な手段をとっていたはずだったのに。



 テレンスの失望した表情を思い出す度、暴れ回りたくなった。




 

 それでも彼はすぐには私を見捨てなかった。


 学園にいた時によく付きまとっていた男たちのように、私の理想像を私へ押し付けず、私の話を聞こうとしてくれた。それが、本当に嬉しかった。



 骨の髄まで彼の全てを貪りつくそうと思っていたのに、最初の勢いは見る影もなく、私はあっさりと彼に絆されたのだ。



 それと相反するように、彼は段々と私から離れていった。




「全部自業自得だわ……」


 それでも、ユージェニーはテレンスを諦めきれなかった。


「テレンス様……」



 ユージェニーは雲に隠れた、見えない月に向かって祈りを捧げた。



 ――どうか、彼の心を取り戻せますように。


 

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