第11話、静代
1944年、終戦間近の夏。空襲警報のサイレンが、焼け付くような日差しと共に、神崎隼人中尉の耳を鋭く打ち抜いた。25歳、鋭い眼光と端正な顔立ちを持つ彼は、大学卒業後、士官学校を首席で卒業、いきなり中尉の階級を得たエリート中のエリートだった。
しかし、彼の心を奪ったのは、軍服よりも、戦火よりも、はるかに複雑で、魅力的なものだった。静代。年齢は彼より上で、既に戦争で夫を亡くした未亡人。かつては高校教師をしていたが、学校が空襲で破壊され、職を失っていた。
静代は、代々続く名家の酒蔵の一人娘だった。しかし、酒造りは男の仕事。女は汚れるとされ、酒蔵の仕事に携わることを許されなかった。その静かな気品と、秘められた強さ、そして、何よりも彼女の醸し出す、酒蔵の酵母のような奥深い魅力に、隼人は心を奪われていた。
ある日、隼人の家と静代の家に、それぞれ縁談の話が舞い込んだ。隼人は、気になる女性がいると、遠慮がちに婚約を遅らせようとしていた。しかし、その相手が静代だと知った時の衝撃は、空襲警報よりも大きかった。
静代にも、隼人と同じ相手からの縁談が届いていたのだ。運命のいたずら、あるいは、神々の思し召しなのか。二人の運命は、戦火の渦中、奇跡のように交錯した。
隼人は、静代に会いに行った。酒蔵の蔵の前に立つ静代は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。しかし、隼人の真剣な眼差しと、静かに語りかける言葉に、静代は次第に心を解き放っていく。
「静代さん、僕はあなたと結婚したい。たとえ戦争が、どんなに困難な状況が待ち受けていようと」
隼人の言葉は、戦火の騒音さえかき消すほどの力強さを持っていた。静代は、彼の言葉に、未来への希望を見出した。酒蔵の仕事に携わることを許されなかった彼女にとって、隼人との結婚は、新たな人生の始まり、そして、自分自身の解放を意味していた。
戦争は、多くのものを奪っていった。しかし、隼人と静代には、互いを愛し合う心、そして、未来への希望が残されていた。二人の結婚は、戦火の悲しみを乗り越え、新たな時代への希望の光となった。疾風迅雷のごとき速さで、二人の運命は、一つの流れへと収束していった。 終戦後、隼人は除隊し、静代の酒蔵を共に継いだ。静代は、酒造りに携わる女性として、新たな道を切り開いていった。二人の愛は、酒蔵の酵母のように、静かに、しかし力強く、未来へと育んでいった。
海軍司令長官と酒蔵の娘
南海雄は、重厚な黒塗りの車で酒蔵へと乗り付けた。門には、凛とした佇まいの番人が立っていた。その威圧感すら感じる雰囲気は、南海雄の軍人としての威厳に劣らぬものだった。
酒蔵の主屋は、古色蒼然とした風格を漂わせていた。時代を経た木造建築は、静かに、しかし力強く、時の流れを見つめていた。南海雄は、番人の案内で、静かに佇む静代の前に立った。
静代は、白い着物姿で、彼を待っていた。彼女の顔には、緊張の色が少しだけ見えたが、目は、毅然としていた。それは、決して怯えているわけではなく、南海雄という、巨大な権力の前でも、自分の信念を曲げないという強い意志の表れだった。
南海雄は、静代をじっと見つめた。彼の視線は、鋭く、冷たかった。まるで、敵を射抜くかのような、鋭い眼光だった。しかし、静代は、その視線に決して屈しなかった。彼女の瞳は、澄み渡る泉のように、彼の心を静かに見つめていた。
「貴女が、静代さんか」
南海雄の声は、低く、重かった。それは、軍艦の艦橋から発せられる命令のような、威厳に満ちた声だった。しかし、静代は、その声に決して怯えなかった。
「はい、神崎隼人中尉のお相手として、お会いしました」
静代の声は、小さく、しかし、はっきりと、南海雄の耳に届いた。彼女の言葉には、自信と誇りが込められていた。それは、決して卑屈なものではなく、自分の存在をしっかりと主張する、力強い意志の表れだった。
沈黙が、二人の間に流れた。それは、まるで、戦場を思わせるような、緊迫感に満ちた沈黙だった。しかし、その沈黙は、決して不快なものではなかった。それは、二人の間に、互いを認め合う、静かな緊張感が漂っていたからだった。
南海雄は、静代について、事前に様々な情報を聞いていた。戦争未亡人であること、酒蔵の一人娘であること、そして、その美貌と気品。しかし、彼は、それらの情報だけでは、静代の真価を測ることができなかった。
彼は、静代の人となり、その内面を見極めようとしていた。そして、静代は、その視線に、臆することなく、自分の全てをさらけ出していた。彼女の言葉、表情、そして、その佇まいから、南海雄は、静代の真の強さと、優しさ、そして、隼人への深い愛情を感じ取った。
「…なるほど」
南海雄は、静かに言った。彼の声には、先程の威圧感は消え、静かな納得感が漂っていた。彼は、静代という女性、そして、息子の選んだ道を受け入れることを決めたのだった。 彼の心の中に、静かに、しかし確実に、静代への敬意と、隼人への祝福が芽生えていた。 それは、まるで、荒波を乗り越えた後の、静かな海のようだ。
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