第4話 萌花のヒーロー 1
お兄ちゃんは、私のヒーロー。
だって、男子に意地悪された時も、中学の時イジメにあった時も、お兄ちゃんがやっつけてくれた。
毎日毎日喧嘩するパパとママの怒鳴り声に怯える私の耳を聞こえないように押さえて、一晩中そばにいてくれた。
お兄ちゃんはいつだって、私にとって憧れで、最強に強くて、最強にかっこよくて、とっても大好きだったんだ。
***
―――――ピチョン。
水が落ちた音に目を開ける。
真っ暗で、何も見えない。
おにいちゃん?
「―――、」
口が、何かに塞がれていて開けられない。なにか、ベタベタしたもの。両手も動かせない。何かに縛られているみたいだ。……何に? 誰に?
「あ、起きた?」
ここ、どこ?
萌花、どうなっちゃうの。
お兄ちゃん、怖いよ。助けて。
目を覆う布が外され、ニキビ跡だらけのぶさいくな男と目が合った。男はにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべながら、くさい息が鼻にかかるほど近くまで顔を寄せる。
きもちわるい。きもちわるい。きもちわるい。思わずあげた悲鳴は、口が塞がれているせいでほとんど外に漏れなかった。どうしよう、声が。こみ上げる恐怖と共に、涙がぶあっと溢れた。
怖い、怖い。なにこれ。きもちわるい。助けて。
「ごめんね、怖い思いさせて」
お兄ちゃん、お兄ちゃん。
男の、黒いツルツルの手袋をはめた手が、頬を撫でる。その手の動きが、なんだかとてもきもちわるい。吐き気がする。
なんで、こんなことになったんだろう。
「でも、大丈夫。大人しくしていれば、すぐに怖くなんてなくなるからね」
「、」
もう片方の手の中、鈍く光るそれに心臓が凍った。ナイフだ。
私、殺されちゃうの?
目の前でゆらゆら揺れるそれをじっと見つめていると、男はまた笑った。にたりにたり、トラウマになりそうな笑みだ。
ああ、でも死んじゃうなら、トラウマとか関係ないか。
死んだら、もう、お兄ちゃんにも会えない?
「んー! んんんん!」
―――いやだ! そんなのいやっ!
私は必死に体を捩り、暴れ、叫んだ。
―――助けて、お兄ちゃん!
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん、お兄ちゃん!
「大人しくしろ!!」
バチン! と頬を叩かれる。ぐわんぐわんと脳みそが揺れた。視界がゆがむ。殴られたのだと理解する間もなく、男は私の上に跨って、ナイフの柄で私を殴った。
「っ、」
いたい。いたい、いたい!
でも大丈夫。きっと、お兄ちゃんが助けに来てくれる。あともうちょっと、痛いの我慢していれば、きっと来てくれるから。大丈夫。
だって、お兄ちゃんは萌花のヒーローだもん!
(お兄ちゃん、はやく来て……)
遠くなった意識が、もぞもぞとお尻を触られる感触にハッと戻された。え、なに。なになになになに。スカートから覗く太腿をなぞって、這い上がってくる手。知らない恐怖が、じわじわと心を染める。
「ああ、本当にかわいい」
「、」
「ずっと、こうしたかったんだ」
耳元でささやかれる声も、触れる吐息も、全部きもちわるい。
目からぼろぼろこぼれる涙を、ぬるぬるした舌がすくうように舐める。きもちわるい。
はやく、だれか……お兄ちゃん……!
「萌花っ!」
上に乗っていた重みが消えた。
ああ、来てくれた。お兄ちゃんが、やっぱり。
「萌花!」
男を蹴飛ばしたお兄ちゃんが、倒れていた私を起こして、震える身体をそっと抱きしめる。
「遅くなってごめんな。もう大丈夫だからな」
そう言いながら、転がっていたナイフで手足を縛っていた紐を切って、私の口を塞いでいたガムテープをゆっくりと剥がす。それからまた、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「おにい、ちゃん」
ああ、やっと呼べた。もう、呼べないかと思った。
お兄ちゃん、お兄ちゃん。
「おにいちゃん」
学ランの裾をぎゅっと握る。
「怖かったな」
「お、にい、ちゃ、」
「もう大丈夫だ」
ほら、やっぱり。
どんなピンチに立って駆けつけてくれる、最強に顔が恐くて、最強にかっこいい萌花のお兄ちゃん。
萌花の、ヒーロー。
***
目が覚めたら、病院にいた。
すぐに警官服を着た大人がいっぱい入ってきて、あの日の話を聞こうとした。けど、思い出すだけでもきもちわるくて、震えてしまって、上手く喋れなかった。
それでもなんとか話を聞こうとする大人たちが、すごく怖かった。
怯える私を見かねたお兄ちゃんが、警官服の人達を追い出してくれたけど、私はなんどもあの日のことを思い出した。フラッシュバックってやつ。なんども夢に出て、起きるたびに泣いてしまった。ご飯も食べられなくなって、どんどん痩せていった。眠るのがこわくて、何度も貧血で倒れた。
カウンセリングを受けてもあまり効果はなくて、私はわかりやすく弱っていった。
「萌花、」
「あ、おにいちゃん……」
久しぶりに、お兄ちゃんが来た。学校帰りなのか、学ランのままだ。
「萌花。りんご、食べるか」
ビニール袋を持ち上げたお兄ちゃんに、苦笑いを浮かべた。たぶん、食べられないだろうな。
それよりも、前に会ったときよりお兄ちゃんの眉間の皺が深くなった気がする。萌花と同じで、あんまり寝れてないのかな。
「剥いてやる」
「え、お兄ちゃんが剥くの……?」
「…なんか文句あるか」
「ない、けど……」
生まれてこの方、お兄ちゃんがキッチンに立ったところを見たこともなければ、包丁を持った姿でさえ見たことがない。
ベッドの脇の椅子に座ったお兄ちゃんは、その横のテーブルにバスケットとお皿を置いて、りんごと中に入ってたらしいカットナイフを取り出した。ぎらぎらと刃が光るそれを見た瞬間、心臓が凍った。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、ひゅ、ひゅと乱れる息を必死に整える。
大丈夫、大丈夫。お兄ちゃんは萌花に何もしない。
鋭い刃が、真っ赤なリンゴの皮にあたる。ふと、お兄ちゃんの手に、絆創膏がたくさん巻かれているのに気づいた。
「あ……」
もしかしてお兄ちゃん、私のために練習してくれたのかな。
「ほら」
お兄ちゃんが剥いた、歪なリンゴのうさぎ。
食べるのがもったいなくて、食べれないふりしてとって置こうかなんて思っていたら、なんとお兄ちゃんは容赦なく、ぶすっとフォークを刺した。
な、なんてこと!
「ほら、食べろ」
そのまま口元に寄せられたりんご。おそるおそる口を開けると、少し強引に押し込まれた。しゃくりと齧る。あまい。噛めば噛むほど甘い果汁があふれて、乾いた口のなかを潤す。
甘い。甘くて、美味しい。すごく美味しい。
「うまいか」
「うんっ」
鼻の奥がツン、と痛くなる。
ぽろぽろと涙があふれた。
「…おい、しぃ……」
おいしいな。今まで食べたりんごの中で、一番おいしい。
ガチガチに固まっていた心が、ほわっと温かくなってほぐれていく。
「おいしい! おいしいいいい!」
「そうか、よかったな」
ぼろぼろこぼれる涙を、困ったような顔をして拭ってくれる。
お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。目尻に当たるお兄ちゃんの体温が心地良くて、ふわりと香るお兄ちゃんの匂いに安心して、瞼が、重くなる。お兄ちゃんの手が目にかぶさって、視界が真っ暗になった。
「少し寝ろ。寝れてねぇんだろ」
「…でも、」
「寝ろ」
待って、お兄ちゃん。あと、あともう少しだけ……。
「……ここに……居て、くれる?」
「ああ」
「どっか行ったりしない?」
「しないよ」
「お兄ちゃん。お兄ちゃん」
「……うん」
「だいすき」
「……ん。おやすみ」
お兄ちゃんの声に安心して、意識がゆっくり沈んでいく。
今日は、悪い夢は見なかった。
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