第2話 お兄ちゃんと性悪女狐



「この公式は……」


 数学の授業をぼんやりと聞きながら、シャーペンを弄る。


 あーあ。今朝は遅刻ギリギリでゆっくり話せなかったし、お昼休みだって、追いかけようとしたら刺客四月一日に邪魔されるし。


 今日全然お兄ちゃんと話してない。今日のうお座はきっと最下位だな。

 はぁ…。ため息をついて、こっそりスマホを出す。ロック画面はお兄ちゃんの寝顔。待ち受けは着替え中のお兄ちゃんを隠し撮りした写真。ちらりと覗く、割れた腹筋がセクシー。


「うっ……」


 思わず鼻を押さえる。

 今の時間、お兄ちゃんのクラスは体育のはずなんだけど、あいにくと運動場は廊下側。ここの窓から見えるのは裏庭と住宅街。


 私はお兄ちゃんがみたいのにいい!


「柳瀬うるさい! 前に出て問題解け!」

「……」


 バタバタしていたら先生のお叱りが飛んだ。

 注目を浴びてちょっと頬が熱くなりながらも、渋々前に出てチョークを持つ。四月一日は言わずもがな、呆れた視線がビシビシと背中に当たる。


 チラリと先生を見た。


「あの、先生? これ解いたら運動場に行っても……」

「良いわけないだろ。さっさと解け」

「……あーい」


 えーっと、これをここに代入して、ここはこーしてあーしてっと。


「できましたー」

「……席につけ。授業に集中しろ」

「はぁーい、」


 あーあ。

 お兄ちゃんに会いたいなぁああ。



 な!の!に!



「えっと、あの……柳瀬 萌花さん、ですよね?」

「は? 見りゃわかんでしょそんなの。それ以外のなんに見えんの。てかあたし呼び出したのあんたじゃん」


 私とお兄ちゃんが一緒に帰る事さえ許してくれないのか神は! なんで放課後に呼び出しなんかするなよ! ハゲてしまえ!


 早く迎えに行かないと、また如月さんと三人で帰ることになるでしょうか! 


「え、えと、お、俺……」


 あーもう! こんなことに割いている時間ないのに! 一緒にどころか、先に帰っちゃうかもしれないじゃん!


「うじうじしてはっきり物言わない男って、あたし嫌い」


 お兄ちゃんとあたしの仲を邪魔するみんな敵!


 みんな嫌い!


「きっ……」

「ねえ、もう帰っていい? あたし、急いでるんだよね」

「すすすす好きです!」

「さっきも言ったけど、あたし、うじうじしてる男は嫌い」


 そんなショックな顔してたって知らないし! 謝らないし!

 私、急いでるんだから!


 陸上選手もうっとり見惚れるようなスタンディングスタートを切って、全力疾走で校舎の中に入る。


 あーもう、ほんとに時間の無駄! もう!



「こらー!柳瀬、走るな!!」


 注意されるのも気にせずダッシュで3年生のお兄ちゃんの教室に向かうと、私のお兄ちゃんセンサーがぴこーんと反応する。


 さささっと、手鏡を見て身嗜みを整えてから、ひょこっと教室に顔を覗かせた。


「お兄ちゃーん、もえとお兄ちゃんの愛の巣おうちにかーえろっ?」

「……あ?」


 ヤーさんもびっくりな低い声と、凶悪面が私の方に振り向く。


 うーん、今日もかっこいいっ! それに、如月さんはまだ来てないみたいだし。密かに拳を握ってガッツポーズ。


「……んだ、萌花か」

「なんだってなによっ。わざわざお兄ちゃんのこと迎えに来てあげたのにぃっ」


 ぷくぅーと頬っぺた膨らませれば、大きな手がわしゃわしゃと乱暴に頭を撫でる。うっとり。

 えへへー、お兄ちゃんになでなでされてる…。

 相変わらず“ひと1人殺ってきました”みたいな顔してるけど。


「えへへ、お兄ちゃん、帰ろっ」


 お兄ちゃんの腕に自分の腕を絡ませると、お兄ちゃんは嫌な顔は一切せずに「おう」と頷いた。


「香も一緒だけどいいか」


 えー……。


「う、うん。もちろん」


 チッと心の中で舌打ちしながら、笑顔で頷く。先に約束してたなんて……あの女狐、抜け目ない。私はお兄ちゃんと“二人で”帰りたいのに!

 きいいいい! と奥歯をくいしばっていると、廊下から軽快な足音が聞こえきた。


「茅くん、帰ろう?」


 女狐(お兄ちゃんの彼女なんて絶対認めないんだから!)が、ひょっこり顔を出した。


 ……で、


「あ、萌花ちゃんも居たんだ。私もご一緒していーい?」


 出た出た出た出たっ!


 なにあいつ! “萌花ちゃん”なんて私名前呼ぶの許した覚えないんだけど!? 勝手に呼んでんじゃねえよこの性悪ぶりっ子女が!


 キッと睨みつけるも、如月さんはニコニコ微笑むだけ。


 余裕かよ!

 お兄ちゃんと付き合えたからって調子に乗んなよチクショウ!


「い、いいに決まってるじゃん。香さんも一緒に帰りましょぉ」


 鍛えられたお兄ちゃんの腕を、ぎゅっと見せつけるように強く抱きしめながら、にっこり笑って見せる。たぶん引きつってはいないはず。


「ありがとう、萌花ちゃん」


 なによ、いい子ぶっちゃって。ああもう、ほんとウザい! ムカつく!

 いつか絶対、この女の正体を暴いてやるんだから!





「萌花、暑苦しい離れろ」

「えー、嫌だ」

「……」


 なんだかんだ言ってお兄ちゃんは私に甘い。私が言えば、どんなわがままでも大抵聞いてくれる。


 私はそれにすっかり機嫌を良くして、組んだ腕にぴとりと頬っぺたをくっつけて、上機嫌で昇降口へ向かう。靴箱で離れるのは惜しかったけど、そこは仕方ない。


 合流したお兄ちゃんとふたたび腕を絡めて、校門まで歩く。


「柳瀬ー!」


 どこからともなく聞こえた声。振り向かなくたって、誰のものかわかる。

 貴様、また私とお兄ちゃんの時間を邪魔する気か! しかめっ面で振り返る。部活中であるはずの四月一日が、体育館外の水飲み場から手を振っていた。


「また明日な!」

「……うん」


 その言葉に、ちょっと驚きながらも、おずおずと手をあげる。


「ふふ、萌花ちゃんの彼氏?」


 如月さんの言葉に、即座に下げたけど。


「は?違いますけどぉ」

「でも、仲良いのね。羨ましい」


 羨ましい? ……こいつ、お兄ちゃんという彼氏がいながら!


「そんなことないですよぉ。四月一日くんとはただのクラスメイトです」


 お兄ちゃん! 萌花、こんな男好きな性悪女狐とは別れた方が良いと思う!



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