第220話 エースの心理
決着がつこうとしている。
どちらも自軍の主砲に、確実に打順が回ってくる。
ただライガースは、アルトの打撃を注意しているのか。
(あいつは相当に、マリーシアなやつだからな)
スポーツでは、おおよそ狡猾とかいう意味で使われる。
抜け目ないという意味でもあったりするが、通常はあまりいい意味ではない。
そのあたりアルトの精神の根底には、ブラジルで有名なスポーツと、格闘技があったりする。
スポーツは当然、サッカーの方である。
ユニフォームを上手く、審判の目から隠して引っ張る。
足を削るぐらいはするし、なんなら肘を入れたりもする。
接触の多いスポーツであり、選手寿命は野球よりも、ずっと短いスポーツだ。
故障の可能性を考えると、アルトはサッカーで成り上がることは難しいと判断した。
ブラジルにある、かなり独特の格闘技。
カポエイラという足技主体のそれは、普通に教えられている。
アルトはこちらもある程度、身に着けている。
このカポエイラというのは、単純に格闘技というものでもない。
踊りの側面もあるのは、奴隷たちが踊りの練習をしているように見せて、訓練をしていたからとも言われる。
実戦的かというと、実はかなり実戦的であったりする。
これはリングで使えるかということではなく、喧嘩での初見殺しの要素が強いのだ。
アルトはそういうバックボーンを持っている。
ブラジルは5%の富裕層と、25%の中流層と、70%の貧困層からなる国。
治安も基本的に悪く、中流層の出身のアルトでも、どうにか逃げ出したいと考えていたのだ。
これはアレクも同じことで、元は日本から移民した、中村さんちのアレックス君が、アレクなのだ。
アレクは成功し、家族と共にアメリカで暮らしている。
もっとも日本の方がいいかな、とも思ったりもしているが、言語の壁が大きいのが日本なのだ。
アルトの狡猾さは、環境が育てた。
油断が少ない点は、昇馬に似ている。
だが昇馬はあくまで、自然の中で本能的に育ったもの。
人間の悪意を警戒して、育ったアルトとは違う。
アルトは逆に、自分が狡猾に動くことにも、躊躇をしないのだ。
ルールとは別に、許されるプレイと許されないプレイがある。
勝利のために強打者を、五打席連続敬遠するのは、許されないことだ。
誰が許さないのかというと、世間が許さない。
もっともこの世間というのもいい加減で、ファンではない一般人が、無責任に叩いたりする。
プロはだから、強いことは強いとして、プロに相応しいプレイを見せなければいけない。
アルトはそれを理解している、強かなプレイヤーであるのだ。
八回の表にアルト、九回の表に昇馬。
この二人を抑えることが出来たら、九回の裏には大介の打席が回ってくる。
勝負を正面からすれば、おそらく大介は打ってくる。
ただ大介の想像を超えていけば、打ち取ることも可能だ。
直史はいつも、大介の想像の外にある、配球で勝負して勝ってきたのだ。
「父さんなら、あの二人はどうやって抑えたの?」
明史は直史のピッチングが、どういうものか分かっている。
基本的にはバリエーションでの勝負なのだ。
しかし直史はわざと、打てるボールを普通に投げたりもしている。
半速球をほぼど真ん中に投げて、大介を硬直させた、という映像も残っている。
そのあたりは完全に、相手の虚を突いたピッチングなのだろう。
統計の中には、ちゃんと人間の心理も出ている。
たとえば追い込まれたバッターは、明らかに打率が下がっていく。
もっとも大介の数字を見ると、むしろ追い込まれたところから、逆転ホームランをたくさん打っていたり、チャンスとピンチに強いことが分かる。
「あの二人というと、アルトとしょーちゃんか」
「そうそう」
それは他の人間もに気になっていた。
真琴などは味方としてプレイしていたが、あの二人が敵にいたならば、ちょっと抑える手段など思いつかなかったろう。
昇馬は高校時代、甲子園に限っても、打率が六割オーバーであった。
アルトもだいたい五割は打っているし、特に得点圏の打率などが高い。
チームの戦略というのが、昇馬がホームランで一点を奪い、あとは一点も取られないという、頭の悪いものであった。
だがそれで四回も全国制覇をしている。
神宮大会を含めば、五回の全国制覇である。
直史ならばどう抑えるのか。
「普通に打順調整して、単打までに抑える状況を作るかな」
「敬遠はする?」
「状況によるけど、そこまでしなくても抑えられるだろ」
なにせ大介すらも、直史は抑えていたのだから。
直史にとって敬遠は、作戦の一つに過ぎない。
普通に他のバッターも、敬遠することはあったりする。
単純に打順調整のためにも、申告敬遠は有効だ。
下手にヒットを打たせると、それが相手の勢いにつながるかもしれないからだ。
敬遠という前提、フォアボールでの勝負回避。
それがあると思わせていると、相手を打ち取りやすくもなる。
たとえば大介は、少し外れたボール球でも、手を出しやすくなる。
そんな大介に対しては、ど真ん中のボールが、何かの変化球と思われたりもするのだ。
チェンジアップのようなものである。
だが全く意識外からのカーブなどで、スイングすら出来なかった、という場合もあるのだ。
意識の間隙を突く。
それこそがピッチングの神髄である。
今の直史はそこまで、意識を集中することが難しくなっている。
思考するにも体力は必要なのだ。
「だけどあの二人までなら、普通に失点は抑えられるかな」
ナチュラルにこんなことを言ってしまうが、オフには変化球対策のため、昇馬にはたくさん打たせてやったりもした。
直史はナチュラルに傲慢である。
ただ実績が凄いので、傲慢というわけではなく、許されるというタイプだ。
しかし本人としては、どうして自分が打たれないか、その理由も分かっている。
野球をやっている、という意識で投げていないからだ。
ある意味では、勝敗もどうでもいい。
もちろん負けるつもりでやっているわけではないが。
普通なら打たれる、というボールを選択肢の中に入れている。
それが他のピッチャーと違うところなのだ。
普通のピッチャーは、緩急ということはあっても、打たれないボールを増やそうとする。
だが直史は順番が逆で、このタイミングならばこのボールでも、打たれないと思って投げる。
全力で投げて打たれるのは、既に大介にやられていた。
あれはしっかりと、緩急を使ったものであったのに。
結局ピッチングというのは、相手の想定外のボールを投げることにある。
そして普通のバッターは、簡単に打てるボールをピッチャーが投げてくるとは、考えていないものだ。
単に抜けてしまったボールが、意外と打たれることがないということ。
特に緊迫した場面では、ピッチャーも注意深く投げる。
そのためまさかというボールに対して、反応が遅れてしまう。
他の難しいボールに対して、注意を分散させているためだ。
これは直史だから出来たこと。
昇馬には出来ないと言うか、そもそも必要がない。
また上杉や武史にも必要はなかった。
普通の右腕のピッチャーである直史。
魔球を習得する前から、組み立てで相手を抑えてきた。
皮肉なことに、簡単に打てるボールは、レベルが高くなるほど意外性が増す。
だからこの、簡単に打てるボールを、投げるという勇気。
これがあれば他のピッチャーも、もっとバリエーションを増やせるのだ。
アルトに対しては、スローカーブの多投で、ミスショットを狙う方がいい。
昇馬に対しては変化球が、かなり効果的になる。
最低で速度70km/hに抑えられるスローボール。
遅い球がむしろ打てないというのは、ドカベンの時代から使われていること。
緩急を突くだけではなく、意識の間隙を突く。
昇馬のピッチングには、そんなものは必要ない。
いや、必要なかったと過去形で言うべきか。
単純な話、統計だけを見れば、速いボールほど打たれにくい。
それは間違いのない事実である。
だが同時に、ピッチングのコンビネーションの幅は、どのようにして統計で計算するのか。
当然ながら球種が、多い方が打ち取りやすい。
そしてあまりに多くなると、単なるスローボールさえもが、変化球の一つとなる。
直史はこの試合の中でも、大介をどう打ち取るか考えていた。
ポストシーズンの第一試合、大介との対決。
三つのフライアウトを取り、完全に抑えたとは言える。
だが自分の肉体を削る勝利であり、結局チームは次のステージに進めなかった。
進めたとしても直史なしでは、タイタンズ相手ならともかく、ジャガースには勝てなかっただろう。
大介を抑えるし、昇馬も抑える。
司朗も抑えられるピッチャーは、直史しかいない。
しかし来シーズン、開幕までに復活出来るか。
治療は始まっているが、正しい形で定着するのか、そのあたりは定かではない。
今回は軟骨であったが、重要なのは靭帯だ。
二度も靭帯の炎症で、短期離脱をしているのだから。
靭帯が危険で、全力投球が出来ない。
またジャイロボールが投げられなくなり、それだけで決め球が一つ減った。
思考だけは今も、自由に考えることが出来る。
しかし分かっていても空振りか、せいぜいゴロになってしまうスルーを、直史は投げられない。
一試合に一球程度。
だが直史のピッチングは、無失点という記録を作った。
昇馬にはまだまだ伸び代がある。
それはフィジカル面での伸び代だ。
直史も大学に入学してから、球速の向上に取り組んだ。
そして成功したが、あくまでもそれはピッチングの幅を広げるため。
重要なのはスピードだけではない。
スピードは要素の一つでしかないのだ。
170km/h近くを投げている昇馬。
そして170km/h以上を投げていた、上杉や武史。
三人は大介相手に、かなり健闘したピッチャーである。
だがそれなりに、逆転打などを打たれてもいる。
対して直史は、致命的な一撃は、たったの一度しか打たれていない。
スピードが全てではないと、周囲に知らしめるかのように。
ほぼありとあらゆる変化球。
そして三者にはないほどの、極端な緩急差。
上杉や武史などは、140km/hも出ているボールでさえ、ストレートに比べればチェンジアップであった。
直史はそれに対して、今は140km/h台がMAX。
それでも緩急差などによって、バリエーションを付けられている。
直史の最大の武器は、思考力と心理洞察。
そして発想の飛躍である。
野球の常識を疑うところから、それは始まっている。
その点に関しては、他のピッチャーでも出来るだろうが。
しかし常識が、その飛躍の邪魔をする。
この試合のように、昇馬が自力でリリーフを行うこと。
これもまた普通なら、ありうることではない。
八回の攻防が終わる。
両者ともに、得点には至らず。
そして九回の攻防は、双方の主砲の打順が回ってくる。
ここでどちらが勝つのか、あるいは延長に突入するのか。
ピッチャーの質で言うならば、ジャガースが有利のはず。
昇馬はまだここから、いくらでも全力で投げていける。
むしろここらから、肩が暖まったところである。
ライガースはどうするのか。
御堂の球数は、まだ交代するほどではない。
むしろここまでのピッチングを見ていれば、ほぼジャガース打線を抑えている。
アルトはおそらく、わざと凡退したと直史は見ている。
それによって少しでも、昇馬との勝負を避けさせないために。
もしも御堂が昇馬を敬遠すれば、昇馬にも大介を敬遠する権利が生まれる。
もちろんそんなことはなく、敬遠はいくらしてもいいのだ。
だがそれを見て、観客やファンが納得するかどうか。
少なくとも御堂は、ある程度は勝負していると、見せていかなければいけない。
そして昇馬は際どいボールでも、打っていかないといけないだろう。
昇馬以外のバッターでも、本来なら点は取れたはず。
それがここまでもつれてしまった。
原因としてはやはり、打順が普段と違うことか。
バッターというのは意外と、繊細なところもある。
影響して打ちにくい、というのは確かにあるのかもしれない。
そしてこの試合は、もう終わる。
ほんのわずかの後に、決着はついた。
その結果としては、ある程度予想はついたもの。
だが試合が終わってから、まだ多くのエピソードが始まるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます