第3話 卒業

 玉木さんとは、それからほとんど毎週の土曜日に西伊豆スカイラインを一緒に走った。見晴らしの良い高原の上を、玉木さんと愛車で走る喜びは何にも代えがたいものだった。


ある日、いつものカフェに立ち寄り、玉木さんとバイク談義で盛り上がり、ひとしきり熱くなった後に少しずつお互いのことを話した。

「一生独身でいたいんですよね」

 玉木さんが笑いながら言った。


「あたしもです」

「他人と一緒に生活するのが無理で」

「同棲されたことがあるんですか?」

 あたしが聞くと、玉木さんは肩をすくめて笑った。


「新卒で働き始めてから四年くらいかな。そろそろ結婚かなと思った頃合いで、相手の浮気で終わった感じです」

「ひどい」

 あたしが言うと、「その点、バイクは裏切らない」と玉木さんは口角を上げた。


「わかります」

 あたしは深く頷いた。


「あたしは同棲したことないんですけど、そもそも男性と長続きしないんです。一緒にいても楽しくないというか。飽きちゃうというか。自分のペースを邪魔されたくないんですよね」

「一人の方が気が楽ですよね。叔父がずっと一人暮らしをしていて、好きなバイクに囲まれて幸せそうなんです。私も叔父みたいな生き方をしたいなって思っています」

 玉木さんが言うのに同調しながら、それでも玉木さんとは一緒にいたいと思う矛盾を抱えていた。


 どこまで踏み込んで良いのだろう。あたしたちの関係はどこまで深くなれるのだろう。近くなり過ぎたら、あたしたちの関係は壊れてしまうのだろうか。人間関係なんて、儚いものなのかもしれない。


 一人の方が気が楽だ、と言う玉木さんに突き放されてしまったような気がした。あたしも一人が好きなはずなのに、この気持ちは一体なんなのだろう。


 もう少しだけ、側に寄りたい。できたら玉木さんの親友になりたい。いや、親友なんてチャチな言葉で表現できるような関係ではなく、唯一無二の相棒のような存在になりたいのかもしれない。玉木さんの中で一番の存在になりたいという気持ちが日に日に成長していく。


 玉木さんと一緒に西伊豆スカイラインを走るようになって半年が過ぎ、季節は冬に差しかかった。


 いつもの土曜日、いつもの森を一望できるカフェで、あたしはプロポーズでもするような心持ちで玉木さんの前に座っている。


「玉木さん。年末年始のお休みが合ったら、一緒に九州の方へ遠征に行きませんか?」

「九州?」

 玉木さんが目を丸くする。

「二泊三日で、日帰り温泉とか巡りませんか?」

 自分の心臓がバクバク拍動している音が響いている。それまでニコニコしていた玉木さんの顔が急に曇って、真顔になる。


 まずい。雲行きが怪しい。お腹が痛くなってくる。まだ一緒に温泉に行くような関係じゃなかったのかもしれない。

 緊張で喉が渇く。玉木さんは何か言葉を探しているようだった。


「ごめんなさい」

 玉木さんは一言そうこぼして、頭を下げた。

「いえ、こちらこそごめんなさい。あたしったら距離感近過ぎですよね。今後気をつけます」

「いえいえ、誘ってくださったことは嬉しいんですよ!」

 玉木さんが困った風に笑顔を作る。


「ちょっと予定が立たなくて、ご一緒できるお約束ができないんですよ」

 鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。多分、失恋ってこう言う感じだ。期待していた大切な思いが喪失していく。


 あたしたちは、まだお泊まりするような仲じゃなかったのか。自分は一体何を勘違いしていたのだろう。そうだよね、玉木さんだって、あたしだけが友達なわけじゃないし。


 急に気まずさが私たちの間に重く降りかかって、会話が続かず、その日はカフェでお開きとなった。

  

 土曜日の午前九時三十分、西伊豆スカイラインの戸田駐車場。いつの間にかあたしたちは約束もしないで、当然のように毎週待ち合わせをしていた。都合で来られない日があれば事前に連絡も取り合っていたから、あたしは先週気まずい雰囲気で別れても、特に連絡がなければいつものように会えるものだと思っていたのに。


 その日、木枯らしが吹く中、あたしは戸田駐車場で玉木さんを二時間待ち続けた。

【戸田駐車場にいます。今日はいらっしゃらない感じですか。またお会いできれば嬉しいです】


 あたしは諦めて玉木さんにメッセージを送る。冷たい風と一体になり、あたしは冬の山道を一人バイクで走る。


 メッセージに既読マークはつくけれども、返事は二週間経っても来ないまま。


 終わった。


 こんなことで終わってしまうとは。ただただ自分の軽率さを恨む。


【気を悪くされてしまったならごめんなさい。もしまた一緒に走って良いよと思ったら、いつでも良いのでご連絡ください】


 あたしは玉木さんにメッセージを追加で送る。既読は付くも、返信のないまま日々は過ぎていく。


 玉木さんと一緒にバイクで走る楽しみを知ってしまったあたしは、一人で走ることがどこか物足りず、もう失ってしまった自分の一部を惜しむように寒空を走り続けた。


 どこを探しても玉木さんは帰ってこない。私たちの友情は幻みたいなものだったのかもしれない。


 今週の土曜日も西伊豆スカイラインの山道のカーブに身を委ね、玉木さんの美しい運転に想いを馳せた。玉木さんと初めて言葉を交わした土肥駐車場に入り、朝の駿河湾を一人ぼうっと眺めていた。


 何気なしに海の風景を写真に収め、SNSにアップロードする。潮風に吹かれながら、スマホをスクロールし、そのままSNSのタイムラインをぼんやりと追ってみる。すると、玉木さんの更新記事が視界に飛び込んできた。


 あたしが九州遠征に誘った日から更新されていなかったから、少しでも玉木さんの新しい情報に触れたのが嬉しかった。でも、玉木さんの近況を認識した瞬間に、あたしは言葉を失った。


【バイクから卒業する時期が来たのかも。今までバイクで絡んでいただいた方、ありがとうございました】


 そんなバカな。

 玉木さんがバイクから離れるなんて。あんなに純粋にバイクを愛していたのに。

 気持ちと理解が追いつかず、スマホを持つ手が震える。

 玉木さん、今、スマホいじってるよね?

 あたしは衝動的に玉木さんへの通話ボタンを押す。玉木さんと話したい。

 呼び出しの音楽が鳴り続ける。

 出てください。

 玉木さんとオンラインで通話することなんて一度もなかった。いきなり通話なんて、困るよね。諦めて通話をキャンセルしようとする。


「はい」

 繋がった。玉木さんの声だ。話したかったのに急に繋がったせいか、驚いて声が出ない。


「もしもし?」

 玉木さんが言う。


「あ、出てくれてありがとうございます。今、投稿を見たのでびっくりして。つい電話しちゃいました!」

 興奮して早口になる。


「お久しぶりです」

 あたしは続けて言った。


「ごめんなさいね、お返事できなくって。ちょっと色々あって余裕なくて」

 玉木さんが言った。元気がない。


「いえ! いいんです! それより玉木さん、バイクを卒業するってどう言うことですか?」

 またあたしの悪い癖だ。距離感が近過ぎる。でも、あたしはまだ玉木さんと一緒にバイクで走りたかった。


「矢野さんにはちゃんと話しておこうかなって思ってたんですけど、なかなか気持ちの整理がつかなくてごめんなさい」

 玉木さんが暗いトーンで話し始める。


「端的に言うと、もう、バイクで走る理由がなくなったんです」

 バイクで走る理由?

 あたしは呼吸をするのも忘れて玉木さんの声に耳を傾ける。


「矢野さんは全然関係ないので、本当に気にしないでください」

 あたしは関係ない。

 胸が引き裂かれるような気持ちに襲われて、思わず涙が滲む。


「玉木さんがバイクから離れるなんて嘘ですよ。玉木さん、バイク大好きじゃないですか」

 自分が止められない。去る者を追っても仕方がないのはわかっている。でも、あたしはどうしても玉木さんを引き止めたかった。


「玉木さん、会って話せませんか?」

「え?」

 玉木さんが戸惑う。


「あたしが横浜まで飛んで行くので、最後に一度だけ会ってくれませんか?」

 自分がみっともない。あたしが会ったからって、何が変わると言うのだろう。ただ単に、あたしのわがままだ。


 本当の理由を話してくれるかはわからない。理由を聞いたところで、玉木さんの決意は変わらないかもしれない。


 でも、チャンスが欲しい。

 あたしに玉木さんの気持ちを変える力なんてあるのだろうか。祈るような気持ちで玉木さんの返答を待つ。


 しばらくの沈黙があった後、玉木さんは「そうですね。電話で話すより、会って話を聞いていただいた方が良いかもしれません」

 と重い口を開いた。


「いいんですか?」


「矢野さんにはずっと連絡しようと思っていたんですよ。でも、気持ちが追いつかなくて、もうどうやって連絡したらいいかわからなくなっていたんです。だから、お電話ありがとうございました」

 玉木さんは柔らかな口調でそう答えた。


 あたしは嫌われたんじゃなかったんだ。そう思うと涙が止まらなかった。

「今から向かっていいですか?」

 鼻を啜りながらあたしはそう言うと、玉木さんは驚きながらも「いいですよ」と答えてくれた。


 太陽はまだ低い位置で輝いており、冷たい潮風があたしの背中を押してくれた。あたしはアクセルのグリップを強く捻り、横浜方面にファイヤーブレードを走らせた。

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