第2話 隠れ家的なカフェで

 次の週の土曜日になり、自宅アパートを出て空を見上げた。霧雨が頬に柔らかく落ちてきた。ほのかに明るいグレーの雲が一面に広がっている。


 こういう日の運転はあまり好きじゃない。長時間走った後に疲れがドッと襲ってくるのが、それなりにしんどいからだ。いつもだったら雨の日は走りに行かないのだけれど、今日は霧雨だし、玉木さんと約束しているからそういうわけにはいかない。


 あたしは霧がかかった山道を愛車のファイヤーブレードで走る。一度跨がってしまえば何のことはない。戸田駐車場で待ち合わせしている玉木さんに会えることが嬉しくて、雨の鬱陶しさも楽しみに変わる。


 路面がしっとりと濡れているので、落ち着いて走り出す。山の緑が霧雨に滲んで、水彩絵の具みたいな色合いだ。素朴で何処か懐かしい絵画の世界を旅しているような心地で風を切っていく。


 戸田駐車場に入ると、すぐに赤と白のОW-01が目に入った。初恋の人とのデートというわけでもないのに、十代の瑞々しい気持ちが蘇るようだった。


 ブルーのライダーズジャケットが、すぐにあたしに気づいて手を振ってくれた。あたしはヘルメットを脱いで、玉木さんの元に駆け寄る。


「おはようございます!」

 馬鹿みたいに声が大きくなって、つい自分に驚いてしまう。玉木さんと仲良くなりたくて、前のめりになっている自分に気がついているのだが、興奮をなかなかコントロールできない。


「おはようございますー。元気ですね」

「はい! 元気が取り柄です!」

 玉木さんの涼やかな微笑みに、あたしは暑苦しい感じの笑顔で返している。


「それじゃあ行きますか?」

 玉木さんが言って、あたしたちは霧雨の中を走り出した。前を行く玉木さんの走りに続いて、山道のカーブをリラックスしながらバイクとの一体感を楽しむ。


 峠を下り、しばらく走っていくと森の中にポツンとあるようなカフェに着いた。一見すると隠れ家に見えるレトロな小屋があって、バイク優先という駐車場にあたしたちは愛車を停めた。開店してすぐだったからか、お店の中はまだ人が少ない。案内された森を一望できる窓際の席に二人で座る。


「どうぞ」

 玉木さんがメニューをあたしに渡してくれたので、「ありがとうございます」と言って受け取った。

「いつも朝早く横浜を出るから、ブランチによくここに来るんですよ。パスタもケーキもみんな美味しいんです」

「朝ごはんは食べてないんですか?」

「出発前にゼリー飲料を飲んだくらいかなあ」

 玉木さんは極まり悪そうに笑った。だから痩せているのかな、なんて思いながらあたしは「そうなんですね」と相槌を打つ。


 割と朝ごはんをしっかり食べてきてしまったけれども、玉木さんがコーヒーとパスタを頼んだのであたしも同じメニューを一緒に頼んだ。次から朝ごはんは真似してゼリー飲料だけにしよう。


 店員さんに注文すると、一気に沈黙がやってくる。一体何を話したらいいんだろう。一秒一秒がとてつもなく長く感じられ、変な焦りで冷や汗が首筋を伝う。


 そうだ。


 あたしは思い出して、自分の鞄からピンクの包装紙でラッピングされたクッキーセットを取り出した。


「玉木さん、これ、近所のお菓子屋さんのクッキーなんですけど。すごく美味しいので、もし良かったらもらってください!」


 どうしたら仲良くなれるかを一生懸命考えた結果の行動だった。


「ありがとうございます。やだ、私は何も持ってこなくて」

 玉木さんは戸惑って、受け取る手を出さない。


「いいんです! あたしが勝手に、是非食べてもらいたいと思って持ってきただけなので」


 半ば押し付けるような形で玉木さんに手渡す。


「じゃあ、次は私も何かおすすめの美味しいお菓子買ってきますね」

 玉木さんはそう微笑んで受け取ってくれた。


 席の窓は開いていて、緑の森が広がっている。雨の音はしないけれども、確実にシトシトと霧雨は降り注いでいる。窓から見えるウッドデッキにお客さんはいない。一方で店内は少しずつ客が増え、朗らかな話し声とジャズピアノの音楽がお店に響いていた。


「矢野さんはいつからバイクに乗っているんですか?」

 玉木さんが言った。


「あたしは、学生の頃からです。その時付き合っていた彼氏がバイク好きで、影響されて二十歳で大型の免許を取りました」

 そうだ、あたしたちを繋ぐのはバイクの話だ。


「ファイヤーブレード、格好いいですよね」

 あたしの愛車のペットネームだ。自分のバイクを褒められるのは、自分の子供を褒められているようで気分が上がる。


「頑張って買いました」

「うん。すごく大切にしている感じがします」

 玉木さんが目を細めて、とてもリラックスしている様子にあたしも緊張が和らいでくる。


「玉木さんはいつ頃からバイクにハマったんですか?」

「私は十六からなんですよ。叔父がバイクのコレクターで、小さい頃から布教されて、バイクオタクに育てられちゃって。十六の誕生日にすぐ免許を取って、叔父のバイクを乗り回してきました」

 話しながら微笑む玉木さんの瞳の奥は、確かにバイクを愛している人の輝きがあった。


「もしかして、今乗ってらっしゃるОW(オーダブリュー)も叔父様のコレクションなんですか?」

 あたしが身を乗り出して聞くと、「そうなんですよ」と玉木さんが照れくさそうに笑った。


「もう替えの部品とかないですよね。コケたらどうしようとかないんですか」

 もう生産していない希少バイクを攻めの姿勢で運転する玉木さんが堪らなくかっこいいのだが、つい思っていたことが口から漏れていく。失言したかと、あたしは思わず口を手で覆う。知り合って二回目に会う人なのに、踏み込みすぎたことを聞いてしまったかと顔が青くなる。


 嫌われたらどうしよう。

「私、ОWが一番好きで、叔父も一番大切にしているバイクなんですよね。でも、バイクって走るために生まれた乗り物なので、なるべく走らせてあげたいんです」

 玉木さんはニッコリと笑った。


「それに、私がコケさせませんから」

 続けて言う玉木さんの笑顔には、強い決意が込められているような気がした。


「バイクは走らせてなんぼです。暗いガレージに閉じ込めてちゃ可哀想です」

「確かに、そうですよね」

 あたしは深く頷く。テーブルにコーヒーとトマトソースパスタが運ばれて来た。

 初めて乗ったバイクの話から、これまで乗ってきたバイクの話で盛り上がり、時間は驚くほど早く進んでいく。


「あら、こんな時間になっちゃった」


 玉木さんがスマホを見たので、あたしもスマートウォッチを確認すると、もう十二時を回っていた。二時間くらいずっと喋っていたことに驚きながら、もうお別れかと思うと離れがたかった。


「すごく楽しかったです。バイクの話で盛り上がれる女性の方と出会えて本当に嬉しくて、ちょっと話しすぎちゃったかな」

 玉木さんが言う。


「いえいえ、あたしも、なんか余計なこと言ってたらすみません! すごく楽しかったので気にしないでください!」

 手に汗をかきながら、あたしが言う。


「もし良かったら、また来週にでも戸田駐車場で待ち合わせしてお話しません?」

 玉木さんが言った。


「はい!」

 両想いってこういうことだと思う。たった二時間お話ししただけなのに、あたしたちはもう友人になれたような気がした。

 お店の外に出ると霧雨はすっかり上がり、雲の隙間からわずかに青空がのぞいていた。

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