『霊能医の診療記録』 ―美容整形の闇から生まれた怪談―
ソコニ
第1話『美容外科医の密かな診療録』
診療記録 No.2024-001
患者:倉持美咲(25歳・会社員)
症状:整形手術後の違和感、鏡像の異常・変形
「倉持さん、腫れの具合は順調ですね」
御船霧子は診察用ライトを患者の顔に当てながら、施術部位を確認していく。二重切開から一週間。腫れや内出血は想定内―しかし、霧子の指先が触れた瞬間、異様な冷たさが伝わってきた。まるで生きた人の肌ではないような温度。
「ありがとうございます、先生。でも...」
倉持美咲の手が震えている。艶やかな黒髪の隙間から覗く顔は、蒼白で、どこか生気を欠いていた。診察室の温度が急激に下がり、霧子の吐く息が白く靄となって漂う。
「何か気になることがありますか?」
「鏡の中の私が...違うんです。朝、洗面所の鏡を見ていたら...」
倉持は言葉を詰まらせ、握りしめていた手鏡を差し出した。表面には細かな傷が無数に走っている。爪で引っ掻いたような傷跡は、まるで蜘蛛の巣のように広がっていた。
「私の顔なのに...私じゃないんです。鏡の中の顔が、少しずつ...溶けていって...」
霧子が手鏡を受け取った瞬間、鏡面が黒く濁り始めた。そこには倉持の顔が映っているはずなのに、輪郭が歪み、目鼻が溶けるように流れ落ちていく。やがてそれは、まるで別の人物の面影を帯びていった。
診察室の隅に、影が蠢いた。
「倉持さん、今夜9時以降に、改めて来ていただけますか?」
霧子の声が、異様な静寂を切り裂く。
*
夜の診察室は、獣の喉のように黒く佇んでいた。
霧子は白衣を和風モダンな着物に着替え、長い黒髪を後ろで結い上げていた。壁の時計が9時を指す瞬間、廊下に足音が響く。歩む度に照明が明滅し、影が壁を這うように揺らめいていく。
「御船...先生?」
倉持の声が震えている。昼間の凛とした美容外科医の姿は消え、そこには別の顔を持つ医師が佇んでいた。診察室の隅には、無数の手鏡が積み重ねられている。それぞれの表面が、かすかに光を放っていた。
「お座りください。今夜は...霊能科医として、あなたの症状を診させていただきます」
霧子が間接照明を落とすと、青白い月光だけが室内を照らし出す。倉持の手鏡の表面が、まるで水面のように波打ち始めた。鏡の向こうから、黒い糸のような何かが這い出してくる。
「この世とあの世は、手術創のように薄い膜一枚で隔てられているだけ」
霧子の声が低く響く。手鏡の表面に、倉持の顔とは明らかに異なる女性の面影が浮かび上がる。その顔は年老いており、しかし妙に艶めかしく、歪んだ微笑を浮かべていた。
「術後の傷跡は、時として"向こう側"との境界を引き裂くことがある。特に...強い願望や執着が、その裂け目を広げてしまう場合は」
手鏡の表面から、黒い液体が滴り落ちる。それは床に落ちた瞬間に霧となって消えたが、甘ったるい腐敗臭が診察室に漂い始めた。
「倉持さん、あなたの手術前の写真を」
スマートフォンに映る施術前の写真。そこには確かに倉持美咲の顔があった。しかし、画面をスクロールする度に、その表情が微かに動いているような...。
「私が欲しかったのは...母の若い頃の顔、なんです。でも...でも母は、もう...」
倉持の言葉が途切れた瞬間、手鏡の表面が大きく波打つ。鏡の中の顔が突如として目を見開き、その口が裂けるように開いていく。黒い糸が溢れ出し、倉持の手首に絡みつこうとする。
「やめて!お母さん、もう十分です!」
霧子は素早く霊符を取り出し、鏡面に叩きつけた。刹那、悲鳴のような音が響き、黒い糸が霧散していく。鏡の中の顔が徐々に消え、倉持本来の姿が映し出される。
「美しさには理論と数値がある。それ以外は、すべて錯覚にすぎない」
霧子の冷たい声が、暗闇に響き渡る。
「しかし、人の想いは時として理論を超え、狂気となって具現化する。あなたの鏡に映っていたのは、美への執着が生み出した化け物...そして、その姿を借りてあなたに憑依しようとした母の怨念です」
青白い月光の中、倉持の頬を涙が伝う。霧子は最後の加持を施し、霧子が最後の加持を始めると、鏡の表面が激しく波打ち、黒い糸が無数に噴き出した。それは蛇のように診察室中を這い回り、壁という壁に這い上がっていく。時計の針が歪み、溶け出したかのように垂れ下がり始めた。
「もう...放して...」
倉持の喉から絞り出されるような声。黒い糸が彼女の首に絡みつこうとする。霧子は迷いなく霊符を投げつけ、鏡を粉々に打ち砕いた。甲高い悲鳴が響き渡り、ガラスの破片が床に散らばる。それぞれの破片に、歪んだ母の顔が映り込んでは消えていく。
最後の一片が消えると同時に、歪んでいた時計が元に戻る。針は午後11時を指していた。診察室の隅で、白衣の少女が一瞬、寂しげな表情を見せたように見えた。
「これで...母は...」
「ええ、あの世に戻られました。ただし...」
霧子は診療記録の余白に、血のように赤い文字で書き加えた。
「術後経過:良好、霊的残余:消去、要経過観察」
*
翌朝。いつもの白衣に身を包んだ霧子の姿からは、夜の顔を想像することすらできない。しかし、診察室の隅に置かれた手鏡の山は、確かにその闇を記憶していた。鏡の表面には今も、かすかに霊符の痕跡が赤く残っている。
昼の診療が始まる。今日も霧子は完璧な美容外科医として、メスを執るだろう。しかし、その刃が切り開くのは、本当に皮膚だけなのか。
夜になれば、また新たな影が、診察室の扉を叩くのを待っている。
それが、彼女の背負った宿命なのだから。
(終)
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