第2話 アイツの仕事
想定していた質問に対する受け答えが、シミュレーション通りにできると安心する。それでも、緩み切った顔を相手に見せられない。見送りを終えて部署へ戻るまでは気が抜けなかった。緊張の糸が切れるのは、デスクに戻ったとき。
ふうぅ。
声には出せない。
あからさまに安堵の胸を撫で下ろせば、上司にたるんでいると叱られる。契約一つで一喜一憂しているのか。もう三年目なんだから堂々としてもらわなきゃ困るよ、と。
三年目になっても商談は緊張する。軽い雑談やアイスブレイクはいまだに苦手だ。どのトークテーマを選べば相手が困らないか、考え込んでしまう性格のせい。食べ物や季節などの当たり障りのない話題でも、使いやすいネタだと感じたことはなかった。お気に入りの店の話をしてしまえば、かつて教えてくれた同僚の顔を思い出す。同期にまつわる記憶のふたは、開かないように固くしめないと。商談中に涙腺が緩む。
こんな私の話に耳を傾けてもらえるだけでなく、契約を決めていただけることがありがたいなぁ。駄目、駄目。弱気になったら。感極まった勢いで、お礼のメールに妙なことを口走ってしまうかも。
一息つくために、給湯室で温かいカフェオレを作って来ようかな。
マグカップを持って給湯室に行くと、後輩くんが電気ポットに水を入れていた。私の足音に振り返ってすぐ、にっこり微笑む。飼い主に飛びつく数秒前のわんこみたい。私の顔には、そんなにリラックスできる効果がないよ。
「おかえりなさい。又田尾先輩」
「ただいま」
カフェオレを飲んでいないのに、後輩くんの声だけで元気になれる。使ったマグカップを洗うだけでいいかもしれない。
「にゃんだって!」
私の心の声に反応したのは、アイツだった。取っ手を持つ私に、ふしゃあと爪を見せる。と言っても、すべすべの陶器から爪が飛び出すことはない。ただ可愛いしぐさをしているだけのようにしか思えなかった。
「カフェオレを飲まにゃいにゃんて、本当なのかにゃ? あと一杯温めるくらい、どうってことにゃいもん! まだまだ頑張れるにゃあああ!」
きみが温めてくれていたんだ。冬場の猫はこたつやヒーターに集まると聞くけど、温めるのも好きなのかな。
「当然にゃ。そうじゃにゃかったら、マグカップをすみかに選ばにゃいにゃあ」
そういうものかぁ。
心の中で会話できるのは、思った以上に楽だ。後輩くんには黙ったまま突っ立っている不思議な先輩だと思われるから、怪しまれないようにしないとね。
後輩くんが水を入れ終わるのを待っていると、嬉しそうな声が聞こえた。
「商談が上手くいったみたいでよかったです」
「分かるの?」
「眉間のしわがないので」
そんなところ見られていたんだ。
眉間を隠す私に、後輩くんは冷蔵庫から取り出した横長の箱を見せる。パッケージは既視感がある。コンビニ限定の新作チョコだ。お昼を買いに行く度、気になっていたんだよね。苺や桜餅の味が並ぶ中、真夏が似合うハニーソルトは目立っていたから。
「又田尾先輩。先ほど話に上がったお菓子です。お一つと言わず、三つどうぞ」
個包装のお菓子は助かる。手を汚さずに作業ができるし、自分の好きなタイミングで封を開けられる。
「いいの? こんなにたくさん、ありがとう」
もらっておきながら、お菓子で喜ぶなんて子どもみたいだと感じて恥ずかしくなる。
「お菓子は子どもだけの特権じゃにゃいにゃあ。大人も食べていいんだにゃ。食べた分、頭を使って消費すればいいにゃん」
そこは、動いて消費じゃないんだね。ソイツがマグカップの中で走る様子はなく、寝っ転がったまま喉を鳴らしていた。頭の中では何を考えているのかな。とろんとした目を見るに「にぼしが一匹、にぼしが二匹」と数えているのかもしれない。猫を飼ったことがない私でも、眠そうな雰囲気は読み取れる。
「約束していた件、教えてくれますか?」
「もう? そんなに早く綺麗な字が書きたいの?」
せっかちさんだね。でも、やる気があるのに先輩が躊躇したらよくないよね。これも新人教育の一環になると思えばいいか。
お礼メールを送った後で、後輩くんに字のアドバイスをすることにした。
「よく学校の先生が言っていたと思うんだよね。丁寧な字で書きましょうって。綺麗な字を書くのは難しくても、とめ・はね・はらいを注意することができるから」
「なるほど」
「その意識を続けられるかどうかが、綺麗に見える字を書ける分かれ目になるんじゃないかな。あとはへんとつくりの間を空けすぎないようにするとか、右上がりに書いてみるとか」
手帳のメモ欄に、会社の住所や自分の名前を書く。
「おぉー! とても綺麗です」
後輩くんの小さな拍手がこそばゆい。
「でも、あまり意識しすぎるとバランスが悪くなるから、右上がりに書くのは追々でいいのかも」
「勉強になります」
先輩を喜ばせる言葉を使うのが上手だ。後輩くんと話すと浄化される。こんな自分の単純な思考が嫌になる。
「せっかく千真がくれたチョコ、まだ食べにゃいの? 千真が味の感想を待っているはずにゃ」
そっか。カフェオレは飲んでいたけど、もらったお菓子に手をつけていなかった。
角砂糖のようなサイズのチョコを、舌の上で転がす。しょっぱいけど甘く、あっという間に一箱食べきってしまいそうだ。今度私も買ってみようかな。
「美味しい」
「よかったです!」
先週見つけた掘り出し物なんです。
後輩くんが書いた字は少し雑に見えたけど、大きくて安心させる力強さがあった。よさを消さないように見守っていきたい。
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