おしゃべりな猫はマグカップの中にいる

羽間慧

第1話 にゃあにゃあ言うアイツ

 商談相手が来るまで時間はある。プレゼン資料の確認を終えた私は、スマホのアラームをセットする。今のうちに後輩くんの企画書を見ておかないと。


 新人教育を任されたときは気合が入っていた。自分が新人だったころを思い出しながら、されて嬉しかったことを倍にしてあげたいと思っていた。だけど、積み重なる自分の業務にうめく度、楽しさよりも大変さを感じることが多くなる。


 余裕のない私が、後輩くんの教育係でよかったのかな。そんな申し訳なさが日に日に増していく。頼りない先輩だとは思われたくなくて、疲れ切った顔をファンデーションで隠していた。


 マグカップに入れたばかりのコーヒーに口をつけると、アイツがしゃべりだした。


「肩の力抜こうにゃ。もうお昼寝の時間だにゃーん。ご飯は食べにゃいのかにゃ?」


 にゃあにゃあと話すソイツは、かまってちゃんの同僚ではない。マグカップに描かれているマンチカンだ。短い足で立ち上がり、私を見上げていた。


 スーパーの在庫処分セールで買った量産品は、私が湯を入れたときから人の言葉を使い出した。私以外でソイツの声を聞ける人はいない。得体の知れないものを一人暮らしの家に置く訳にもいかず、職場で自然に割れるまで使うことにした。猫の恨みは怖いと聞く。下手に壊して祟られないよう、普通のマグカップより大事に使っていた。


 ソイツは私の食べているものを見て、全身の毛を逆立てる。


「そんにゃのじゃ、お腹膨らまにゃいにゃ! カップスープにパンを浸したら、パンが消えちゃうにゃあああ!」


 大袈裟だなぁ。そりゃあ、ランチへ出かける先輩みたいに、立派なご飯じゃないかもしれないけど。三年目の私には、食べようとする意思を保つだけでも大変なのだ。ここ二年間で、昼ご飯を食べる時間が夕ご飯と重なることは多々あった。


 新卒で一人暮らしを始めたときは、大学生のときと同じく自炊できると思っていた。だが、半年と経たないうちに、スーパーのお買い得品と惣菜に頼る日々が続くようになった。


 ご飯を一緒に食べていた同期は、私以外いなくなった。仲良くなった後輩ちゃんも三月でやめた。新しい後輩くんを指導しつつ、どうせすぐやめちゃうんだろうなと後ろ向きになってしまっている。こんな先輩の裏側は、せっかく頑張ろうとしてくれている後輩くんに見せたくない。


 ソイツはペンを置いた私に溜息をついた。企画書のアドバイスを箇条書きでまとめただけの内容が、まずかったのだろうか。


「赤いコメントが、ぎっしりだにゃ。褒め言葉と修正点が半々になるように調節するにゃんて、教える側は大変だにゃ。よしよししてあげるにゃ」


 親指に触れていた取っ手のしっぽが、心なしか温かく感じた。指導してもらった上司は別の部署へ移動になり、新年度になってから褒められたのは初めてだ。


「にゃいてるのかにゃ?」

「泣いてない」


 私は目を覆った。


 どうせ添削を入れたところで、年度末にシュレッダーにかけられる。そんなゴミを生み出す作業を、褒めないでくれるかな。


又田尾またたび先輩、花粉症しんどいですか? さっきコンビニのクジで『ちょっとセレブなティッシュ』をもらったんですけど。もしよかったら、先輩にあげましょうか?」


 顔を上げると、後輩くんが戻ってきていた。細身のネイビースーツから、エンジのドット柄がのぞいている。


 後輩くんの好意は断れず、私は小さく頷いた。


「ありがとう、茶斗羅ちゃとらくん。ちょうど目が痛くて」


 こんなかっこわるいとこ、早く忘れてほしい。私の祈りは虚しく、直しかけの企画書に目が留まる。


「又田尾先輩の字、いつも綺麗ですよね。自分はタブレットのペンシルで書くときも雑になってしまうので、こういう風に書けるの羨ましいです。どうやったら上手くなれますか?」


 どうせ教えてもやめちゃうと、後ろ向きになっていたけれど。期待のこもった瞳で見られてしまっては、いいところを見せたいと思ってしまう。


「話が長くなってしまうかもしれないから、商談の後でもいい?」

「もちろんです! その間、頑張って作業進めときます!」

「眩しい目に、お姉さん恋に落ちちゃうにゃ」


 そんな単純じゃにゃいもん。……って、アイツの言葉が移ったにゃ! さすがに後輩くんのいるときは、うっかり口に出さないようにしにゃいとにゃあ。


 教育係を任されているのに、先輩の商談は見学できない後輩くんが不憫でならない。書類整理も大事なのは分かるけれども。変な慣習を守る固いところも、うちの会社の離職率が高い原因だと思うのよね。


 溜息をつこうとした私に、後輩くんは人懐こい笑みを浮かべる。


「ただで教えてもらうの悪いので、又田尾先輩が商談から帰ってきたら美味しいお菓子を開けますね」

「戻られたら、ね」


 つい言葉遣いを訂正するなんて、意地が悪すぎる。しかも細かい訂正だ。見過ごしてもよかったのに。


「気にしなくていいにゃ。教育係の果連かれんが注意しにゃいと、ほかの人が千真かずまを何倍も叱るにゃ。優しいだけが先輩の仕事なのかにゃ?」


 顔を舐めながら言われましても。

 可愛さに負けて、首を横に振ってしまうしかないじゃない。

 でも、きつい言い方をしてしまった私に非はある。早くフォローを入れなきゃ。


「茶斗羅くん」


 名前を呼んでおきながら、後の言葉が続かない。


 学生気分が抜けていないんじゃないのか。そう怒鳴られて、さりげなくトイレへ逃げ込んだかつての私の目は、まだ記憶に残っている。鏡に映った赤い目元を、後輩くんが水で洗い流す未来はごめんだ。


 あなたのためを思って厳しいことを言わせてもらった、なんて言葉で慰めたくはない。

 私が新人だったときに、ほしかった声かけは。


 詰まっていた言葉はすらすらと出てくる。口調も柔らかく、嫌味っぽさを抑えられた気がする。


「同僚の前で気が抜けていたら、社外の方の前でうっかり口を滑らせてしまうでしょ? だから、次から気をつけてね」

「せ、先輩……! ご指摘していただき、ありがとうございます!」


 前のめりになって両手を合わせた後輩くんは、感動で涙ぐんでいるように見える。傍目から見れば、私がパワハラしているように勘違いされないかな。勘違いじゃなくて、パワハラしちゃってる?


 おどおどする私を横目に、アイツは呑気に言った。


「青いにゃあ。いい光景だにゃあ」


 ふあぁとあくびをするアイツに釣られて、そうだねと肯定したくなった。

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