エキナセア

『間もなく、木ノ坂きのさか駅に到着いたします』


 混み合うバスの中で到着前のアナウンスが響き渡る。学生たちの話し声やバスの揺れる音、その一つひとつが徐々にはっきりと聞こえてくるようになる。閉じていた目をこすりながら、愛は手探りで携帯を手に取った。ホーム画面には「7時10分」の表示が出ている。

 宏大との会話で気が抜けてしまったのか、ずいぶん長い間寝入っていたようだ。乗車時とは大違いに、バス内にはたくさんの学生たちが蔓延はびこっている。やはり、早朝のバスを選んだのは正解だった。席について仮眠を取れるのは、私のように遠くの地区から高校へ通っている者の特権だ。皆が支えを掴んで立ち尽くしている中、愛は小さな優越感を感じていた。

 外へ眼を向けると、すでに鳳仙ほうせん高校の姿が見え始めていた。足元に置いてあるスクールバッグを持ち上げ、膝の上に置く。バスが停留所へ差し迫るにつれ、だんだんと学生たちの話し声は収まっていった。

 バスが木ノ坂駅に到着し、先頭のドアが開き出す。学生たちは車掌の声とともに降車しはじめ、愛もそれに続いてコンクリートの地面に足をついた。外は相変わらずの曇り空であり、今にも雨が降り出しそうな雰囲気である。愛は一度立ち止まり、念のためバッグの中から折り畳み傘を取り出そうとした。

 その時、ポケットの中に入れていた携帯が、かわいらしい通知音と共に震え出した。取り出して確認すると、プレビューには「結葉」という名前が表示されていた。愛はすぐさま携帯のロックを解除し、メッセージアプリを開いた。つぶらな瞳でこちらを見つめる猫のアイコンをタップすると、画面には結葉からの返信が表示された。



 結葉です。アイちゃん、連絡するのが遅くなってごめんね。アイちゃんから何度も連絡が来てたのはわかっていたんだけど、なんだか返信する気力がなくて……。心配かけて、本当にごめんなさい。

 昨日は私を助けてくれて本当にありがとう。アイちゃんがいてくれたおかげで、私は何とかあの場を乗り切ることが出来た。ほんと私、アイちゃんに助けられてばかりだな……。いつも迷惑かけてばかりで、本当にごめんね。

 けれど、もう大丈夫だよ! 声も少しづつ出るようになってきたし、寝たら昨日のことも記憶から消し飛んだ! 今も文化祭で展示する小説の作成中です!(^^)! ただ、今日は念のため病院の方に行ってこようと思います。気持ち的には大丈夫なんだけど、両親が心配みたいで(-_-;) 今日会えないのは残念だけど、明日は絶対学校に行くね!



 返信を一通り読み終えたあたりで、結葉から「ごめんね!」と謝る猫のスタンプが送られてきた。



 了解! 私なら大丈夫。むしろ、私のことに結葉を巻き込んでばかりでごめんね。それに、助けられてるのはお互い様だよ。

 何かあったら話してね。私でよければ、いつでも相談に乗るから。それと、私も小説を完成させられるように頑張るよ(*^^)v とりあえず、今はお大事にね!



 メッセージを送信し、愛は黒色に染まった空を仰いだ。

 時々、私は結葉のことを不憫ふびんに思うときがある。結葉の優しさは、空になった花瓶に水を注いでくれる。給水を経て植物は再び成長の兆しを見せ、細々と伸びた茎はさらなる成長を遂げる。書店で迷子になった子供を見つけた時も、進路に悩む友人の相談を受けている時も、結葉はいつだって誰かの花瓶へ水を注いでいた。その人が、美しい花を咲かすことを願って。

 けれど、結葉自身にはたった一滴の水すら与えられない。優しさが、必ず優しさで返ってくるとは限らない。はたから見れば何も問題なく見えるこのメッセージにも、私には学校生活に疲れた結葉の苦しみがつづられているように見える。結葉の心境を想像し、愛はスクールバッグの取っ手を強く握りしめた。

 私は、無力だ。結葉が善意で誰かを助けることを望むというのなら、私も同じように結葉を助ける存在になればいい。お互いに助け合えるのなら、そこに溝は生まれないはずだ。けれど、私には忌々しい過去がある。私が結葉に近づけば近づくほど、関係はどんどん悪化していく。だから、私にできることなんてない。私に出来ることなんて……これしかないんだ。木ノ坂駅のバス停で一人、愛はやるせない無力感を痛感していた。

 ふと、頭に冷たい感覚が走る。どうやら、雨が降り始めたようだ。我に返り、愛は膠着こうちゃくした体を再び稼働させた。背後では次のバス到着のアナウンスが流れ始めている。

 色々考えているうちに、私のバスに乗っていた学生たちはみな高校の方へと消えていったようだ。もうじき、雨の勢いも強くなることだろう。一刻も早く、準備を整えなければ。

 弱々しく降り注ぐ雨は、次第にその勢いを増していく。愛は折り畳み傘を開き、頭上に天蓋てんがいを設けた。ポツポツと傘が雨を弾き飛ばす音が聞こえる。

 正門をくぐり抜け、校舎の中へと足を踏み入れる。外靴を下駄箱の中にしまい、周りに人がいないことを確認する。バッグから一通の封筒を取り出し、愛はひそやかに隣の下駄箱へと投入した。

 これは、第一段階だ。成功するかどうかは、の気分次第。種が芽吹く保証はない。……大丈夫、きっとうまくいく。今はそう信じるしかない。

 淡い期待を胸に、愛は2階へとつながる階段を上り始めた。廊下の窓を眺めると、先ほどの小雨はけたたましい豪雨へと変貌していた。



エキナセア 花言葉は「あなたの痛みを癒します」

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