サンビタリア

「失礼します。1年3組の花園愛です。部室の鍵を借りに来ました」

「はーい」


 多くの教員が授業の準備やテストの採点へいそしむ中、女性教諭の沢尻恵さわじりめぐみだけが愛の声に反応した。沢尻は愛へ緩やかな笑顔を見せた後、すぐさま目の前のパソコンへと向き直った。

 朝のホームルーム開始まではまだ1時間以上あるが、ほとんどの教師はもうすでに出勤しているようだ。地理の多和たわ先生は1頭身ほどある地球儀を傍らに、今日の授業で渡すであろうプリントを取りまとめている。他方、体育の高崎たかさき先生はカジュアルなジャージ姿で朝食の菓子パンを口に含んでいる。

 愛は回れ右をし、がやがやとした職員室内をひっそりと歩き始めた。窓の外では相変わらず激しい雨が降り続いている。壁掛けのキーホルダーの前に立ち、愛は「文芸部」という文字の書かれたプレート付きの鍵を手に取った。鍵の端に鬱蒼うっそうと生えたさびが少々目立つ。

 高校へ入学する前は、部活に入る気など一切なかった。どこへ行くにも冷たい目を向けられ、何をするにも周りからは無視される。そんな日常が当たり前だった私にとって、順風満帆な高校生活など夢のまた夢だと思っていた。高校でも、きっとそんな中学生のころと同じ時間が続くのだと、そう思い込んでいた。

 けれど、今は少しだけ、学校が楽しい。休み時間には結葉と同じ教室で、作成中の小説についてお互いに語り合うことが出来る。放課後になれば、部室にはだらしなく椅子に腰かけている玉木先輩が待っている。くだらなく、そして新鮮な毎日が、今はただただ愛おしい。

 来た道を引き返し、愛は静かに職員室のドアに手をかけた。


「失礼しました」


 職員室内に一筋の声が通る。けれど、今度は誰も愛の声に反応しなかった。



 職員室を後にし、階段を下りて1階にある文芸部の部室へと向かう。すれ違う生徒の数は段々と増えていき、ところどころに学生の集団が見え始める。嵐の前の静けさを感じる中、愛は一人静かに薄暗い廊下を歩き出した。部室の前に立ち、先ほど借りた鍵を鍵穴に差し込む。ドアを開くと、そこには百花繚乱の景色が広がっていた。得も言えぬ興奮を感じつつも、愛は目の前の机に置かれた一冊のノートを手に取った。


……


わっぱよ。其方そなたはなぜ、わらわの部屋にこうも貧しい食事を毎晩届けるのじゃ」

「それは、わたくしのことを姫様に知っていただきたいからに他なりませぬ」

 

 従者の発言に、六王妃りくおうひはうっすらと笑みを浮かべる。


「ほう、面白い。つまり其方は、妾のことを好いているのだな?」

「……おっしゃる通りでございます」


 都合のいい玩具がんぐを見つけたかの如く、六王妃が金色の目を輝かせる。六王妃は細々く、去れども色鮮やかな腕を伸ばし、従者の頭に優しく手を当てた。


「実に滑稽だ。其方は、妾に何を差し出せるというのだ。金子きんしか? それとも忠誠か?」


 従者の容姿や境遇、そのすべてをあざけるかのように六王妃が高笑いをあげる。


「いえ、差し出せるものは何もございません」


 従者の堂々たる声に、六王妃が怪訝な表情を浮かべる。


「何を言っておるのだ。其方は、妾のことを好いておるのだろう? ならば、妾に見合うだけの対価を支払うのは当然ではないか」


 強圧的な声が寝室に響き渡る。


「姫よ。私は確かに、あなた様のことを好いていると申しました」

「ならば、なぜ何も差し出さぬ」

「ですが、私が好いているのは、あなた様自身ではありません。私は……あなた様の持つ地位と権力を欲しているのです」


 従者の険相けんそうと憎悪に満ちた目が、六王妃の体を貫く。その瞬間、楼桃ろうとうの城下町にて、微小たる闇がその姿を顕現けんげんした。


……


 私は、玉木先輩の作品が好きだ。先輩の書く物語は色鮮やかで、私に新たな刺激を与えてくれる。今まで何とも思わなかった言葉が突然美しく感じたり、当たり前だと思っていたことが、深堀すると意外な真実に辿り着いたり……そんな先輩の作品を好き勝手見れる朝は、まさに至福の時間ともいえる。もっとも、このことは先輩にも結葉にも内緒だが。


「おっはよー、愛さん。って、あれ……? 何してるの?」

「あっ……えっと……な、なんでもありません!」


 頬を赤らめながら、愛は読みかけのノートをさっと後ろに隠した。いつもと違う愛の様子に、優斗はきょとんとした表情を浮かべた。



サンビタリア 花言葉は「私を見つめて」

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