黒いバラ

 放課後の校舎は、騒々しい。どこからともなく聞こえる、吹奏楽部の演奏。練習で互いを呼び合う、サッカー部員の掛け声。そして、昇降口付近でこそこそと陰口を言い合う女子生徒たち。周囲から聞こえる音全てが、愛の焦燥感を駆り立てる。

 やはり、おかしい。別棟のトイレから文芸部の部室へ行くのなら、この道を通るのが一番近いはずだ。なのに、どれだけ進んでも結葉の姿が見つからない。まだ掃除が終わっていないのだろうか。いや、そうだとしても遅すぎる。一体、何があったのだろうか。思考を巡らせるごとに、植えつけられた不安の種が芽を出していく。

 結葉、お願い、無事でいて。私の考えすぎだというのなら、そうであってほしい。何もないならそれでいい、それでいいの。お願いだから、誰も結葉をこれ以上傷つけないで。これ以上、私から何も奪わないで。

 一歩、また一歩踏み出すごとに、愛の足音が無人の廊下で反響する。突き当りを左に曲がり、古めかしい雰囲気の漂う階段を上っていく。踊り場に見える壁の塗装は剥がれ落ち、廃れた木目が顔を覗かせている。

 もう少し、もう少し。何度も空気を吸っては、吐き出す。苦しいはずなのに、なぜだか足取りは軽い。愛は3階へ辿り着き、急いで奥にある女子トイレへと向かい始めた。

 その時だった。


ドシャッ

 

 女子トイレの方から、何かが零れる音がした。それは、蛇口から滴る水とは比べ物にならないほどに、大きな音だった。先ほど芽吹いた不安の種がみるみる根を張り、愛の心を蝕んでいく。

 そんなわけない。ぜんぶ、わたしのわるいそうぞうだ。思考は停滞しながらも、体は無意識に前へと進んでいく。近づけば近づくほど、誰かのうす気味悪い笑い声が聞こえてくる。暗転する景色を目にしながら、愛は女子トイレの入り口へと足を踏み入れた。

 床一面に広がる水が、タイルの溝を徐々に侵食していく。愛が顔をあげると、そこには荒れ果てた花畑が広がっていた。白いライラックはずぶ濡れに汚され、そのそばにはけらけらと笑い声をあげる3本の黒いユリが生えている。ライラックは葉をもぎ取られ、ユリはその葉を養分にみるみる成長をしていく。ユリは愛の方を見た途端、自身を黒から黄色へと変色させ、陽気な態度で声をかけてきた。


「あれ~? 人殺しの愛ちゃんじゃん。こんなところで何をしてるのかなぁ」


 ゆるせない。梨深の声、仕草、その一つ一つに激しい嫌悪感を感じる。


「大切なお友達の結葉ちゃんに、シャワーをかけてあげたんだー。愛ちゃん、間に合わなくて残念だったねー」


 ゆるせない。愛の右手首に、力が入る。


「あー、すっきりした。ほんと目障りだったんだよね、あんたら。自分たちがクラスで浮いてることぐらい、ちゃんと自覚しろよ」


 ゆるせない……! 嘲笑う梨深にめがけて、愛は右拳を振りかざした。


「やめて!」


 突如、恐怖と焦りの入り混じった声が響き渡る。初めて聞く結葉の声に、愛は歯を食いしばりながら殴りかかる拳を止めた。あっけに取られた梨深は足に力が入らなくなり、そのまま水まみれの床に座り込んだ。


「あ、アイちゃん。私なら、大丈夫。だ、大丈夫だよ……」


 小さく震えながら、結葉は愛に向けて精一杯の作り笑いを浮かべた。正気を取り戻した愛は、すぐさま拳をしまい、膝を抱えてずぶ濡れになった結葉のことを抱きしめた。

 

「な、なによ、あんた。今、私のこと、殴ろうとしたの……? ゆ、ゆるせない」

 

 愛が振り返り、梨深とその取り巻きたちを一瞥いちべつする。その眼には、静かなる怒りと憎しみが宿やどっていた。


「ひいっ……。ひ、ひとごろし」


 その言葉を最後に、梨深たちは女子トイレから立ち去っていった。結葉を抱きしめる手を振りほどき、愛は彼女の顔を慎重に眺めた。

 濡れた黒の美しい長髪。瞳の中に映る、淡い白色の光。薄いピンク色の、小さな唇。そして、照れてるときの目をそらす癖。間違いなく結葉だ。


「あ、アイちゃん、ごめんね? 私、なんかいま、声をうまく出せなくて」


 結葉の眼から透明な涙が流れ出る。


「ううん、大丈夫だよ。ごめんね、結葉……。守ってあげれなくて、本当にごめんね……」

「うっ……」


 嗚咽する結葉を、愛はもう一度抱きしめる。冷え切った体に自分の体温を移そうと、必死に彼女を包み込む。その時、愛の内に潜む一輪の蕾が花開いた。



黒いバラ 花言葉は「憎悪」

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