カーネーション

「ねぇ聞いた? 愛ちゃんのお父さんさ、不倫してたらしいよ」

「え、うそ!」

「本当だよ。それで今朝さ、うちのお母さんがとんでもないこと教えてくれたの」

「えっ、なに?」

「愛ちゃんのお父さんさ……その不倫相手のこと、殺したらしいよ」

「えっ!? こわっ……。サイテーじゃんそれ」

「だよね。不倫に人殺しとか、ふつーに笑えない」

「だよね……。信じらんない」

「それでさ、あたしこれから愛ちゃんと関わるのやめようと思う。変に思われるの嫌だし」

「じゃあ、うちもそうしよ~」


 子供は単純だ。自分が傷つかないためなら、平気で他人を切り捨てる。どれだけ仲が良かったとしても、相手が犯罪者の娘だとわかれば態度を一変する。純粋そうに見えて、その中身は残酷だ。


「花園さんとこ愛ちゃん、やっぱり不気味よねぇ。いつも暗い顔しながら一人でブツブツ言ってて、おまけに目つきも悪いったりゃあらしない。やっぱり、健一けんいちさんの血を引いているのね」

「そうねぇ。うちの子にも一応注意しておいたわ。金輪際、愛ちゃんとは関わら無いようにって」

「それがいいと思う。もう、あの家と関わるのはやめましょう。なにせ、殺人一家なんだから」


 大人は陰湿だ。見えないところでひそかに協力関係を結び、悪い噂を広めていく。相手の事情なんてお構いなしに、偏見と憶測のみで物事を語る。たとえ、それが真実とはかけ離れていたとしても。


「お前たち、誰のおかげでここに居られるのかわかっているのか? 全部、俺のおかげだ。俺がいるから、お前たちは生きていられる。なのに、どうしてそんな顔をする。もっと笑え。もっと俺に感謝しろ」


 わかりきっていたことじゃないか。あんな奴が、まともに生きられるはずがないことなんて。なのに、私は止められなかった。父さんが、罪を犯すことを。そのせいで、母さんは……。


「ごめんね、愛。辛い目に合わせてばかりで、本当にごめんね……。ダメなお母さんで、本当にごめんね……」


 違うよ、母さん。悪いのは全部私だ。父さんに歯向かおうとしなかった、私が悪いんだ。だからお願い、泣かないで。涙を拭いて。私のことなんてどうでもいいから、お願い。


『……愛。ちゃんと友達、作るんだよ』



「母さん……」


 涙でにじむ視界が最初にとらえたのは、見慣れた和室の天井だった。辺りはまだ暗く、隣の部屋からはお祖父ちゃんの寝息がうっすらと聞こえる。愛は天井の照明からわずかに漏れ出す光に手をかざし、自分の指を一本ずつ動かした。

 動く、体が動く。思い通りに、指を曲げられる。私は、生きている。

 徐々に朦朧とした意識が覚醒していく。左手を布団の上に置き、愛は目をこすりながらさっきまで自分が見ていた景色を思い出した。

 あれは、母さんだった。たしかに、私は母さんにふれていた。頬から伝わる肌の温もり。私を抱きしめる、木の枝のように細い腕。そして、すぐに壊れてしまいそうな、はかない笑顔。全部、鮮明に覚えてる。愛が見た景色は、夢というにはあまりにも現実味を帯びていた。

 上体を起こし、畳の上に足をつく。靴下を履いていないため、いつもよりも地面が冷たく感じる。おぼつかない足取りで、愛は洗面所へと向かい始めた。

 まるで映画のフィルムのように、次々と流れ出す過去の光景。その中にはかつて友人だった子供とその母親、そして、忌々しい父の姿があった。なぜ、今更あんなものを私に見せるのだろう。せっかく、忘れていたというのに。額に手を置き、愛は小さく唇をかみしめた。

 洗面台に明かりを灯し、蛇口から流れ出る水を顔面にかける。冷たい水が、愛の目覚めをさらに後押しする。鏡を見ると、そこにはぼさぼさ髪になっている自分の姿が映っていた。


「友達……か」

 

 鏡の中の自分に言い聞かせるように、愛は小さく呟いた。

 結葉は、私のことをどう思っているのだろうか。私のせいで、結葉は今辛い目にあっている。だというのに、結葉はいつも私の隣にいてくれる。あの子は、どうして私なんかと一緒にいてくれるのだろう。キュっと、胸のあたりが苦しくなる。

 母さん、私はどうすればいいのかな。どうすれば、あの子は傷つかなくなるのかな。私はあの子を助けたい。けれど、それがかえって結葉を苦しめる結果になるかもしれない。私は、どうすれば……。

 胸に手を置き、ゆっくりと瞼を閉じる。あふれる思いを胸の内に閉じ込め、愛は再び寝室の方へ歩き始めた。

 


カーネーション 花言葉は「母への愛」

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