血の逢瀬 4

 目が覚めたとき、白木の天井が見えた。未命はしばらく、そのまま固まっていた。雀の声が外から聞こえくる。


 身体中が痛みに疼き、ひたすら重たかった。――人の気配がして横を見ると、縫衣が壁に背をもたれ、片膝を立てて座っていた。朝日の中で暗緑色に身を包み、静かな視線を向けてきて、


「おかえり」


 そう云って、縫衣は少し笑った。


「――どう、なったの」


 未命が尋ねると、縫衣はふう、とため息をついて、


「おじさんとわたしは、あなたたちを追っていった。――凄まじい音がして。そこで、森の一画が、荒れていてさ。――すぐに、鳳嵐鈴の力だと、わかった」


 その言葉に、未命はあの、黒い竜巻の情景を思い出す。まるで、悪夢のような記憶。――けれど、どうやら夢ではないらしい。


「理久は?」

「――うん、理久さんも、生きている」

「どこ?」

「え? 守護の、宿舎じゃないかな」


 未命は手を張って、上体を起こした。


「無理しないで」と云う縫衣へ、

「昨日のわたしに云ってよ」



 未命は部屋にあった、真新しい巫女装束に着替える。自身の体を見下ろすと、薬膏が塗られ、包帯が巻かれていた。


 両胸の銀刺繍――白花紋をまとうと、いくらか気持ちがしゃんとしてきた。


「やはり似合うね、それが」


 縫衣はそう云うと、手を口元に当ててあくびを噛み殺した。



 草履を履いて外に出ると、いつもと変わらぬ朝の情景。巫女たちが箒を動かし、守護が白木の柱のように立ち、青空に雲が流れる。


 涼やかな朝風の中を、守護ノ宮へと進む。


「天に長神、地に白花のありますよう」

「あなたさまに、白花の浄めを」


 通りがかる巫女と挨拶を交わす。未命は誰に憚ることなく、返礼する。


「あなたさまにも、白花の浄めを」


 ――ついに守護ノ宮にやってきた。宿舎の入り口の前で、ちょうど外に出てきた守護に声をかけた。


「あの、すみません」


 白木の兜の奥には、熊の如き髭面。――たしか、護杜ごとだ。それに気づいて、未命ははっと口を閉ざした。護杜こそが、『見られた相手』だった。


 極限まで渇いた未命が、ついに猫の血を飲んだあの夜。――思えばあれから、幾夜重ねたことだろう。いや、十も数えぬかも知れない。


 護杜は目を広げて、「うおッ」と身構えた。


「お、お前……。血の……。いや、あのよ。――あんときゃ、悪かったな。騒いじまって……」


 目を泳がせて云う護杜に、未命はとっさに俯いて、


「い、いえ。――わたしこそ、あのようなことをしでかして……。あれは、わたしが、悪いのです」

「いや――と、とにかく。理久、だな。呼んでくらァ」

「あの、眠っていたら、結構ですので」

「構わねえ。夢から引っ剥がしてきてやらァよ」


 くすりと、未命は口元に手を当てて笑い、


「そ、それでは……。申し訳もありません。お忙しい中……」

「ああ、いいぜどうせ、今日は門番だからよ、暑くってかったりいしなァ」



 宿舎の正面には、白ノ宮を囲う内壁が続いていた。そんな中で未命は、裏手の牢場の地下にいるであろう、緋奈のことを思う。


(ねえ、緋奈。――あなたを、必ず出してもらうからね。大巫女様か、守護の長官か、副長官に頼んで)


 暗闇の中で、涙を呑み込んで体を震わせた、あの緋奈の翳った顔を忘れられない。闇の中から、じっと見上げてくる……。



 やがて、脇から声がした。


「未命……」


 見ると、紺色の着物姿の理久がいた。目元にはくまがこびりつき、肌には血のしみや、生々しい傷痕が見えた。包帯が巻かれ、額や頬には薬草が貼られている。


 未命はそんな姿を見つめ、歩み寄った。


「理久」


 そう口にすると、理久は目を細めた。何かを云いかけるのだが、唇を噛み締めて、ただ腕を伸ばしてきた。


 腰が――体が引き寄せられる。汗と血と、薬草のつんとした匂い。紺色の襟をたどって見上げると、理久の顔があった。やはり唇は細かく震えるだけで、何も語られなかった。


 ただ、憔悴しきった、しかし切実な理久の眼差しが、ずっと注がれてきた。



「おいおい、昼間っから、何やってんだ、この天下の神域でよォ」


 そこには護杜が立っていた。理久は振り返ると、「ああ……」そう云って頬を赤らめた。



 ――そのとき、上空で音がした。


 がさり、と風を切る音。長大な焦茶色の影が青空に舞っていた。


「ケェェェェェ! 姫様ァァ……!」


 未命は思わず「え、刹……」と呟くと、理久の手をほどいた。


「ごめん……。ちょっと」



 白ノ宮はにわかに、ざわめきだった。


「何事だ!」「瘴魔だぞ」「出会え出会えい!」


 未命は正門へと向かいながら、


「すみません。あれは、わたしの……友達なのです。お待ちを! わたしが、応じます……」


 そのまま門番を横切って、敷地の外に飛び出す。




 ◇



 理久は走り去る未命の背中を見ていた。ついで、羽ばたきの音を鳴らして降りてくる、怪鳥――刹の姿を見ながら、昨夜の悪夢を思う。


(何という……。何という、夜だったんだろう……)


 怪異どもとの戦い。禅治の追跡。黒い竜巻……。あらゆるものが理外の、信じられぬ体験だった。



(いや、それでも今、新たな朝日の中で、白ノ宮にいる。――それこそが一番、信じられない)


 血を失いすぎ、めまいと動悸がずっと止まらない。その余韻が、昨夜と今朝を繋げてくれていた。


(そうだ。全て、現実なんだ。全て……。如何に信じられぬことだしても。――かの長神の、敷布の裏地に織り込まれた……)



 地面には、うっすらと己の影が、何も云わずに張り付いていた。――脳裏には昨夜の、立ちはだかる影の青年がいた。刀を振り降ろす、あの影。翻って、咆哮と共に横凪ぎにした、あの感触。


 己の右手をぼんやりと眺めて、


(いや……。影などを……斬れたのだろうか。わからない。ただ)


 もう一度顔を上げて、未命が走り去った方を見る。仄かな白花の香りが、風に乗って漂ってきた。


「いや、だからこそ。俺は、未命を守るために……」


 背後からの足音に、理久は振り返る。そこに、黒い着流しの男――蓮二がやってきた。


「てっきり、寝込んでるかと思ったぜ」

「これは、蓮二、殿……」


 蓮二は肩を揺り、境内を我が庭のようにすたすたと、左手を懐手にして近づいてくる。左腰にはやはり、不気味すぎる大太刀。


「なかなか、コトだったな、昨日はよォ」

「ええ」


 理久は思わず背筋をこわばらせ、


「教えて、ください。蓮二殿。――俺は。どうすれば――――どうすれば、もっと強く、なれるのか」


 蓮二はにやりと片頬で嗤うと、


「けッ。強くなんて、なれねえよ。益体やくたいもねェ」


 そうして前を通りすぎてから、背中で云う。


「それより、今夜にでも一杯、付き合えや。――二級の、ましな酒が手に入りそうでよォ」

「――え」


 すると蓮二は右手を挙げてから、ざりざりと石畳を踏んで去っていった。


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