夜を越えて 10
西の空に夕陽が染みはじめた。
森を抜けて、隠れ家のある岩場が見えてきたあたりで縫衣は云った。
「この隠れ家の周囲は、岩盤に覆われているからさ、少しは安心なんだ」
「岩盤?」
「そう。かずらも、近づいてきづらい」
未命はその言葉に、あたりを見回す。確かに岩張った地面が広がっている。
「岩盤で安全……。なの?」
「そう。たぶんね」
縫衣は岩棚の下に見える扉に近づく。行李を降ろし、中から『木鍵』を取り出す。ごとり、と扉を開ける。
どこか懐かしい、薬草や薪の匂いがした。奥をゆく縫衣は云った。
「帰ってきたね」
「ええ……。なんだか、自分の家みたい」
「家、か。そうね。家って、そういう感じなのかもね」
「え? 縫衣さん。家はないの」
すると縫衣は立ち止まり、
「十五か十六のとき、家がなくなって以来かなあ……」
「ごめんなさい。なんだか、変なこと聞いて」
「いいよ。わたしには、宿が合ってるから。街の宿、隠れ家、夜の森……。そんな暮らしがさ」
そのとき、外から妙な音がした。――風を切るような大きな音が。ついで、老人らしき声。
「おかしいぞ! おかしいぞォォ! ケェェェェ!」
未命はあまりに思いがけぬ声に、びくりと震えた。
「え、何この声……」
「ちょっと待っていて。出てきちゃだめだよ……」
そう云って縫衣は再び外へゆく。外から鳥の羽音が響いてくる。隠れ家への通路にまではっきり聞こえる。――いったいどれほど大きな鳥なのか。
未命は通路を戻り、扉の陰から外を覗き込んだ。すると、異様な生き物が地上に降りてこようとしていた。
恐るべき大鷲に老人の頭をつけたような怪鳥、とでも云うべきか。
そいつは、がさり、がさり、と翼を動かして、太陽を遮る影となって旋回しながら、隠れ家の近くに降りてきた。
巨大な頭――その頭部はまさに老人だった。それも、皺深い額にぎょろついた目を光らせた、因業な相貌。
「ケェェェ! 縫衣ィ、おかしいぞォ!」
と、しわがれた声を上げ、やがてどさり、と岩場に降りた。そこにはやはり、縫衣が立っていた。
未命は絶句して、その光景を見ていた。
(なに? 何なのあれは……! 瘴魔……。いえ、違う。――だったらなに?)
やがてまた、こんな声が聞こえた。
「
そうして怪鳥は翼を動かして、妙な哭き声を続けた。ちらりと怪鳥が首を振り向けてきたとき、とっさに未命は引っ込んだ。
(何だろう、あれは……。見たことも、聞いたこともない。あんな化け物……)
縫衣の声に、また未命は顔を出した。
「
「違うゥゥ! 姫様がおるのだァ……!」
「そっか……。でもさ、いまは、堪えて。まだなんだ」
「なぜにィ! 儂は姫様を長う待ったぞォ。この一番の家来に、なぜ隠すゥ! 許さぬぞォ」
「ごめん。もう少し……。ね、これをあげるからさ」
すると縫衣は懐に手を入れ、白い小袋を右手に取った。小袋を左手に傾けると、
「ほら、旺鹿で買ってきた干菓子――
そう云って、その左手を怪鳥の口元に運ぶ。
「それはそれで、もらおうぞォォ!」
怪鳥は興奮した様子で翼をばたつかせた。大口を開けると、黄ばんだギザギザした歯並びの中に、赤黒い口腔が見えた。棒状の灰色の舌も見えた。
縫衣はそこに、手の中のものを放った。
怪鳥は目を細め、涎を垂らしながら顔を上に向け、口を動かす。
「よい……。よいぞォォ! 丁寧な仕事ぶり……。舌触りもよくゥ、甘いィィ……。グフゥ。――ゲッゲッゲッ」
そのときまた、怪鳥と目が合いそうになり、未命は顔を引っ込めた。そこで暗がりを見つめながら思案する。
(なによあれ……。ああ、長神よ。――天より穢れを焼く火津真ノ神よ! 浄めたまえ。恐るべき魔性を……)
それからしばらく、縫衣が何か喋っているのはわかった。――やがて怪鳥は翼を動かして、また空へ飛んでいった。そのときは、こんなことを喚いていた。
「見ておるぞォ、縫衣!
口惜しそうに云うと、やがて怪鳥は青空の黒点となった。縫衣は怪鳥を見送ると、隠れ家まで戻ってきた。
「ごめん、驚かせたかな」
「え? うん……。それはそうだよ。なんなのあれ!」
「あれは、
「刹?」
「そう。友達でさ」
「なにか、姫様って……」
すると、縫衣は口を結んで、小さく頷いた。
「――――そう。刹は、ずっと
縫衣は未命の前を横切り、隠れ家への通路に体を入れた。
――未命は巨大な炎を眺めていた。
真っ暗闇の中に、見渡す限りの炎が眼前に広がっているのだ。その炎は、真っ赤に燃える球形を描いているかもしれない。――ただ大きすぎて、正しく理解することができない。
傍には、人影。
人影の眼が蒼く輝き、見つめてくる。人影は甚大な炎の前に立って、ゆるり、歩いてくる。
薄い唇が動き、喉が動く。声が…………
「――ねえ、そろそろ起きて、朝だよ」
未命が目を開けると、縫衣の顔があった「え……」と周りを見回すと、やはりそこは隠れ家だった。
「夢……?」
「そうみたいね。うなされてたから」
縫衣は心配そうに覗き込んでくる。
部屋の隅に行燈と篝火が灯っていた。入り口の方から朝の光が差し込み、風が流れてくる。チチチ、と鳥の声がする。
「なにか、夢を見てたの。大きな炎……。それから、蒼い眼……」
すると縫衣は体を起こして、
「少しずつ、わかってくる。近づいているよ……。未命さん。焦らないで」
「縫衣さん……」
「さあ、朝餉にしよう。粥と山菜で。塩はあるかなあ」
と、縫衣は棚に向かって壺を覗き込む。未命はその背中に、
「う、ん……。わかったよ。でもさ、食べたらどうするの? どうすればいいの? ――ごめんなさい。聞いてばかりで。でも……」
棚に向かっていた縫衣は手を止めて、振り返ってきた。
「それなんだけど。――白ノ宮に行こうかと思う」
「なんで? どうしてまた……」
「うん。あの
「でもわたし、追われてるんだけど……。無理だよ!」
「大丈夫、あなたは銀狼衆の、
第二章 夜を越えて おわり
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