きみが望むなら 2

 守護ノ宮の大広間の板敷に座り、理久は木の膳を置いた。


 この大広間は、日常の食事をはじめ、宴会だの昼寝だの上官の説教だの談話だの、あらゆる場面で使われていた。――半ば守護たちの生活の中心めいた場所。


 夜番明けの昼飯は、茶碗の玄米に、すまし汁、味噌と大根の漬物。瞬く間に平らげると、冷めた番茶を茶瓶から茶碗に注ぎ飲み干した。




 外に出ると石畳を挟んで目の前に、白木の壁が見える。――白ノ宮をぐるりと取り囲む、長大な壁の連なりが、左右にどこまでも続いていた。


 そこにちょうど、理久の目の前を横切るように、二人の巫女がやってきた。理久は息を呑んで、奥側を歩く一人の横顔をまじまじと見る。


(あの顔……あの巫女は……。昨日の、夜の巫女だ)


 横顔は日の光に白く光りたち、黒髪とそれを縛る銀糸の水引きに映えた。


 手前の巫女よりはいくらか背が高い。大きな二重の暗い瞳。――俯きかげんに前方をぼんやりと見て、まるでいつもそうするように、吸い込まれるように歩んでいる。桃色の口元はきつく結ばれ、眉に力がこもっている。


 柔らかな胸の曲線を、白い小袖が隠している。襟の首元には朱の掛け襟が覗く。そこからすらりと、真白な小首が伸びて、仔猫じみた小さな顎に続いている。


 理久は陶然とした心地で、その巫女が横切るのを観ていた。


(昨夜の、と、同じ巫女なのか? ――おお、夜風の神よ。夜渡吒ノ神やわたのかみよ! あの悪夢のような出来事が、あなたの幻術か呪いでなければ、いったい何なのだ。こんな、美しい巫女が、鼠の血など……)


 心の中で叫びながら、理久は幻でも捕まえるように右手を上げた。


「ま、待て……」


 と思わず口走ると、巫女たちは足を止めた。手前の巫女の方が振り向いて、


「は、はい。どうされました、守護殿……」


 その巫女は丸顔をしており、幾らか幼く見えた。緊張しているのか、顔を赤らめていた。


「いや、すまない」と理久が答えると、巫女はつと、一歩近づいてきた。


「わ、わたしは、四位巫女の、緋奈ひなと申します。何かご用でしょうか……」


 理久は奥にいる巫女の横顔をちらと観ながら、


「いや。何でもない。――いや、用があるのは、そっちの……」

未命みめいに、でしょうか?」


 理久はその名を心に刻みながら、顔は平静に、


「ああ。そうだ。未命に」


 すると、奥側の未命と名状された巫女は、ちらりと視線を向けてきた。その一瞥に、理久は心臓を跳ねさせた。


 しかし未命は再び前を向いて歩き出した。


「別のご用がありますので」と、云い残して。



 理久を焚き付けたのは、武勇の神たる烈賀王れつがおうか。いや、火と情熱の神たる火津真ノ神ほつまのかみか。――正味、理久は小走りに駆け出して、未命を追った。


「話がある。未命……っていうのか。未命、話が……」


 背中に呼びかけると、未命は足を止めた。緋奈が「何事でしょうか」と云うのだが、


「きみは先に行っていてくれ。俺は、未命に話があるんだ」


 すると緋奈は顔を引きつらせ、「あい……。わかりました……。それでは」と去っていった。



「お願いだ。話をしてくれ。――未命。きみは昨日の夜…………」


 理久は前方に回り込む。すると未命の、伏せたまつ毛が見えた。


(やはり。間違いないはずだ。……この巫女が)


 そう思いながら、理久は顔を近づけ、潜めた声で云った。


「わかるな。俺はまだ、報告していない。昨日の夜のこと。――俺にはこの白ノ宮を、守るべき責務があるんだ」


 すると、ぴくりとまつ毛が震えた。不思議な、甘い息の匂いがした。未命は上目遣いの鋭い目で見上げてきた。目には敵意と警戒の色が見て取れた。


「説明してくれ。――それができないなら、上に報告させてもらう。それで構わないんだね」


 理久は一種の賭けとして、後ろに退がった。もう興味など失せた、と云わんばりに。



「待って…………」


 と、小さな声が聞こえた。理久の胸がちくりと、針に刺されたように痛んだ。


 黒く輝く瞳を切実に濁らせて、未命が近づいてきた。白い小袖と黒髪が揺れ、銀糸が光る。


「お願いっ。云わないで……」


 理久は心臓を高鳴らせつつも冷静な口調を装って、


「そうか。それなら、聞かせてもらおう」

「え、ここで……?」


 と、未命はそぞろ、周りを見回す。そこで理久は、


「憚るのか。だったら、こうしよう。――守護ノ宮の正面に、抜け穴がある」


 そうして理久がちらりと視線を向けるのは、まさに守護ノ宮の南側にそびえる、白ノ宮の防壁。その一隅に井戸場があり、壁際に水桶が積まれていた。


「あの、水桶のところ。あそこの水桶をどかすと、麻布で蓋がされているけど。穴が開いているんだ」

「え……。穴が?」

「そうだ。それに、きみくらいなら簡単にくぐって、外に抜け出せる。そしてその先に、小屋がある。――使われていない、猟師小屋みたいなのが。そこで話をしよう。ね? 今夜の最後の刻が、あの太鼓で告げられたら、落ち合おう。いいね?」


 未命はいまだ警戒の眼差しを解かぬままだ。理久は続ける。


「もし、誰かに見つかったら……。夜風に涼みにきました。とでも云えばいい。きみは知らないだろうが。――守護と夜に逢引きする巫女など、さほど珍しくは、ない」


 一段と、未命の眼差しがきつくなったように見えた。ともすれば、昨夜の蒼い魔性じみた輝きが蘇るのではと、思わせるほどに。


「勘違いするな。きみと、白ノ宮のために、確認すべきことを問うだけだ。それにさ、云い憚るのは、きみの方だ。――そうだろう? 後ろめたいことがなければ、一緒に守護長官のところに行って、説明してくれればいい。――違うかい?」

「いやだ。それは……」

「だったら」


 最後に未命は水桶の方を見て、重く首を頷かせた。


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