白花ノ幽姫 -甘し血の逢瀬-

浅里絋太

第一章 きみが望むなら

きみが望むなら 1

 火の粉を飛ばす松明を左手に、白木の鎧をまとった、黒髪の若い兵が順路を進む。


 暗い星空を見れば、上弦の月に雲がかかる。


 若い兵――理久りくはまだ慣れぬ境内の見廻りに、辟易としていた。


 白ノ宮しろのみや――と云えば白木の建築が立ち並ぶ神域だが、夜ともなれば現実離れした異界に等しい。


 木の匂いに紛れ湿った夜気が漂う。それに、初夏だというのに妙に肌寒い。


 松明の火に照る、不気味な白壁の迷路を進んでゆくと、やがてある建物の近くまできた。


 ――そこに見えたのは、小さな白い背中だった。


 建物の入り口の方に松明がかかり、灯りが届いてはいるのだが、その姿は白い影としか見えない。


 理久は息を呑んで足を止め、目を見張る。


 よく見ると白い背中は、巫女のようだ。――寝巻きの白い着物に、髪を背中に垂らしている。



 ききっ……



 と微かな声。鼠かなにかのような。


 巫女――その少女は理久に背を向けたまま、気付かぬように、肩を震わせていた。



 ききいっ……



 いささか苦しげな、鋭い声。はあはあ、と少女の息遣いが聞こえる。



 理久は心臓の鼓動を感じながら、思わず足をよろめかせる。――そこで小石を踏んだらしく、きしり、と音を立てた。


 すると、少女の肩が跳ねるように動いた。


「あ……」


 と小さな声。理久は仕事柄、松明を突き出して、恐る恐る近づいていった。抑えた声で、


「な、何をしているんだ……。お前は」


 少女は立ち上がると、気まずそうに俯いた。


「ち、違う……。これはっ……」


 少女の視線は、ちらちらと、背後の翳に向けられていた。理久はさらに近づいて、その翳を火で照らした。


 果たしてそこに見えたのは、鼠だった。灰色の大きな鼠は、前脚を揃えて横たわり、ぴくぴくと震えていた。


 口から血を流し、ぐったりとしていた。理久は振り向いて少女を見た。――すると、少女の手に血がついていた。白い寝巻きの袖にも。


 おまけに、少女の唇にも血が滴っていた。「おい、お前、いったい……」と、理久はまじまじと少女の目を覗くと、少女の目の底から蒼い光が、灯るように見えた。


 ぞくり、と寒くなるものがあって、理久はたじろいで、後ろに退がった。少女の寝巻きの両胸には、花の紋様――白花紋の銀刺繍が見えた。



 少女は寝所の方へと急に駆け出した。


「ま、待てよ!」


 と呼びかけるときには、少女はもう闇の中に消えていた。


(何なんだ、あれは。幽霊だのじゃなさそうだけど……。なぜ、鼠を。――喰ってたのか? いや……血?)




 正午を伝える太鼓の音で、理久は目覚めた。夜番やばん明けの頭と体が、重く感じる。


 広い寝所には、まだ五人ほどが横たわっている。天窓からは細い光が漏れてきて、漂う埃をきらきらと照らしている。


(なかなか、慣れないな。――夜番ってのは)


 眠っていたのは、いつもと同じ守護ノ宮しゅごのみやであり、いわば、馬稚国まちこくから派遣されてきた兵たちの宿舎だ。


 周辺国一帯を畏怖と呪力によって実質的に支配する、この巫女たちの城たる白ノ宮しろのみやは、中央の本宮と、七つの外宮げぐうからなる。いずれも見事な白木造りで、街道から峠を下ってくるときには、森に咲く大輪の白花しろはなを思わせるものだ。


 理久は寝具――麻の敷布と麻袋を見下ろしながら、未だ眠たげな頭にこびりつく、少女の白い影を意識する。夢の中にも出てきたかも知れない。――いや、ともすれば昨日の夜全体が、悪夢の出来事のようだ。


 のっそりと立ち上がり、腹を掻きながら外へと向かう。井戸で口や顔を浄めに行こうと思ったのだ。



 ちょうど別の髭面と目が合った。


「おう、理久。早えな」とは髭面の中年――護杜ごとだ。皆と同じ茶色の麻衣あさぎぬ姿。

「ああ。でも、別に早くないよ。昼の太鼓が鳴ったし」

「そうか? それより俺は、腹の虫が鳴く方が気になるけどよお」


 すると見事に、情けない音で護杜の腹が鳴いた。


「さっさと水場で浄めて、食堂に行こう」


 と、理久は未だ夢の中にいる仲間の体をまたいで、光の射す出口へ向かった。



 雑巾じみた麻の寝巻きで躍り出るには、いささか場違いな気さえした。――草履をつっかけて守護ノ宮を出ると、巫女たちが石畳を掃き浄めていた。いずれも緋袴に白い小袖。両胸には白花紋の銀刺繍。


 白花紋といえば、白ノ宮の象徴とも呼べる紋様で、それこそ白花という、森に咲く万年花をかたどったもの。八つの花弁が張り出した、曲線の膨らみも優雅な意匠であり、それが服や建物など、至るところに見えた。



 正門から境内に入ってきた巫女は、外の森の吉方から摘んだであろう白花を、朱い高杯に載せて端然と歩いている。


 洗い物を抱える者や、壺を抱えて運ぶ者もいた。それらに紛れて、白木の鎧に鉾を掲げた守護が門を守っていた。



「天に長神、地に白花のありますよう」


 と、近くの若い巫女が竹箒をざ、ざ、と動かしながら、緊張した面持ちで云った。


 理久は「白花の浄めを」と返すと、巫女はまた視線を落とし、石畳を掃きはじめた。


 ほのかに白花の、甘く爽やかな匂いがした。水場は守護ノ宮の傍にあり、護杜と並んでそこに向かった。



 石畳を歩いていると、向こうから黒い姿なりの男がやってきた。――擦り切れそうな黒い着流しに、左腰に太刀を提げ、左手を懐手にして大儀そうに歩いてくる。


 消炭色の蓬髪に、目は大きくも鋭い。数知れぬ顔の傷に似合わず、あくびを噛み殺して緩い表情で近づいてくる。


 たしか男の名は、蓮二れんじ。よくわからぬ浪人者だが、なぜか守護の兵や巫女たちからの信頼が篤い。


「おゥ、小僧は見ねえな」


 と、蓮二は横目に云った。理久はびくりとしながら、「は、はい。先月、回されてきたばかりで」


「そうかよ。せいぜい励めよ。――俺ァ、ちと汗を流してくらァ」


 そうして蓮二は右手をひょいと挙げて、石畳を正門の方へ向かった。――おそらく外にある修練場にゆくのだろう。そこで守護たちに、暇つぶしに稽古をつけているという噂だ。


「蓮二殿は、相変わらずだぜ」と護杜はため息まじりだ。「でもよ、お前も強くなりてえなら、稽古のひとつでも、つけてもらえよ」


 それを聞いた理久は、首を傾げた。


「いいや。俺はいいよ。――これでも、天清流てんせいりゅうを習った身だからさ。妙な剣術は、乱れになる」

「そうかよ」


 と護杜は水場に歩いていった。


 理久が昨夜の少女を見つけたのは、間もなくのことだった。


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