隣に座っていた女

 玄関の前を車が通る音がする。おそらく夫だろう。無意識のうちにため息が漏れている。テレビの電源を消す。再生していた音楽も消した。ラップをかけていた料理を手に取りレンジに入れる。お風呂をしっかり貯めているか確認する。全て完璧だった。しかし、それでもまだ不安が残る。黒板に爪を立てた音を聞いた日のように常に自分の居場所に恐怖と違和感を感じる。

 扉の開く音がする。心の準備はしていたが、それでも心臓は嫌な予感に飛び上がる。玄関まで歩いて行くと、廊下が私を応援するようにパタパタとスリッパの音を反響させる。

「お帰りなさい」

「飯は」

「あります。お風呂も沸かしてあります」

「ちげえよ、飯は食って来たからいらねえって言ってんだ」

「すみません」

 帰りが遅かったから、だいたい予想はついていたものの、私に拒否権は存在しない。

「風呂入ってくる」

「はい」

 彼がお風呂に入っている隙に、私はある紙を取り出した。離婚届だ。きらきら輝いている。すでに片方、ハンコが押されている。私にとっては、それだけで大きな進歩だ。その髪一枚が私にとっても切り札でもあり、同時に私の心を切り裂いてもくる。彼が帰ってくる時と同じく、彼がいなくなった後の自分が、分からない。輪郭が掴めない。

 私は、自分の力だけで生活ができるのか。だが、今のままでは彼の奴隷のような生活を死ぬまで送ることになる。それでもやはり不安が渦巻く。


 いつも通りのバスに乗っていたと思ったら、知らないバスに乗っていた。体が熱くなる。嫌な過去と未来が頭を巡る。吐き気が脳を襲う。

 いや、落ち着こう。ここは一度ネットでこのバスの行き先を調べるべきだ。慌てていい結果につながったことは、大人になってからほとんどない。それでも心が掬い上げられるような居心地の悪さを感じる。もし、彼が帰って来た時に全てのことが完了されていなかったら。ますます怖くなる。

 バスの扉が開き、何人かがバスに乗る。一人の男が私の隣に座った。見慣れない窓の景色だ。落ち着くために、深呼吸をし、イヤホンを取り出し、適当に音楽を流す。だんだんその異常な不安感は通常時の不安感ほどになり始めた。

 調べたところ、一応家の近くにバス停はあるらしい。だが、時間が心配だ。意味もないのに、スマートフォンの時計表示を何度も見てしまう。

 またバスの扉が開き、外の風が入ってくる。隣に座っていた男が立ち上がり、バスを降りた。その時、曲が終わり次の曲に変わった。聞いたことがない音だった。どうやら、おすすめ再生に移っていたらしい。「etc...」と言うバンドの新曲のようだ。案外それは、悪い心地ではなかった。むしろ、新鮮さと期待で胸が躍った。

 その曲を来ていると、不思議と心が落ち着いた。むしろ何か、自分を応援してくれているようで、勇気が湧いた。小さい頃、プリキュアに憧れていたことを思い出した。



「あの、すみません」

 返事をせず彼はこちらを睨む。ここで怯んではいけない。私の頭の中では、あの曲が流れていた。

「少し、話したいことがあって」

 いつもの無愛想で不機嫌そうな顔ではあるが、その中に数リットルの怒りが見える。いつもより苛立っているようだが、今の私には関係がない。今日で夫、島谷雄一とはお別れだ。でも不思議と、卒業式のような寂しさがない。

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