第47話 失ったもの

 魔神の居城。その最深部が、ゆっくりと、しかし確実に崩れ始めていた。


 轟音。天井から石が降り注ぎ、壁にひびが走る。裂けた床の隙間からは、マグマが荒々しく吹き上がっている。


「魔神は封印できました。けれど、新たな問題が残りましたね」


 フクロウの姿をした精霊コタが、鋭い瞳で前を見つめる。その視線の先では、ルークが片膝をつき、肩で息をしていた。


 ルークの全身からは、黒い瘴気があふれ出している。地面に触れるたび、瘴気は火花のように揺らめき、周囲の空気を濁らせていった。


「魔神の置き土産は呪いですか」


 低く響くコタの声に、ルークは唇を噛んだ。


「私は大丈夫だ。それよりランパが」


 傍らに横たわるランパの体からも、同じ瘴気が噴き上がっていた。小さな身体が震え、苦しげな呼吸が漏れる。その声はかすかで、今にも消えそうだった。


「厄介ですね。契約者だけでなく、契約した精霊にまで及ぶ呪いとは」


 コタは静かに翼を広げた。凍てつく冷気が広間に広がり、荒れ狂うマグマを一瞬で固めていく。


「助ける方法は、ひとつだけです。ルーク、あなたもわかっているはず」


「――契約の破棄か」


 ルークの声は震えていた。


「そんなことをしたらチビくんの記憶が!」


 狼の姿をした精霊レブンが、降り注ぐ瓦礫を砕きながら叫ぶ。その瞳には、焦りと怒りと、どうしようもない悲しみがにじんでいた。


「ええ。契約を破棄すれば、契約者との記憶はすべて失われます。ランパは助かる。けれど、あなたたちの思い出は、跡形もなく消えてしまう」


「そう、か」


 ルークは歯を食いしばり、拳を震わせた。崩れる天井の轟音が遠ざかり、ただ自分の鼓動だけが耳に響く。


「私は、ランパを死なせたくない――だが」


 その瞬間、ルークの剣と鎧から、四色の光が奔った。崩れゆく闇を切り裂き、広間を照らす神々しい輝き。


「――四大!」


 コタとレブンが目を見開く。


「樹の精霊の記憶は、私たちが預かりましょう」

 

「な、永き時の果てまで、決して忘れずに守り続けますっ!」


「だから、安心するんだなぁ」


「さぁ、はやく!」


 光に包まれたランパの体が、ゆっくりと安らいでいく。苦しげだった呼吸が和らぎ、幼い顔に静かな影が落ちた。


 ルークは彼を抱きしめた。震える声で、しかし優しく囁く。


「一旦、さよならだな」


「――オイラ、助けられてばっかだな」


「そうだな。うん、もし次に会えるときが来たら、今度はきみが私を助けてくれ」


 ルークはランパをそっと床に下ろす。両腕を大きく広げ、空間に響き渡る声で叫んだ。


「ランパとの契約を、破棄する!」


 まばゆい閃光が走り、ランパの体は木の枝へと変わっていく。

 

 その小さな枝は静かに光を宿し、ルークの両手の中に残された。


「ランパ――」


 ルークの仮面の下から涙が溢れる。


「うおおおおっ!」


 咆哮が、崩壊の音をかき消した。


 ☆


「うああああっ! ランパ、ランパ!」


 自分の叫び声で、勇斗は飛び起きた。


 しばらく、何も聞こえなかった。

 

 左耳の奥で血の音が響き、そのあとに、静寂が訪れる。


「今のは、夢?」


 勇斗は汗ばんだ額を押さえ、視線を彷徨わせた。木の壁、古びた机、積まれた本。見慣れぬ部屋だった。窓からは白い光が差している。


「おや、目が覚めましたか」


 静かな声。

 

 本を閉じ、椅子から立ち上がったのは、長い銀髪の男、トゥーレだった。


「トゥーレさん? ここは? 僕――」


「ウルパの町にある、私の家です」


「どうして、僕は」


「覚えてないのも仕方ありませんか。あなたは瀕死の状態で雪と瓦礫に埋もれていました。たまたま私がウルパに戻っていなかったら、あなたはこの世にはいなかったでしょう」


 勇斗は絶句した。


「ユートくん、今、自分の身体がどうなっているか、わかりますか?」


 トゥーレの問いに、勇斗はおそるおそる上体を起こした。

 

 違和感。重く、どこか空虚な感覚。

 

 視線を落とした瞬間、息が詰まった。


 左腕が、なかった。肘の下から先が消えている。


 恐怖が一気に蘇る。ソーマの冷たい笑み。腕を斬られ、両目を抉られ、右耳を削がれた、あの悪夢のような瞬間。


 でも、なぜ?

 

 両目を失ったはずなのに、今、トゥーレの姿も、部屋の景色も見えている。


「不思議に思っているでしょう。自分の顔を見てみますか?」


 トゥーレは掌をかざし、空中に水の鏡を作り出した。


 そこに映った自分の顔を見た瞬間、勇斗は絶句した。右耳がない。両目のまわりには深い傷跡。左目は完全に失われていたが、右目には緑色の光を宿した義眼が埋め込まれていた。


「この右目は――」


 トゥーレは穏やかに微笑んだ。そして、半開きの扉へと顎をしゃくる。


「あの子に聞いてみなさい」


 勇斗が目を向けると、扉の隙間から、小さな顔がのぞいていた。


「ランパ?」


「入ってきなさい。そして、説明してあげなさい」


 ギィ、と扉が軋む。ランパが俯いたまま、そろりと部屋へ入ってきた。


「ランパ!」


 勇斗はベッドから飛び起きた。だが、すぐに足がもつれ、床に倒れ込む。瞬間、ないはずの左腕に激痛が走った。思わず唸ってしまう。


「まだその身体に慣れていません。無茶は禁物ですよ」


 トゥーレがそっと肩を貸してくれた。勇斗は痛みをこらえながら、なんとか立ち上がる。


「ユートの義眼、オイラが作ったんだ」

 

 ランパがぽつりと呟いた。

 

「精霊樹の枝の一部と、コタの精霊石を合成した。片方しか作れなかったけど」


「寝る間も惜しんで看病していたのも、彼ですよ」


 勇斗は胸が詰まった。

 

 そこまでしてくれたのか。ソーマに騙されていたとはいえ、あんな冷たい態度を取ってしまったのに。


「ランパ、ごめん。僕が迂闊だった。許してほしい」


「いいよ、もう」

 

 ランパはかすかに笑った。

 

「オイラ、ユートが生きてくれただけで満足だ」


「ほんとに、ごめん」


「あーもう、じれったい!」

 

 ランパは頬をふくらませ、拳を握った。

 

「くよくよすんなっての! もう終わったことだろ! ほら、仲直りしようぜ!」


 ランパの笑顔が、眩しかった。右目が霞む。


 勇斗は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「九死に一生を得たのです。その命、大切にしなさい」


 トゥーレが静かに言った。



 トゥーレに肩を借りながら、リビングへと足を運ぶ。


 テーブルを囲んでいたのは、チカップとペック、そしてシグネリア王女だった。


「ユート、目が覚めたんスね!」

 

「よかったぁ!」


 チカップとペックが駆け寄る。


「でも、全て元通りにはならなかったんスね」


 チカップの声は震えていた。


「仕方ないじゃん。流石のボクちんでも、失った部位までは再生できない。ま、生きてるだけでめっけもんだよ」


 ペックは羽をぱたぱたさせ、軽口を叩きながら部屋を飛び回った。


「あなたとランパくんを見つけたのはチカップくん。そして治療をしたのはペック。二人にも感謝ですね」


「二人とも、ありがとう」


 勇斗は深々と頭を下げた。


「お久しぶりです、アルト――いえ、ユート」


 シグネリアが優雅にお辞儀をした。長かったローズピンクの髪はバッサリと切られ、ショートヘアーになっている。衣はドレスではなく、旅人用の服だ。厚手のベージュの上着に革のベルト。スカートの裾には泥の跡が残っていた。


「そういえば、どうしてトゥーレさんとシグネリア王女がウルパに? ソレイン王国は?」


「その話は、座ってからにしましょう」


 トゥーレが椅子を示す。


「さあ、腰を下ろして。話すことが山ほどありますから」


 勇斗は静かに頷き、椅子に腰を下ろした。

 

「ソレイン城は、クラバンの手に墜ちました」


 その一言で、部屋の空気が張り詰めた。暖炉の火が弾ける音だけが、静寂の中に響く。


「あの日、すべてが終わりました。最初の異変が起きたのは、四日前の夜です。クラバン大臣が、突如として王の御前に現れました。顔色は死人のように蒼く、けれどその目だけが――赤く燃えるように光っていたのです」


 シグネリアの声が震えた。その光景を、まだ夢のように思い出しているのだろうか。


「父上は兵に命じ、彼を拘束しようとしました。ですが、その場にいた兵たちが、次々に歪んでいったのです。骨が軋み、皮膚が裂け、声にならない叫びを上げながら――人ではない何かに変わっていく。私は、それを目の前で見てしまいました」


 勇斗たちは息を呑んだ。


「クラバンは笑っていました。そして、父上はその場で斬られ、跡形もなく燃やされました」


 シグネリアは唇を噛み、しばらく言葉を失った。

 

 小さく息を吸い、再び語り始める。


「気づけば、私は燃え広がる城下を走っていました。炎の匂い。泣き叫ぶ民。空には赤い霧が立ちこめ、どこまでも逃げ場がありませんでした。城壁の外の道は、すでに魔族に塞がれていたのです」


 その声には、疲労と恐怖と、消えぬ悔しさが滲んでいた。


「その時、トゥーレが現れました。彼も城を脱出したばかりだったのでしょう。衣は焦げ、腕に傷を負っていました。それでも私の手を掴み、生き延びる道を示してくれたのです。そして、追っ手の群れを相手に魔法を放ち、私をこのウルパまで導いてくれました」


 語り終えると、シグネリアは目を細め、小さく息を吐いた。


「私は、これからどうすればよいのでしょう」


 重い沈黙が、部屋を包み込む。


「すみません――少し、疲れました。トゥーレ、二階のベッドをお借りしてもよろしいでしょうか」


「えぇ、もちろんです。今は何も考えず、休みなさい」


 トゥーレの穏やかな声にうなずき、シグネリアは静かに立ち上がった。


 扉の閉まる音がして、再び部屋に静けさが戻った。


「さて、そういうことです」


「トゥーレさんは、これからどうするのですか」


「しばらくは、この町で王女殿下と共に身を潜めます。まだ混乱の余波が残っていますし、城下の民の避難も終わっていません。いずれ時を見て、クラバンを討ち、ソレインを取り戻すつもりです」


 トゥーレの口調は穏やかだった。しかし、勇斗はその声に不安を感じた。なぜだかはわからなかった。


「僕たちも、協力します」


 衝動的に言ってしまった。胸の奥がわずかに痛む。ソーマの笑顔が脳裏にちらつく。


「ありがとう。けれど、あなたたちはあなたたちの目的を果たしなさい。マナの聖域へ行くのでしょう?」


「は、はい」


「私なら大丈夫です。お気遣いなく」


「でも――」


 勇斗は眉をひそめ、何かを言いかけた。そのとき、ランパが腹の虫を鳴らした。


「おい、腹へったぞ」


 部屋の空気が一瞬ゆるむ。


「はは、どうやら話はここまでのようですね。少し待っていてください。温かいスープくらいなら作れますから」


 トゥーレは立ち上がり、キッチンへと向かった。


 やがてスープが運ばれてきた。赤と橙の野菜が浮かぶ、ミネストローネのようなスープだった。


 口に運ぶたび、体の芯がじんわりと温まっていく。


 片手で何とか食べ終えると、胸の奥に小さな灯がともるようだった。久しぶりに、食事が生きるためのものだと感じた。


 勇斗は小さく息を吐いた。


 もう二度と、昔の食卓には戻れないんだろうな。そう心の中で呟くと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 客間に戻ると、部屋の隅に聖剣クトネシスと精霊器ラクメトが置かれていた。どちらも傷一つなく、静かに輝いている。ただ、左のガントレットだけが見当たらなかった。


 これでは、ドラシガーに火をつけられない。


「あれ?」


 勇斗は眉を寄せた。よく見ると、右のガントレットの形状が以前と違っている。かつては親指以外が一枚の金属で覆われたミトン型だった。だが今は、五本の指が独立しており、甲の部分には灰色の宝珠がはめ込まれている。


「それも合成で作ったやつだよ」


 声の主はランパだった。小さな体でドアの影から顔を出し、得意げに胸を張る。


「火がつかえないと、ドラシガー吸えないだろ?」


「あ、ありがとう。何を素材に使ったの?」


「マントに入ってた、変な金属。あれを使った」


 勇斗は思い出した。森で拾ったオイルライター。だから宝珠が灰色をしているのだろう。


「吸うなら外で吸えって、トゥーレが言ってたぞ。行くか?」


「う、うん」


 勇斗はランパに手伝ってもらい、精霊器ラクメトを装着した。


 外に出ると、雪が静かに舞っていた。灰色の雲の隙間からわずかに光が差し込み、町の屋根を銀色に染めている。吐いた息が白く広がり、空気は澄んで冷たかった。


 マントの内側からドラシガーを取り出す。吸い口のカットはランパが代わりにしてくれた。片腕でのカットは難しいから、これからもしてくれるという。ありがたいと思った。


 勇斗はドラシガーを咥え、右手の灰色の宝珠に意識を向ける。

 

 青白い炎が放たれ、葉巻の先を静かに照らした。


 頬をへこませ、煙を口の中に転がす。煙をゆっくり吐き出すと、冷たい空気と混ざり、白と青の霧が夜気に溶けていった。体の奥でマナが脈打つ。


「ねぇ、ランパ。夢を見たんだ」


「どんな夢だ?」


 勇斗は語った。ルークが契約を破棄した、あの夢の中の出来事を。


「それは、オイラの最後の記憶だ。本当にあったことだよ」


 ランパの声が静かに響いた。

 

 雪の音さえ止まり、時間が凍りつくようだった。


「あれが、真実だったんだね」


「うん」


 ランパの、短いけれど確かな返事。


 その刹那、大地が唸った。


 足元が揺れ、雪が舞い上がる。遠くから悲鳴が聞こえた。


「シグネリア様ぁぁぁ! トゥーレ殿ぉぉぉ! ここにいるのはわかっておりますぞぉぉぉ! はやく出てきなさぁぁぁい!」


 その声を聞いた瞬間、勇斗の背筋が凍った。


 嫌らしいゲジゲジ眉毛が、勇斗の脳裏に浮かんだ。

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