第46話 肝試し⑶

 意識が戻る。


 真弘はガラクタの山に半ば埋もれていた。見上げた天井には、ぽっかりと黒い穴。あそこから落ちた、と頭が理解するまでに、しばらく時間がかかった。


 上体を起こしたとたん、右腿に異物の気配がした。

 

 目を凝らすと、折れた鉄の棒が太ももを貫いている。先端は赤黒く濡れていた。


 認識が痛覚に追いついた瞬間、視界が白く爆ぜた。


「あ、ああああ!」


 喉がちぎれるほど叫ぶ。鼓膜の内側で自分の声が反響する。痛みが暴れ回る。


 助けて、誰か助けて。


 どれほど叫んだだろう。声も涙も枯れてきた。


 ――このままでは、死んでしまう。


 真弘は歯を食いしばり、鉄の棒を両手でつかんだ。いち、にぃ、さん――数えて、一気に引き抜く。


 「ぎっ――」

 

 鋸で骨を削るような感触が走り、ガラクタの山が崩れて彼の身体は廊下へ転げ落ちた。


「ぐっ、があああぁぁ」


 腿の穴から赤があふれ、床板にじわりと染みを広げていく。


「ち、血を――止めないと」


 ショルダーバッグを探す。しかし、上の教室に置いてきていた。


 視界が揺れる。


 這うしかない。保健室まで行ったら包帯があるかもしれない。

 

 腕に体重を預けて床をずり、前へ。指先に木のささくれが刺さる。呼吸が短くなる。


 前方に、陽介のリュックが転がっているのが見えた。探検の邪魔だと置いていったやつだ。淡い期待でジッパーを開けると、中にスポーツタオルが入っていた。


 真弘は腿にタオルを巻きつけ、全身の力で押さえ込む。白がみるみる赤へと変わっていく。拙い止血だが、何もしないよりはいい。


 壁にもたれて息を整え、ポケットからスマートフォンを取り出す。


 画面の右上に、圏外の文字が表示されている。


 頭が真っ白になった。


 どのくらい、ぼんやりしていたのか。気づけば、鋭い痛みがひくりと遠のき、代わりにうっすらとした痒みが残っている。


 タオルをほどく。

 

 穴が、ない。皮膚は元どおりに滑らかだった。


「な、なんで」


 自分の足を何度も撫で、軽く屈伸する。立つ。歩く。痛みはどこにもない。理由は分からない。だが、動ける。


 助けを呼ぶために外へ。そう思って窓へ近づいたとき、真弘は息を呑んだ。


 外は、無だった。


 雑草も、木々も、地面も、空気の匂いさえも、すべてが切り取られ、ただ暗黒だけが広がっている。音も風も、どこかに置き忘れられたみたいに消えていた。


 震えが、止まらなかった。

 

 理科室の方から、ガラスが砕ける音がした。続いて――ピチャリ、ピチャリ、と濡れたものが床を叩く音。真弘は反射的に顔を向ける。


「ひっ」


 理科室の戸口から、脚の生えた魚と、巨大なカエルが這い出してきた。どれも真弘の背丈ほどの大きさで、数匹、ぞろぞろと列を成し、粘つく体液を滴らせながら近づいてくる。


「あ、う――」


 腰が抜け、座ったまま後ずさる。


「こ、来ないで」


 ふらつきながら立ち上がり、廊下の端まで逃げた。外は相変わらずの暗黒――退路はない。足がもつれる間にも、怪物たちはにじり寄ってくる。


「こ、来ないで――っ!」


 叫んだ瞬間、動きがぴたりと止まった。

 

 魚もカエルも、首だけを微かに傾け、こちらを見ている。呼吸の音だけが、やけに大きく耳に届く。


「うわああっ」


 真弘は身体をひねって走った。群れの脇をこじ開けるように突っ切る。肩が何かに当たり、べちょりと湿った感触が服に貼りつくが、無視して速度を上げる。横目に、保健室の入口から人体模型がのぞいているのが見え、背筋が跳ねた。


 振り返る。怪物たちはなおも静止したまま、ただ真弘を見ている。追ってくる気配はない。


 手洗い場に飛び込み、流しにしがみつく。

 

 胃の底からこみ上げ、昼に食べたものがすべて逆流していった。酸が鼻に刺さり、口の中がねっとりと苦い。


 顔を上げ、鏡を見た。


「えっ?」


 映っているのは見慣れた夏野真弘の顔――なのに、髪が真っ白になり、目は白黒が反転している。角も生えている。まるで漫画に出てくる悪魔のような顔が、鏡に映り込んでいた。


「なに、これ?」


 現実感が崩れ落ちる。夢でも見ているのだろうか。夢ならはやく覚めてほしい。


「あ、ぁ」


 胸の奥が決壊した。


「うぅっ――お、お父さん――お母さん――にいちゃん――あ、うわあああぁぁん」


 声が枯れるまで泣き叫び、やがて廊下に倒れ込んだ。もう、動きたくない――そう思った矢先、階段の上から、何か重いものが踏みしめる音が近づいてくる。


 ギシッ、ギシッ――


 真弘は跳ね起き、隠れられる場所を探した。物置スペースを見つけ、身を滑り込ませる。扉をそっと引き寄せ、息を殺す。


 ゴリゴリという摩擦音が這う。埃で鼻がむずむずする。くしゃみを必死に飲み込み、両手で口を押さえた。


 足音が、すぐ目の前まで来た。

 

 扉の向こうに、いる。

 

 心臓がどくどくと暴れ、耳の中まで血の音が満ちる。この音が、外へ漏れているんじゃないか。


 ガタッ。


 扉が一瞬だけ揺れた。体がこわばり、汗が冷たく背を伝う。身体のあらゆる穴という穴から水分がにじみ、皮膚がぬめる。


 気配が、すっと遠のいた。


 しばらくしてから、そっと扉を開ける。慎重に隙間から覗く。誰もいない。

 

 廊下を見渡す。先ほどの魚やカエルの化け物たちも、どこにも見当たらなかった。


 安堵が一気にほどけ――同時に、ジーンズの股間が生ぬるく重くなっているのに気づいた。

 

 

 二階へと上がった。陽介とトビはどうなったのか、確かめたかったからだ。


 懐中電灯がない不安は、階段を踏み切った瞬間に別の感情へ変わる。


 見える。

 

 闇は濃いのに、輪郭が溶けずに浮いている。床のささくれ、壁のひび、遠くの埃の流れまで、暗視ゴーグル越しみたいに目が拾った。思えば、一階も真っ暗だったはずなのに、きちんと見えていた。自分の目の変化と関係があるのだろうか。


 考えを振り払い、先へ進む。


 真弘が落下した教室の前に出た。陽介の姿はない。トビもいない。代わりに、床に陽介のオイルライターが転がっていた。


 ライターを拾い上げる。金属の冷たさが指先を刺す。親指で蓋をなぞり、ジーンズのポケットに滑り込ませた。


 その瞬間、背後から気配が立ち上がった。


 あいつだ。


 反射的に走り出す。


 しばらく走ったところで、違和感を感じた。さっきの教室は廊下の突き当たりのはずだ。ならば、いま自分が踏み抜いているこの直線は、どこから伸びている?


 キーン、コーン、カァァンコォォン――


 突然、狂ったチャイムが鳴り響いた。あり得ない。


 次の瞬間、冷たいものが首を掴んだ。


「ぐ、ぇえ」


 黒い手が喉を締め上げ、真弘の身体がゆっくりと持ち上がる。踵が床を離れ、空気の層が薄くなる。呼吸が途切れ、首の骨に鈍い圧が軋んだ。


 手足をばたつかせる。爪が空を掻くだけだ。視界の端が灰色に粒立つ。


 瞬間、紅が浮かんだ。


 胸の奥で灯った火点が、ふっと拡がる。

 

 赤い光はやがて炎となり、黒布をなめるように焼いた。焦げる匂いが一瞬で満ちる。


 顔を見た。顔が、ない。

 

 布の下にあったのは虚空そのもの――ブラックホールのように、光も音も吸い込む穴だけ。


 俺はお前、お前は、俺。


 孤独。


 意識が、遠のいていく。

 

 鼓動が遠ざかり、世界の縁が暗く巻き込まれた。

 


 気がつくと、見慣れた天井があった。

 

 視線を動かせば、学習机とランドセル。カーテンの隙間からこぼれるやわらかな光の向こうで、スズメがちち、と鳴く。布団の匂いが鼻に戻ってきて、ここが自分の部屋だと理解するのに時間はかからなかった。


「よっ、目が覚めたか?」


 ドアのところに兄が立っていた。


「にいちゃん?」


「おう。兄ちゃんだ!」


 兄はにっと笑い、枕元にあぐらをかく。


「昨日さ、お前、鳥居の前で倒れてたんだよ。けがは見当たらなかったし、息もしてたから、俺がここまで運んだ。マジで心配したんだからな」


 記憶を手繰る。夏祭り、自転車、――そこで糸がぷつりと切れる。


「頭、痛い」


 こめかみを締めつける痛みが、波のように押し寄せた。


「おいおい、まだ寝てたほうがいいんじゃないか?」


「うん」


 ――陽介。


「そうだ、陽介は?」


 兄の目が一瞬だけ泳ぐ。


 問い詰めると、陽介も鳥居の前で倒れており、意識は戻らないまま入院中だという。


 真弘は布団に潜り、天井に背を向けた。兄が部屋を出ていく音。静けさが戻る。寝返りを打ったとき、ポケットに硬い感触が触れた。


 ポケットの中から出てきたのは、何かの破片だった。


 それはひと閃、紅く瞬き――体温に溶けるみたいに、指の間から静かに消えた。

 

 掌には何も残らない。


 ただ、微かなぬくもりだけが、皮膚の奥に滲んでいた。

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