第44話 肝試し⑴

 ギーギー、と低音の震えるような声でセミが鳴いている。


 昼下がり、夏野真弘なつのまひろ白鳥陽介しらとりようすけは、高日図書館の裏手にあるベンチで涼んでいた。


「宿題手伝ってくれてサンキューな。これで夏休み後半は遊び放題だぜー!」


 陽介の目が、きらりと輝く。


 真弘もつられて笑う。

 

 陽介は、唯一の友達だった。やんちゃで騒がしいくせに、クラスで孤独だった自分にだけは普通に話しかけてくれた。家が近いこともあって、いつの間にか毎日一緒に遊ぶ仲となっていた。小学校生活の五年間、毎年同じクラスなのはちょっとした運命を感じる。ちなみに、背が伸びないことを気にしているらしい。


「お前、ほんとそういうの好きだよなー」


 陽介が、真弘が借りた本を指さす。『世界のオカルト大全集』というハードカバーの本だ。


「まぁね」


 この世には、未確認飛行物体や生物、パラレルワールドなど、説明できない話が山ほどある。だいたいは科学で否定されるけれど、あると信じていたほうが、少なくともロマンはある。


「そういや、知ってる? ほら、俺たちのガッコで噂になってるやつ」


「黒い大男のやつ?」


「そう、それ」


 夜の旧校舎に現れる、全身を黒布で覆った大男。素顔を見た者は魂を奪われる――そんな昔からの噂だ。口裂け女やトイレの花子さんみたいな、いわゆる都市伝説。


 旧校舎とは、町外れにある、今は使われていない小学校の校舎のことだ。近所では有名な心霊スポットで、肝試しに行く人も多いらしい。


「今度、旧校舎に行ってみない?」


 陽介が、弾むように体を揺らしている。


 真弘は目を見開いた。


「本気で言ってる?」


「おう、マジだぜ。肝試し。夏休みの思い出作りってことで」


 陽介は興奮して、少し息が上がっている。


 真弘は顎に手を当てる。暇だし、ちょっとしたスリルも悪くない。危なそうなら、すぐ帰ればいい。


 ただ、問題がひとつある。


「どうやって、夜に抜け出すの?」


「一週間後、夏祭りあるだろ。祭りに行くって家を出て、こっそり旧校舎まで行けばいいんだよ」


 そうだ。一週間後、高日町の公共広場で夏祭りがある。うちの親はその実行委員で、当日は朝から準備で家にいない。


 けれど、厄介なのがひとりいる。兄だ。迷子になるだの、誘拐がどうだの、毎年のようにぴったり張りついてくる。正直うんざりだ。もう幼稚園児じゃないっての。

 

 まぁ、いい。作戦をたてる時間はまだある。


「いろいろ、準備しないと」


「よし、決まりだな」


 陽介がサムズアップをした。



 自室に戻ると、窓から差し込むオレンジ色の光が畳に長い影を落としていた。


 窓の外ではセミが相変わらず鳴いている。


 真弘はエアコンのスイッチを入れたあと、勉強机に向かった。

 

 ショルダーバッグから一冊の本を出す。『高日町地域史』という古い上製本だ。図書館で陽介と別れたあと、追加で借りてきた。旧高日小学校について、少しだけでも調べておきたかった。


 慎重にページをめくる。古紙の匂いが、鼻孔を刺激する。

 


 ――旧高日小学校の沿革と閉校――


 高日小学校は昭和○○年に創立。木造二階建ての校舎を中心に、長らく地域の児童教育の場として親しまれた。

 

 平成○○年三月、児童数の減少および町の財政事情により閉校となり、その役目を終えた。


 なお、閉校に至る数年前より校内にいくつかの不審事象が記録されている。

 

 一、平成○○年六月、男性教諭が授業中に突然倒れ、病院搬送後に死亡(死因:急性心不全)。当時の児童の一部は「黒い影のようなものを見た」と証言。

 

 ニ、平成○○年十月、全校集会の最中、十数名の児童が同時に悲鳴を上げて卒倒。後日、児童は「大きな黒布のようなものが迫ってきた」と証言。原因は不明。

 

 三、平成○○年一月、理科室にて小規模な火災が発生。延焼・人的被害はなし。現場付近に居合わせた教諭が「赤い石片のようなものを拾った」と記録。その後、当該教諭は体調不良を理由に退職。


 これらの事象と閉校との直接的関連は確認されていないが、当時の地域住民の間では「校舎に不吉な影が差した」との風聞が広まり、児童の転校が相次いだ。

 

 校舎は現在も町はずれに現存するが、老朽化が著しく危険であるため、立入は禁じられている。



 読み終えると、背すじが粟立った。


 黒い影、大きな黒布。全身を黒布で覆った大男の素顔を見た者は魂を奪われる、という都市伝説はここから生まれたのだろうか。そして赤い石片というのも気になる。


 真弘は手を組んで安心感を得ようとした。


 その時。コン、コン、と背後で乾いた音がした。


 え?


 振り返ると、窓辺に一羽の鳥がいた。ガラス越しに夕陽が反射して輪郭がゆらいでいる。

 

 よく見るとトビだった。広げた翼には、四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が描かれている。

 

 あの模様は、もしかして。


 真弘は椅子から立ち、息を殺して窓辺へ近づく。

 

 以前、カラスに襲われていたトビを、兄と一緒に助けた。そのトビの羽にも、同じ文様があった。


 雨の日だった。空は鉛色で、雨粒は針みたいに斜めに突き刺さっていた。アスファルトの上、水たまりが無数の目のように瞬き、その真ん中で黒い影が三つ、ひとつの茶色い塊を突いていた。

 

 やめろ、と兄が傘を振り上げると、カラスがざわっと割れて、雨の幕に紛れた。

 

 真弘はレインコートを脱いで、震える塊をそっとくるんだ。濡れた羽根の匂い。鼓動が小さく指をたたく。


 もう大丈夫。


 カラスがいなくなったことを確認した真弘は、トビを逃がした。

 

 その夜、窓辺に白いお守りが置かれていた。


 視界が現在に戻る。

 

 トビと真弘は、しばらく見つめ合った。


 突然、脳内に言葉が流れ込んできた。


 ――イッテハ、イケナイ。


 こめかみの内側を氷水で締めつけられたような痛み。かき氷を一気に食べた時の感覚と似ている。


 真弘は頭を抱え、膝を折った。

 

 セミの声が遠のく。


 やがて痛みが引き、顔を上げる。

 

 窓辺に、トビの姿はなかった。


 セミの声だけが、部屋に張りついていた。

 


 窓の向こうから、太鼓の音がかすかに聞こえる。

 

 夏祭り当日。真弘はショルダーバッグの中身を点検していた。


 懐中電灯、ハンカチ、水筒、メモ帳、鉛筆、そして虫除けスプレー。よし、ばっちり。


 「あとは――そうだ」


 真弘は勉強机の引き出しを空け、キャラメルの箱を取り出した。お腹が空いたら一粒、口の中でゆっくり溶かそう。甘さは、怖さを少しだけ鈍らせることができる。


 「おーい、真弘ー! そろそろ行くぞー!」


 階下から兄の声が聞こえる。真弘は小さく返事をしたあと、バッグのストラップを肩に回した。


 バッグにぶら下がった熊のキーホルダーが揺れる。小学校入学祝いに兄から貰ったものだ。金具は曇り、毛並みはすり切れていたが、なかなか捨てられず、そのままになっていた。


 真弘は少し考えたあと、バッグからキーホルダーを外し、そっと机の上に置いた。

 


 夕日が沈む。

 

 祭り会場に近づくにつれ、太鼓の音は大きくなり、行き交う人々も増えてきた。


 「そういやお前、なんで普段着なんだ?」


 浴衣を羽織った兄の目線が真弘に向けられる。


 真弘の服装は、ドライタッチの黒い長袖パーカーにジーンズというものだった。肝試しに行くのに、浴衣なんか着ていられない。パーカーが長袖の理由は、虫に刺されるのが嫌なだけだ。


 幼稚園の頃、蜂に刺されてひどい目に遭ったことがある。それ以来、あらゆる虫が嫌いになっていた。


 「浴衣、もう小さくなった」


 「そうか、お前、おっきくなったもんなぁ」


 フード越しに髪をワシャワシャされる。えぇい、鬱陶しい。真弘はうつむいて歯ぎしりした。


 「だいぶ背が伸びたよね」


 声をかけてきたのは、勇斗にいちゃんだ。兄の友人で、自分も昔からよく知っている。臆病な性格で、少し頼りない印象。

 

 「あ、着いたよ」


 自宅から歩いて二十分、祭り会場に到着した。公共広場の入口に人の波が渦を巻いている。


 赤い光が、夕闇の群衆を照らす。焼き物や甘い菓子の匂いと蒸し暑い空気が混ざり合い、むせ返るほど夏の香りが濃い。

 

 兄が「はぐれるなよ」と言って腕をつかんできた。

 

 真弘は、祭囃子にかき消されそうなほど小さく息を吐き、人混みの中に視線を泳がせる。


 陽介の姿を見つけた。赤毛はよく目立つ。赤い半袖Tシャツに黒のショートカーゴパンツ、背中にリュックというラフな格好だった。片手にアイスクリームを持っている。


 目が合う。陽介があごで合図し、にっと笑う。


「どわっ!」


 次の瞬間、兄がよろけた。陽介が横から体当たりしたのだ。掴まれていた手がほどけ、冷たいものが兄の浴衣でつぶれる。


「な、何だ急にっ――うわ、アイスが浴衣に! おい、誰だコラ!」


「誰に怒鳴ってんのよ」


 思いがけない助っ人が滑り込んだ。陽介の姉――美咲さんだ。

 

 兄は彼女に弱い。腕を掴まれた途端、目線が泳ぐ。


「あ? なんで美咲が――ちょ、引っ張るなって、ここ人多――」


「ちょっと、二人ともやめてよ」


 兄と美咲さんは互いに意識を持っていく。勇斗にいちゃんは横でおろおろとしている。


「今がチャンスだ。行くぞ、真弘」


「うん」


 二人は人波を抜け、会場外れのシェアサイクルのポートへ駆け込む。アプリを開き、QRコードを読み取る。ガチャ、とロックが外れた。


「サドル高ぇ、足つかねぇ」


 陽介は楽しそうに足をブラブラさせている。


「時間がない。はやく行こ」


 夏祭りが終わる時間までに探検を終え、戻らなければいけない。あと二時間くらいだろうか。


「分かってるって。よし、旧校舎へしゅっぱーつ!」


 ペダルが回り、祭囃子の音が遠ざかっていった。

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