第7部
第43話 幕間
順番が来て、学生証を提示する。検温を終えると、受付の事務員から面会札を手渡された。
東棟まで歩き、エレベーターのボタンを押す。
弟が目を覚ましたと聞いたのは、三日前だった。本当はすぐにでも会いに行きたかったが、風邪をひいていたせいで、面会は断念せざるを得なかった。ようやく熱が下がった今日、学校の授業が終わるやいなや、大急ぎで病院に駆けつけた。
エレベーターに乗っている時間が、やけに長く感じられた。
四階に到着する。
ナースステーションで面会札を見せると、看護師が軽く笑った。
「面会は三十分までね」
会釈し、弟の病室――五〇五号室へと足を運ぶ。
光太は、病室の入り口で立ち止まった。
窓際にあるベッドに、小柄な少年が腰掛けている。黒いパジャマの背中は、彫像のように微動だにしない。外を眺めているのだろうか。
「
光太は明るい声で呼びかけた。しかし、少年は振り返らなかった。
「真弘、にいちゃんだぞ」
病室に入り、弟の顔を覗き込んだ光太は、一瞬、息がつまった。
真弘の目は虚ろだった。焦点の合わない瞳で、ただずっと窓の外をぼんやりと見つめている。
肩を叩いても、体をゆすっても、何の反応も返ってこなかった。
光太は真弘の手をそっと握った。温かい。でも――
『心拍と呼吸は安定しているのに、呼びかけには一切反応がない。まるで魂だけが抜け落ちてしまったみたいだ』
親から聞かされた言葉を反芻する。まさに、その通りだった。
覚悟していたつもりだったが、実際に目にすると、ショックは何倍にも跳ね上がった。
光太は真弘の隣に腰をおろし、いっしょに窓の外を見た。天陽山が夕日に照らされ、オレンジ色に染まっている。
「真弘。勇斗な、今異世界にいるんだ。冗談じゃなく、ほんとだぞ?」
おちゃらけた口調で話しかけるも、声はどこか震えていた。
「でさ、代わりに勇斗そっくりのアルトってやつが今この世界にいてさ。そいつが勇斗の代わりをやってんだけど、これがまぁ、めちゃくちゃなやつで」
光太は苦笑いを浮かべる。
「元の世界に戻るため必死になってるんだけどな、全然手掛かりが見つからないみたいで。さて、どうしたもんかねぇ」
返事はない。真弘はただ黙ったままだ。
そのとき、一羽の黒い鳥が窓の外を横切った。
「カラスか。あ、そうだ、カラスっていえばさ、覚えてる? 二人でカラスにいじめられていたトビを助けた日。あの日の夜、家の窓際にこのお守りが置いてあったんだよな」
光太は、首からぶら下げた白いお守りをそっと見せた。
だが、真弘の視線は何一つ変わらなかった。
「あ、う――」
言葉がつまる。やがて、涙が静かに頬を伝った。
静かな病室に、時間だけが流れていく。
「面会時間、もう終わりよ」
背後から声がして、光太ははっとした。もう三十分が経ったらしい。
「――じゃあな、また来るわ」
鼻水をすする。肩に鞄をかけて立ち上がると、真弘に背を向けた。
少し歩くと、棚の上に置いてある鏡が目に入った。
鏡には、真弘の後ろ姿が映り込んでいる。
――真弘、お前、今どこにいるんだよ。
ぴくっと、真弘の肩がわずかに動いたような気がした。
◆
ソーマは鼻歌を口ずさみながら、石造りの回廊を歩いていた。氷の中に閉じ込められた勇斗の左腕を、大切そうに胸元に抱えている。
魔神の居城に足を踏み入れるのは、復活してから初めてのことだった。
あの頃と同じだ。黒曜石のような床、歪んだ柱、赤黒く脈打つ壁、肌を刺す熱気。いたるところに禍々しい瘴気が満ちているのに、それが妙に落ち着く。
変わったのは、自分の容姿だ。
ソーマは血に染まったゴシックドレスに目を落とす。
「だいぶ汚れましたわね。孤児院のおばさまには悪いけど、この服は処分しちゃいましょう」
それに、お風呂にも入りたい。さすがに血を浴びすぎた。髪の毛もベトベトだし。
そんなことを考えながら、巨大な黒鉄の扉を魔法でこじ開ける。
広間へと足を踏み入れた瞬間、ソーマの足がぴたりと止まった。
「よぅ、ご機嫌だな」
両腕を組み、壁にもたれかかった竜人型の魔族が、唸るような低音を響かせた。
「あら、どなたかと思えば、黒トカゲさんじゃありませんこと」
「誰がトカゲだ。オレ様にはギナスっていう名前があんだよ」
ギナスは口元から葉巻を引き抜き、無造作に紫煙を吐き出す。
ソーマは眉をひそめた。煙の吐き方が下品だ。ユートと全然違う。
「お前だろ? カルント山でオレ様の邪魔をしたやつは」
「そうですけど、それが何かしら?」
「獲物を横取りするなんて、卑怯だと思わねぇのか?」
「ユートは私のもの。野蛮なトカゲに渡すわけないでしょう?」
ソーマはうっとりと氷漬けの左腕を眺めた。
ケッ、とギナスが短く発した。
「その腕、あいつのだろ? ちゃんと殺したのか?」
「さぁ、どうでしょうね。うふふ」
あれくらいで死なれたら困る。もっと、もっと可愛がりたいのだから。完全に壊れるその瞬間まで――
「食えねぇ女だぜ」
「それはそうと、わたしたちの新しい主の様子はいかが?」
「あぁ、あの野郎のことか」
「主に対して、あの野郎は失礼ですわよ?」
「オレ様は今のご主人サマが気に入らないんだよ。中途半端さに、どうにもムズムズしちまう」
「あなたの主観なんてどうでもいいですのよ」
「チッ、なら自分で見に行けよ。このババア」
「あらあら、お口が達者なことで。言われなくても、そうさせていただきますわ。その前にお風呂に入りますけど」
勝手にしやがれ、とギナスが呟いた。
ソーマは、鼻歌を再開した。
数歩進んだところで、思い出したように振り返る。
「あ、そうですわ」
「何だ、まだ何かあるってのか? オレ様はスマートじゃねぇやつは嫌いなんだ。さっさと消えやがれ」
「ミュールさん、死んでませんわよ」
「――あぁ?」
ギナスは怪訝そうに顔を歪めた。
「うふふふふふ」
◆
魔神の居城、最深部。
光も音も届かぬ暗黒の空間に、玉座が鎮座している。
玉座の上に腰掛ける影――全身を漆黒の甲冑で覆った魔神は、重く閉ざされた兜の奥で、両目をぎらりと見開いた。
己は、何者なのか。
なぜ、この場所にいるのか。
わからない。
だが、なすべきことは明確だった。
圧倒的な力による、世界の支配。
それだけが、この身に刻まれた使命。
最初は混乱していた。訳がわからぬまま、この世界をさまよっていた。
だが、ある日、己の力に気づいた。
魂の叫びを喰らい、怨念すら実体に変える力。理をねじ伏せ、魔を従わせ、死者すら屈服させる力。
配下が増えるたび、孤独は薄れていった。喉奥を満たすような充足感が、心に広がった。
魔神は、視線を玉座の横に向けた。
そこに、一頭の飛龍がいた。真紅の鱗に覆われ、巨大な翼を畳んで身を伏せている。
ゆっくりと手を伸ばす。漆黒の籠手に包まれた指が、赤い飛龍の頭頂部をそっと撫でた。
飛龍は目を細め、のどを鳴らすような低い唸りを漏らす。
魔神は、深呼吸をした。
この満たされた感覚を、誰にも壊されたくはない。
壊してくるとすれば、誰だ?
思考の闇に、ひとつの光が差し込む。
黄金色に輝く鎧をまとう、あの少年。
――勇斗。
その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥がざわつく。
痛みのような、懐かしさのような、名もなき波紋が広がる。
だが、それも、もう遠い。
過去の記憶は、霧の中に沈みゆく。
名前も、感情も、日常の記憶も。すべて、黒に染まっていく。
もう、戻れない。
心と身体は、闇の底へと完全に堕ちる。
魔神は、そっと瞳を閉じた。
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