第15話 追憶
視界に映し出されたのは、大地が太陽の光を受けて白く輝いている景色だった。
「ふぇ、ふぇっくしょん!」
小柄な少年が鼻水をすする。無造作なエメラルドグリーンの髪が、風に揺れた。
「寒さが苦手なのは変わってないな、ランパ」
目元を仮面で覆った男が、口元に笑みを浮かべた。
「ルークは平気なのか?」
「私は大丈夫さ」
ルークと呼ばれた男は、身にまとっている黄金色の鎧の表面をゆっくりとなでた。
「この精霊器ラクメトが体温を調整してくれるからね。どうだ、羨ましいだろう?」
「別にうらやましくないよ」
くりっとした目を細め、むすっとしたランパは、大きな口を開けて笑っているルークを見上げた。
「それより、討伐を頼まれた魔族がいる場所って、ここで合ってるのかよ?」
バキバキと、木がなぎ倒れる音がした。
「合っているよ」
ルークは剣の柄に手をかける。彼の目線の先には、鹿がいた。普通の鹿よりもはるかに大きい。黒い体毛を持つ、巨大な鹿だ。白い森をうしろにして、大きな目玉でこちらを睨んでる。
「あ、あれが大鹿――でかい。おっかねぇ」
ランパは手足をガタガタ震わせた。
「うん、でかいな。魔神のしもべってだけはある。邪悪さがこれまでの魔族とは桁違いだ」
「貴様、何者だ」
耳につくがなり声が、大鹿から発せられた。
「私は精霊樹に宿しマナの女神――チキサの命を受け、魔神を倒す者」
ルークは、鞘から引き抜いた剣の先端を大鹿に向ける。
「勝てるのかよぉ」
「大丈夫、なんとかなるさ」
ルークが一歩足を踏み出した瞬間、大鹿は頭を低くして、鋭く巨大な角で突きかかってきた。速い。その巨体からは想像もできないスピードで、一気に距離を詰めてきた。
二人は慌てて飛び退く。勢い余った大鹿は巨大な岩に激突した。衝撃で岩が木っ端微塵に砕ける。
「ひえぇー、なんだよあの力!」
「うーん、速いな。ランパ、精霊術だ。私の足も速くしてくれ」
「お、おう」
ランパはスピード強化の精霊術をルークにかけた。ルークはニッと笑った後、高速で大鹿に斬りかかった。刃が巨体を切り裂く。傷口から黒い液体が飛沫を上げた。
「グオオオオッ、何だ、その剣は」
「聖剣クトネシスの切れ味はいかがだったかな?」
ルークは地面を蹴り、後方に跳躍した。大鹿と距離をとる。
「ふざけるなよ」
大鹿は踊るように脚を踏み鳴らす。瞬間、巨大な角の真上に魔法陣が形成された。
「おぉ、魔法も使えるのか」
「感心してる場合か。くるぞ!」
黒い旋風が巻き起こり、瞬く間にルークの体は宙を舞った。風の刃が、彼を鎧ごと傷つける。
「ルーク!」
大鹿は、敵が地面に落ちる瞬間を逃さなかった。巨体を勢いよくルークにぶつける。
「ぐはっ」
ルークは、血を吐きながら大きく吹き飛んだ。白い地面をゴロゴロと転がり、岩にぶつかって停止した。
「大丈夫か、ルーク!」
眉を吊り下げたランパが、ルークの元へと駆け寄った。
「油断しちゃったね」
フラフラと、ルークは立ち上がった。満身創痍。肩を上下に動かし、荒々しい呼吸をしている。
「次の一撃で決めないと、まずいかな。ランパ、鹿の足止めを頼む」
「オ、オイラが?」
大鹿の鋭い視線が、ランパを襲う。小さな体がブルっと震えた。
「む、無理だよ。二人ともやられちゃう」
「大丈夫、一瞬だけでいい」
「で、でも。オイラ、怖い」
「勇気を出すんだ。私はランパを信じている。だから、ランパも私を信じてくれ」
「わ、わかった、やってみる」
ルークは口角を上げたあと、赤いマントの内側から一本の葉巻を取り出した。吸い口付近には、ラベルの代わりに金色のリングが付いている。
葉巻の吸い口を豪快に噛み切ったルークは、ガントレットの甲側に埋め込まれた宝石から噴き出す炎で、先端に火をつけた。淡い緑色の煙が立ち昇る。
「くるぞ」
ルークは葉巻を咥え、剣先を大鹿に向けた。
「グオオオオッ!」
低く唸りながら、大鹿が迫ってくる。
「と、止まれぇ!」
ランパは精霊術を放った。地面から生えた蔓が大鹿の脚を捉える。
しかし、すぐに蔓は引きちぎられた。
「あぁー! ルーク、効いてない! やばい!」
ランパの隣に、ルークの姿はなかった。
「あれっ?」
ルークは、大鹿の真上にいた。全身に緑煙を纏っている。逆手持ちされた聖剣クトネシスが、真紅の光を放つ。燃え盛る刃が、勢いよく黒い皮膚に突き刺さった。
「グアアアアアアッ」
炎に包まれた大鹿は断末魔の悲鳴を上げる。ルークは剣を引き抜き、角を切り飛ばした後、巨体を蹴って地面に着地した。
刹那、爆音と共に、大鹿は砕け散った。
ルークは顎を上げ、煙を大量に吐き出した。淡い緑色の煙が天へ登り、消えていく。
「す、すげぇ」
ペタンと地面に座り込んだランパは、口をあんぐりさせた。
「きみが一瞬の隙を作ってくれたからだよ」
ルークは葉巻を大事そうに咥えると、頰をそっとへこませた。ふぅ、とルークの口から緑色の煙が吐き出される。
「そのでっかいタバコ、オイラの合成でたまたまできたやつだよな」
「そう、魔法の葉巻ユグドラシガー。略してドラシガー。私が命名した。煙を吸うと、マナがじんわりと体の内側に馴染んでいく感じがするんだ」
ルークは、ドラシガーの先端から立ち昇る緑煙をじっと見つめた。
「ドラシガーの煙には鎮痛作用があるみたいだ。それに、どういうわけか私の回復力も高めてくれる。この前、毒に侵された時に吸ったら毒はたちまち消えていった」
「普通のニンゲンはマナを取り込めないし、精霊術も使えないんだぞ」
「私は普通ではないからね。そういうランパもおかしな体だろ。精霊なのにいろんな感覚がある」
「これは、まぁ、そうだな。お互い変なやつだな」
二人は笑い合った。
「さて、そろそろ村に戻ろうか。大鹿を倒したこと、長に報告しなければ」
切り飛ばした大鹿の角をひょいと持ちあげ、ルークは白い大地を踏みしめた。黄金色の鎧に取り付けられた赤いマントが風でなびく。
「待ってくれよぅ」
ルークの後ろ姿を、ランパが追いかけた。
村の入り口で、ルークは声を張り上げた。
「皆、魔神のしもべである大鹿を、このルークが打ち倒したぞ!」
大きな声に反応した村人が、家屋から次々と顔を覗かせた。
「見よ、この角を」
ルークは、大鹿の角を見せびらかすように掲げる。それを見た村人たちが、感嘆の声を出した。
一人の老人が、ルークの元に歩み寄ってきた。
「ルーク殿、あなたは救世主じゃ。村の代表として、感謝する」
「ははは。なぁに、これしきのこと」
持ち上げていた大鹿の角が、サラサラと砂のように消えていった。
「おや、本体から切り離した部位は時間が経つと消えるのか。見せる前に消えなくてよかったな」
ルークは腕を組み、一人でウンウンとうなずいた。
突然、グーっという音が鳴った。
「しかし、お腹が空いたな」
「食事を用意しましょう。さぁ、私の家に来なされ」
「有難い。ランパ、ご馳走になろう」
「お、おう」
ルークとランパは敷かれた藁に腰を下ろした。台所には、髪を美しく伸ばした女性が背を向けて立っている。髪の色は、霞のように淡い。
「お客さんだよ。あの大鹿を打ち倒した、ルーク殿じゃ」
村長が女性の肩を叩いた。
「あ、あなたが、あの大鹿を――」
振り向いた女性は、きょとんとした表情でルークを見つめた。
「お強いのですね」
まるで天使のような、透き通った声。女性はにっこりと微笑んだ。
「き、きみっ、名前は?」
ルークは素っ頓狂な声を上げ、がばっと身を乗り出した。
「わたしはレタ。ルークさん、大鹿を倒してくれてありがとうございます。感謝します」
「レタ、レタか。うん、良い名前だ。年はいくつだい?」
「えっと、今年で十六になります」
「なんと。私と同じじゃないか!」
ルークは大声を出した。
「ルーク、顔が赤いぞ?」
ランパが目を細めた。
「そちらの小さな方は?」
「オイラはランパ。樹の精霊だよ」
「精霊――初めて見ました。お二人はどういった関係なのですか?」
「オイラとルークは昔からの友達なんだ」
ランパは、はにかんだ。
「ふふっ、いいですわね。わたしには友と呼べる者がいないので、羨ましいです」
「じゃあ、今日から私が、きみの友達になろう」
ルークは立ち上がり、レタに向かって手を差し伸べた。
「えっ?」
目を丸くしたレタの頬が、徐々に赤くなる。少しもじもじしたあと、華奢な手をルークの掌にそっと乗せた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「よろしく、レタ」
グーっという音が、再び鳴った。ルークは自身の腹部をポンポンと叩く。
「すまない。よく鳴く虫がここにいてね」
「あらあら。じゃあ、今からその虫を寝かせましょうかね」
床に並べられた食事を、ルークはがっついた。皿が次々と空っぽになっていく。
「うまい、うまい。こんなうまい料理は初めてだ」
「まぁ、あなたのお母様の料理の方が美味しいでしょ?」
「私の母は精霊だ。料理は作れない」
「精霊? では、ルークは精霊なのですか?」
「私は精霊である母と、人間である父の間に生まれた。半分が精霊で、半分が人間だ。変だろう?」
「はい、変ですね」
レタは口元に手を当て、くすくすと笑った。
「もしかして精霊術も使えるのでしょうか?」
「ああ。精霊と同じように体内のマナを消費して使うことができる」
ルークは掌から、小さな炎を出現させた。揺らめいた炎がハートを形作る。
「素敵」
宙に浮いた炎がふっと消えると、ルークは食事を再開した。
「ランパさんは、食べられないのですか?」
手付かずの皿を、レタは眺めた。
「いや、オイラ精霊だし。食べなくても平気」
「ランパ、きみには味覚があるんだ。うまいものを楽しんだ方がいい」
大きなパンが、ランパの口に突っ込まれた。
「もがーっ」
ランパはパンを引きちぎり、口をもぐもぐと動かす。やがて喉仏が大きく動いた。
「――うまい」
ランパの目が、輝いた。
パクパクと食べるランパの姿を見て、ルークとレタの頬が緩んだ。
「食事中に申し訳ない。ルーク殿、魔女の噂は知っておりますかな?」
奥の部屋から、村長が深刻な表情をして歩いてきた。
「魔女?」
突如、視界がフェードアウトした。
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