第3話 ハズレくじ

30歳という年齢は若いのか。

または、そうではないのか。

30歳で小学一年生の子供がいるワタシは、

若いのか、若くないのか。


結婚適齢期という言葉は今では死語だろうし、

また使えば結婚に過敏気味の女達から、

差別だと言われかねないだろう。

ワタシのママや自分の経験を考えてみると、

20代という若さで結婚は"もったいない"

結婚など奴隷のような生活や、

たった一人の男な死ぬまで縛られる。

いや、言い方を変えよう。

子供を産み子育てをする段階では無く、

たくさんの経験をするべき時期だった

のではないだろうかと感じる。

そして、

この人しかいないでなくては。

全てのことを受け止められないだろう。


たくさんの経験や常識、知識をもっと得て、

受け止める器をもっと広げておけば、

子供に対する子育てに対する受け止めも、

もっと違っていたはずではないかと。

人間的にもっと大人になっていれば、

特に感情的な部分においては、

子供に与える影響も違ったのではと。

愛する男の子供。

それがどれだけの幸せか。


それでも子供は、

愛する男の子供ではなかったとしても。


間違えたかのように

いい子に育ってくれた。


どんな境遇でも、

立派に素晴らしい子育てしている女も

いるだろう。

ワタシはそれにあてはまらない。

人間的に成長できていないことを

今更ながら、この年齢になって尚更、

日々後悔している。


ママの男性経験もきっとそうなんだ。

ママがもっとたくさんの経験をしていたら、

ワタシにもっと寛容であったはず。

そして、

その経験と知識から精神的余裕を持ち、

ワタシにたくさんの知識を与えてくれていたら‥

それを踏まえて生きてこれたかもしれない。

ワタシの腐り果てた人生もまた

違っていたのかもしれない。


全てをママのせいにする気はない。

押し付けでは無く、

人生経験をアドバイスしてくれることも、

ママの役割として

重要なのではないかと感じることもあった。

相談して、アドバイスして欲しかったのだ。

でも、できなかった。


こんな、ワタシの人生がこうなったのは‥


そしてワタシは

何も経験せず、知ったかぶりして、

焦って、慌てて手に入れた。


全て後悔するものを。


こんなはずじゃなかったのに。

こんな男じゃなければと。


他人に後から持って行かれた、

美味しくて、

満足できる素敵なものを


羨ましく、

妬ましく思った。


それに

我慢出来ずに。

簡単に手に入れた粗末なものが、


自分の欲求を満たさないものに気が付き

嫌になって、


捨てることになる。



仕事と子育てに没頭してるフリをして

心の奥で

何かがどす黒く燻っていた30歳の頃。


現れたのが栄介だった。


職場で他社から出向して来たのが、

栄介だった。

ひとつ年下の栄介は今思えば

その眼差しも人間性を表すように卑しく

髪の毛は薄らと哀れに

いっそ、全て無い方がマシという装いの、

虫唾が走るほどの。

毛蟹やぬらりひょんのような。


恋愛対象では、まるで皆無だった。


出会いといえば出会いだったのだろうか。


職場の同僚の一人から、

なんとなく食事に誘われて

まぁ行ってもいいかという感じで

深く考えず、ついて行った。


2年近く親しく付き合うような、

男もいなかったワタシは。

飢えていたのか、

誰でも良かったのか。



小学生の子供を女一人で育てて

疲れていた。

仕事と、子育てと‥

誰にも言えない苦労と、

誰にも言えない不安。


父親と母親と

子供連れの親子を街で見掛ける。


その

当たり前の幸せが

ワタシの子供には

与えてあげられなかったんだなと。

自ら望んで離婚を選び、

そうしたはずなのに。

あんな男と結婚したばかりに。

こんな目に。



そういう"家族"というものに

もう一度、

戻れるのなら‥

家族が出来るのなら。


隙間にすぅっと‥

頼れるもの。


誰でも


よかったのか‥



だが 


何かの代わりだとか、

嫌だから、

こうしたいとか

逃げるために、

だとか。


そんな選び方をした罰。


栄介を愛していたのか。


仕事を辞めたかったから。

シングルマザーという惨めな女から、

逃れたかっただけだったのか。


ワタシだけのせいではない。

望まれてそうなったのだから。



ワタシは、

両目を瞑っていた。

固く、固く。


真実を、

その裏側を

ワタシは、

見ようとしなかった。



社内で、

部下を怒鳴りつける英介を

電話口で激昂する英介を

個人攻撃する英介を


ワタシには、優しい。


家に帰ると

それとは違う栄介がいたから。

だから

そういう部分は、

ワタシ達には見せない部分なのだろう。

見せる場所は違うのだろうと、

たかを括っていた。


結婚前、

ワタシや子供には優しい栄介だった。



それは見間違いだったのだろうか。

誤解だったのだろうか。



結婚退社する前に

ワタシと栄介の共通の上司に言われたことが、

今でも忘れられない。

「栄介君、見境なく怒ったり、短気なところが見受けられるけど、大丈夫なの?」


ワタシは、

その時一瞬喉元に迫り上がった苦いものと、

何かが頭をかすめた。

だがそれを振り払うように、

なかったものにするように。

こう答えたことを

今でもはっきり思い出すことができる。


「家庭では、全然そんなことないんです」


「ああ、そうなんだ、そうだよね。僕が気にすることではないよね。お幸せに」


上司はそう言って、優しく

興味も無さそうに笑っていた。


そんなふうに

そう言われたからと言って

あの時ワタシは


引き返せたのだろうか。



栄介は

ワタシと子供に、

「お父さんになっていいですか」

「家族になっていいですか」

そう言って、3人で喜んだはずなのに。


子供とワタシは

家族が、父親が出来ると喜んだのに。



あの男。


栄介の性格は異常だった。

異常性格者だった。


他にこんな最悪な性格の人間は

ワタシの人生で、

未だ、見たことは無い。

こんな奴はいない。

きっとこの先もいないことだろう。


とにかく異常な短気だった。

その矛先が最初は、

こちらに向いていなかったので、

それに気がつくのが遅れた。


人間的に許せる短気であれば、

相応に理解を示せる。

だが、アイツは普通じゃない。

ただの短気ではなかった。


最初にその予兆を垣間見たのは

ワタシと子供、そして栄介の3人で出掛けた、

温泉の新婚旅行だった。


温泉ホテルは家族連れや団体客で混み合い、

館内はとても混雑していた。

気をつけて歩かないとすれ違う時に

混み合いぶつかりそうになるのを、

皆気をつけて歩いていた。

栄介が少し先を歩き、

その後をワタシと子供が手を繋ぎ歩いていた。


反対側の流れから、

茶髪パーマでワイシャツのボタンをはだけた若い従業員が笑いながらこちらに向かって、

歩いてくるのが見えていた。

すれ違いざま、栄介はわざと肩を大きく振って歩いて行くのが見えた。

それに気がついた従業員は、

おっと危ない、という様子で

栄介とぶつからないように避けて、

そのまま歩いて行った。


すると栄介は急に振り返って、

従業員が歩いて行った方を怒った様子で

追いかけて行くのが見えた。


ワタシは嫌な予感がして立ち止まり、

その様子を少し離れたところで見ていた。

子供には見せないようにした。


遠目にも大声で栄介が何かを、

捲し立てているのがわかる。

廊下に置いてあったパイプ椅子に

胸元をだらしなくはだけさせて

腕組みして、大きく足を組み、

脱げかかったスリッパを脚先で

苛立ちを表すようにブラブラ動かしている。

通りかかる客は歩きざま

何事かと遠巻きに眺めている。


「てめえ、従業員だろぉがぁ?」

「ぶつかってないじゃないですか」

「いいから、上の奴呼べよ」


何の、言いがかりだろう。

一部始終を見ていたが、ぶつかってはいない。

その様子をワタシは見ていた。


栄介をその場に残して、

先にワタシは子供を連れて部屋に戻った。


子供を寝かせて一時間くらいすると、

栄介が乱暴にドアを開けて部屋に入って来た。

備え付け冷蔵庫から缶ビールを乱暴に取り出し、乱暴に開けて口をつけた。

ワタシはテレビから目を離さずに、

言葉も発さずに

その様子を感じ取っていた。


「俺が悪いのか?」

ワタシは返事をしなかった。

だが、ため息は出てしまっていた。

「あのさぁ、いつでも俺の味方するって言ってたよなぁ?」

イラついて、タバコに火をつける。


確かに、言ったかもしれない。

その時はそのつもりで。

世界中を敵に回しても味方だよって。

本当にそう思ってたのだろうか、ワタシは。

寝物語で、恋愛初期に盛り上がっていた頃。


「言ったけど、今日のは味方出来ないよ」

「はぁ?どこが?」


この人

何が気に入らないのだろう。

そもそも従業員は栄介とぶつかってはいない。

わざとに肩を大きく揺さぶった栄介と、

ぶつからないように避けていた。



栄介の何を?

どこを味方すれと?


何を味方すればいいのか?

怒る意味がわからず、

栄介の行動が理解できない。

それのどこを味方すれと?


他人から見たら作り話のような、

話だろう。

だが栄介にはこれが日常茶飯事だった。



世界中を敵に回してもあなたの味方をするわ。


映画やドラマでヒロインは、

愛する人にそう言い放つ。


ワタシもヒロイン気取りでそう言った。



意味不明な言いがかりを見て、

何を味方すれと言うのだろう。


新婚旅行で

こんなにも早く。

そしてこの時、あの時の上司の言葉、

「大丈夫なの?」


この結婚は‥

栄介との結婚は、

間違えだった‥のではないかと

不吉な後悔が身体中を覆った。



その日を境に、

もう俺の本性を出してもいいだろうと、

安心したように、

栄介の蛮行が始まった。


結婚して、家族になり

釣った魚に餌はやらぬと言うが、

結婚したら途端に本性が

隠されていた栄介の鬼畜さが顔を出した。


車に乗ると、

追い越されただけで逆上する。

信号で止まった時、

飛び出すように降りて行き、

狂ったように車の窓ガラスを叩き

相手を引き摺り下ろす。

車を蹴り上げることもあった。

一緒に車に乗ることもあったが、

毎回生きた心地がしなくて寿命が縮んだ。


コンビニに行けば、

店員の態度が気に食わねえといちいち激怒。

先にヨーグルトを見ていたのに、

横から手を差し出してきたサラリーマンが

気に入らねえと追いかけて行き、

サラリーマンが通報して、警察沙汰。


時間通りに持ってきてくれた宅配便の兄さんにも昼寝してる時に持ってくるな、うるせえと

キレまくる。


外食をすれば隣に座った客の会話が気に食わねえと理不尽に因縁をつける。


すれ違う男の目付きが気に食わねえと追いかけ、

隣の部屋の音がうるせえと、

夜中に玄関のドアを何度も蹴っ飛ばす。


タクシーに乗れば、信号の止まり方が気に入らないだの、運転手に話しかけられただけでうるせぇと怒鳴りつける。


そういった小さなトラブルは、

上げたらきりがない。

一緒に外出すると、

必ず何かしらのトラブルに巻き込まれ、

いや、巻きこむと言った方がよいだろう。

何がそんなに気に入らず、キレまくるのか。

後々、カスハラという言葉が出てくるが、

まさしく栄介もそれに違いない。


他人に見下されたり、そんなそぶりを感じたり

軽い対応をされることを極度に嫌悪し、

そして少しでもそれを感じると許せないようで

普通では考えられないほど、

誰彼構わず、ブチ切れる。


ワタシは、

栄介のような男が自分の夫だと思われるのが、

心底嫌で、

恥ずかしくて、情けなくて、

我慢できなかった。

一度、焼肉屋の店員さんに、

「奥さんなら注意してくださいよ」

と呆れ返って言われたのをきっかけに

精神的に苦痛で、

一緒に外出するのをやめた。

注意したところで反省する奴でもないし、

家に帰れば仕返しされる。

また味方をしていないだとか、

ネチネチ責められ、怒鳴られ、物を壊される。

栄介に注意だなんて、

そんな危険な真似、絶対にするものか。

店員のアンタは今しか栄介にやられないだろうが、ワタシはずっとやられるんだから。




栄介は、

自分はとても偉いと信じ込んでいる。

偉くて、頭が良くて、

金を稼いでいる俺は偉くて、

養って貰っているワタシはバカな奴隷。


俺が養ってやっているお前達は、

素直に言うことを聞くのが当たり前。

俺に逆らうなんて殺すぞ。

それが、栄介の正義。

栄介の思い描いた通りの言動、行動を

ワタシと子供が取らなければ気に入らない。

不機嫌ならまだマシだが、

怒りを態度で、

言葉の暴力や、物に当たり暴れ散らして、

わからせなければ気が済まない。


その一番の餌食、

ターゲットになったのが、

ワタシの子供だった。


栄介は自分が高卒で、

上場企業に就職出来たことを誇りに持ち、

酔っては自慢げに話していた。

下請けの会社や、後輩を怒鳴りつけ

思い通りに仕事してきたことを、

自分は仕事が出来る男だと勘違いしていた。

前夫のヒトシのボンクラが多少遺伝して、

ノンビリやでもの静かで、

マイペースのワタシの子供は

栄介に逆らわなかった。


栄介の過剰で異常な抑圧に毎晩苦しめられた。

その一番の被害者だった。


毎晩毎晩毎晩毎晩、

楽しいはずの食事は"恐怖の食卓"だった。

毎晩、怒りのタネを探し出し、

よくもまぁ、そんなに怒るなと呆れるくらい、

アル中気味の栄介は毎晩酒を煽るように呑んだ。


酒が入ると徐々に目が座り、機嫌が悪くなる。

ワタシや、特に子供の粗探しを、

わざとに探し出し、そして怒る理由付けをする。

風呂に入る音がうるさい。

トイレに入るんじゃねえ。

頭の悪いお前が勉強しても無駄だ。

電気代が勿体無いから早く寝ろ。

こんないい家に住ませて、

こんなにたくさんの物を買い与えたのに

おまえはなぜこんなにバカなんだ。


好きなテレビを見ることすらも、

栄介の機嫌を損ねた。

見ていいと言うから見るのに、

なぜかそれで不機嫌になる。

それは全てに当てはまり、

しろ、していいと許可を出すのに

後になってさせてやったとか、

こんなに金がかかったと

ネチネチ長時間文句を言い、怒鳴る。


どれだけの物を壊されただろう。

パソコン、携帯、ゲーム機、部屋の壁、メガネ


なぜ

この男はこんなに怒るのだろう。

毎晩毎晩飽きもせず。

夜中に起こされ、

ドアを大きな音で閉められ、

大きな咳払いで怒りを示された。

食器をわざとに乱暴に音を鳴らして威嚇された。


いつも怒っている。

毎日怒っている。


栄介の言うことを聞かないと

栄介の思う通りにワタシや子供が動かないと。

何もなくても、何か気に入らなくて怒る。


怒るのは、

ワタシと子供に理由があるからだと言う。

全て、ワタシと子供が悪いのだと。


毎日怒られる恐怖。

ワタシが怒鳴られるのは、嫌だったが、

まだ、我慢ができる。

だが

子供が怒鳴られることが

ワタシには一番我慢ならない。


我慢できない。


ワタシが選んで再婚した相手が

ワタシのせいなのに。

なぜ子供がこんな目に遭わないとならないのか。

それだけがどうしても

許せなかった。


だから子供の部屋に、

夜中怒鳴り込んでいかないかと、

毎日毎晩耳を覚まして、全身を緊張させて、

栄介が出す音を探っていた。


栄介が子供の部屋に、

怒鳴り込んで行くのがわかると、

ワタシは自分の部屋を飛び出して行き、

栄介の背後から飛びかかって、

それを止めた。

毎日のようにそれを繰り返した。


夜中だろうが、

それが試験の前日だろうが、

就活の面接前日だろうが、

栄介は子供の部屋に怒鳴り込んで行き、

勉強道具を破ったり壊したり、

パソコンを持ち上げて叩き壊そうとしたりした。


暴れた次の日の朝になると

昨日は悪かったと

まるで別人のように塩らしく、

何度も謝ってくる。

子供にも悪いことしたと涙ぐむことすらあった。


そして

バカなワタシは‥

あの頃のワタシは、

その塩らしく謝ってきた栄介に

ホッとしてしまうのだ。

優しかった栄介に戻ってくれたと。

普通の生活に戻れるんだと。


安心してしまうのだ。


ワタシもまた異常だとわかっている。

謝罪してきて普通に戻った栄介を見て、

普通の生活に戻れることを、

無駄に期待してしまうのだ。

そんなことでホッとしてしまう、

ワタシも壊れていた。

異常だった。

でもそう、思ってしまうのだ。


そして栄介は言ってくれる。

「お詫びに好きな物をこれで買物しておいで」

そう言って、

クレジットカードを渡される。


ワタシは最初の頃、

買物をしておいで、と言われると

また優しい栄介に戻ってくれたと

嬉しくなってしまっていた。

そして買物をしている時は、

幸せな主婦

裕福な幸せな主婦になれるのだ。

高いバッグに、高級化粧品、

ブランド品の高価な洋服。


だが、

日が過ぎるとまた栄介の機嫌は悪くなり、

「こんなに買物させてやったのに、どうして言うことを聞かないんだ」

と罵られる。


栄介の軌道を逸した他人への行動を目にする度、

ワタシはこんな男が自分の夫だと

他人に思われるのが嫌で嫌で、

嫌いで、情けなくて、辛くて、

恥ずかしくて死にたいほどだった。


どれだけ子供は虐められたかわからない。

あまりにも理不尽で、

理解できない言いがかりで怒鳴るから

ワタシが子供を庇うと、

甘やかし過ぎだ。

過保護だと怒鳴られた。


栄介がワタシが外で働くことを嫌い、

専業主婦でいたワタシは

栄介の収入に頼るしか無く

また栄介は

そのことによってワタシを縛り付けていた。

その癖、

養ってやっていると自負して

おまえになにが出来ると罵られた。


栄介は自分の成功は自分だけの努力と疑わず、

投資で儲けた金を自分が稼いだものだと

独り占めにした。

金の出所が自分が働いて稼いだ金ということから全て金を管理した。

そして心配しても忠告しても聞き入れず、

したところで「俺の考えを否定するのか」と、

怒り出し、怒り出すと宥める方が面倒なので

ワタシは何も言わなくなった。

失敗でも何でもすればいい。

そう思った。

だが成功は自分だけの手柄、

失敗した時はおまえらの為にしたことだ、

おまえらのせいだと逆ギレされた。


だから、

つまらない投資詐欺に2度も遭って、

五千万円近く失った。

ヤクザの元親分と国会議員の元秘書などという、わかりやすい詐欺話に瞳を輝かせ、

偽投資話に嬉々として乗った。

儲かったらエルメスのバーキンを買ってやる。

日本の路面店で手に入らなくても、

ヤクザの元親分の知り合いに習近平の中国人の従姉妹がいるからその女に頼めば買える。

などと真顔で言われ、

3000万円の車マセラティに乗り換えるのはどうだと夢のようなことを話す。

金が入ってもいないのに。

大丈夫なの?とワタシが恐る恐る言うと、

案の定、みるみる怒り出し、

「俺が決めたことに文句言うのか?」

俺が決めたことに意見するなと怒鳴られたので

どうぞご勝手にと黙った。


「銀座の地下にある政治家や著名な人しか利用しないルノアール」

そんな特別なルノアールで待ち合わせたと、

まんまと国会議員の元秘書にそそのかされた。

そんな特別なルノアールで待ち合わせるんだから俺も特別な男と詐欺師に現金で3000万円渡し、

証拠も残さず、栄輔は手渡した。


ハワイが大好きだった栄介は、

アラモアナショッピングセンターのよくわからない権利を得たといい、

ありもしないフジヤマカレーという名の投資話を嬉々として話し出した。

日本のホテルのラウンジでの説明会という意味不明で怪しげな詐欺師に唆された。

グリーンカードだか永住権だかを得る怪しげな投資詐欺にも遭い、数千万失っている。


ハワイの一週間しか滞在できないホテルの部屋の権利にも1200万円近く支払い、

結局一度も宿泊することは無かった。


失敗や悪いことは全てワタシ達の為にしたことで、悪い結果になればそれもワタシのせいだと

何度も責められた。

他人の意見は聞き入れない癖に、

出した答えを他人のせいにする器の小さい最低の男だった。



栄介が毎晩酒を呑んだくれて、暴れて、

その謝罪に買物させて貰った金額は

相当なものだろうと思う。

栄介のその性格、

自分は誰よりも偉い。

少しでも自分を否定されようものなら、

烈火の如く怒り出す。

いくら短気でも異常過ぎるのではと調べ、

辿り着いたのが

自己愛性人格障害というものだった。


これなんじゃないの?

ワタシはURLを栄介に送りつけたら

あっさりそうかもしれないとそれを認めた。

自分は子供の頃、

父親に親戚に預けられそうになったことを

今でも根に持っていると言っていた。

自己愛性人格障害というものは、

子供の頃、親に愛情を十分与えられず不安なまま育ったことが根底にある場合があるらしく、

それが他人を信用出来ず、

少しでも自分を否定されると過剰に攻撃する面があるらしかった。


そういう理由があるなら、

ワタシと子供が家族になって、

足りない面を補ってやることも

出来たのだろうが、

なにしろ、他人を信用しない。


どう思う?と聞かれたから

こう思うと答えたら

否定されたと思い込み、

俺に意見するな、俺が考えて決めたことに間違いは無いんだと怒鳴られる。

イエスマンでいればいいと思うだろうが、

賛同できないほど、理不尽なことを言われることが多々ある。

こう、と思い込んだら何をどう説明しようが

一切聞き入れず、信じない。

そして、何もかも気に入らず怒鳴られる。

毎晩、酒を呑んで不機嫌になら暴れる。


朝起きてベッドの上でぼおっと天井を見る。

昨日は暴れなかった?

え、どうだった‥っけ?

はっとする。

寝てしまった!

昨日は子供の部屋に怒鳴り込んで行っていなかったのだろうかと心配になって、

飛び起きる。



投資に成功して起業し、

上場企業を早期退職して在宅になった栄介は

一日中家にいるようになった。

専業主婦だったワタシと一日中狭い家の中で、

顔を合わせるようになった。

掃除機をかけることすらままならず、

息が詰まる生活だった。

会社に勤めていた頃は朝早く出掛けて夜遅く帰る生活だったので顔を合わせる時間は僅かだった。


起業したことにより、

資金繰りの不安から酒量が増加していた。

不安を怒りにすり替え、ワタシに当たり散らす。

それを受け止めきれるような怒りでは無く、

言葉の暴力そのもので、

ワタシは日に日に追い詰められていった。


栄介が一日中居る家に居ることが苦痛で、

居ることだけならいいのだが、

不機嫌だったり怒鳴られたりするから、

用もないのに朝から出掛けて、

一軒目のカフェで3時間居座り時間を潰し、

ファミレスで何時間も粘り、

ずっと座っていても怪しまれない場所で時間をやり過ごし、夕方4時半頃に嫌々帰宅した。


外出して、家までの道のりを歩いていると、

段々下腹が痛くなってくる。

帰る頃には我慢できず、

玄関を開けた途端トイレに駆け込むと

水のような下痢が出た。



そんな生活が一年弱続いた。

身も精神も

ワタシも子供も疲れ果てていた。


子供は大学生になり

来年卒業と就職を控えていた。

大学を卒業したら、子供を独り立ちさせて

ワタシは何処か温泉宿にでも住み込みで、

働けるところを探して、

栄介から離れようと考えていた。

栄介のいるこの家を出ようと考えていた。


少しずつ生活費を切り詰め、金を貯めた。

そんな時、宝くじが当たる。

70万円という金額だったが、

今後のワタシの人生を見越したような、

そんな当選だった。

捨てたもんじゃないなと思った。


その翌月、事件が起こる。


その晩の食事も栄介はすこぶる機嫌が悪く、

いつものように酒を浴びるように呑んでいた。

「おまえらに幾ら金がかかっていると思っているんだ、わかるのか?」

「俺がどんなに苦労しておまえらを食わせているのか、わかっているのか?」とか、

「おまえらに俺の金は渡さねぇ」

「俺の作った会社を、何の苦労もしてねぇおまえのような子供には渡さねえ」

通常運転の金についての文句を、

くどくどと同じようなことを

また言い始めた。


テレビのCMで、

他所の国の恵まれない子供に寄付をしましょうと働きかける広告が流れると、

あからさまに嫌味を含ませて、

ペンと紙、取ってとワタシに言い、

わかりやすく流れた電話番号をメモする。

ため息が漏れそうになるのを堪え、

同じ食卓に長居すると、

ロクなことにならないのはわかっているから

早々に自分の食器を片付けて、

立ち上がった。


子供に会社なんか継がせないからと

何度も言ったし、

そんなに嫌ならワタシも働くと言うのに、

金は俺が稼ぐ。

子供の学費も心配するなと言う。

一体、どっちなんだと腑が煮え繰り返る。

いつも金のことで喧嘩になる。

喧嘩、というより一方的に栄介が怒り、

キレまくるだけなのだが。


金しか信用出来ず、

稼ぐ金でしか自分を評価出来ない。

そして

稼ぐ栄介しかワタシは必要としていない。


そう、栄介は言う。


だとしたら?

そうさせたのは、栄介あなたではないのか?



こんな

こんな、頭のおかしい男。

誰が愛すると言うのだろう?

ワタシは贅沢?

経済的には裕福で、

買物三昧の生活をさせて貰っている?

だから、贅沢?


毎日、毎日怒鳴られるような生活。

ワタシが悪いから

子供が悪いから

俺は怒鳴るんだ、怒るのだと。


ワタシ達が悪いの?


悪いところもあったかもしれない。


栄介に甘えて贅沢を

過剰な贅沢をさせて貰ったのかもしれない。


だがそれも栄介が、

自分の怒りの代償として差し出したもの。


そしてワタシも。


精神的に疲れ果て、朝追い詰められていた。


買物してるときだけ。

高価なブランド物のバッグやアクセサリー

たくさんの洋服を取っ替え引っ替え。


そんな時だけは

幸せな気持ちに

嫌なことを忘れられた


たぶんワタシは

買物依存症だったのだろう。



栄介はその夜

いつもよりも暴れた。


子供部屋のクローゼットから

全ての洋服を放り投げ、

机や本棚からすべての物を放り投げ

グチャグチャにした。

置いてあったペットボトルのお茶を、

部屋中にかけて水浸しにして

壁を蹴っ飛ばし

パソコンやゲーム機や、キーボードや、

あとは何を壊されたかも覚えていない。

そして、

子供の頭を蹴った。


ワタシは栄介の頭を、

ゲンコツでぶっ叩いた。

首も絞めたかもしれない。

覚えていない。

殺してやろうと思った。

本気で。

死ねと思った。

コイツさえいなければと。


紙一重、だったと思う。


もうダメだ。

ワタシは携帯から警察に110番した。

「夫が酒を呑んで暴れています。

すぐ来てください!」

上手く声が出せず、低くて震えて、

まるで自分の声ではない声のよう。


警察官が来るまで20分経っていたのだろうか。とてつもなく長い時間に思えた。

賃貸で借りていた都心の一等地のマンションには現役大臣が住んでいて警察官が常駐していた。

24時間体制で立っているその警官でいいから、

すぐに来てくれないかと窓から覗いてみた。


「警察呼んだからね」

ワタシは栄介に言った。

「警察呼んでどうすんだよ」

バカじゃねえの?

栄介は座り込んだ。

警察官が到着するまでは、

とにかく

子供と栄介を引き離すことだけに集中した。


警察官が到着すると、

更に栄介は激昂してキレ出した。

「警察官さんよお、ああ?

俺が悪いんすかね?」

「こんな大きな子供ですよ?」

警察官は酔って絡む栄介を、

まぁまぁと宥めていたが、

酒が入っている栄介は止まらない。

警察官にまで殴りかかろうとして、

ワタシもそれを止めに入った。

「ちょっとやめなって、いい加減にしなよ」


警察官が来ても暴れる栄介を見て、

この男、やっばり異常だ

と思った。

警察官も

「ここに居ては危険なので、一緒に交番に行きましょう」

と慌てて家を出ることにした。

「おあ?逃げるのか?てめえらぁ!」

子供の携帯を取り上げ、栄介は床に叩きつけた。

携帯から火花が出て、画面が割れた。

それを尻目に警察官とワタシと子供は、

家を後にした。


エレベーターの中で警察官は、

「いつも、あんな感じなんすか?」

と聞いてきた。

「そうですね」

お酒呑んだら手をつけられないですね。

ワタシは答えた。

マンションのエントランスに降りると、

到着した生活安全課の刑事が2人いた。


交番までワタシと子供、警察官と刑事二人。

その5人でパトカーに乗った。

生活安全課の刑事は、

なんで一人で行ったんだ?と、

警察官に言っていた。


夜中の1時過ぎ、

いつも歩いていた道路をパトカーの中から

その光景を見るとは

思いもしなかった。

車の中からもパトカーの赤ランプは赤く、

眩しいんだなぁとぼんやり思っていた。


警察署に着くと、

ひと通り経緯を聞かれた。

事件にするか、しないかを聞かれ

事件って。

訴えることだと言う。

そんなこと、今は考えられず。

どうしようと思ったら。

すぐに答えを出さなければならず、

しかたないので、

事件にまでする気は無い

と言うと

刑事は僅かながらに

興味を無くしたように見えた。


でも後々、後になって

この時、事件にしなかったことを

心底後悔する。

少しだけ残った、栄介への憐れみに

自分のつまらない優しさに。

いや、

事件にするという大ごとにする勇気が、

そのときは無かっただけなのかもしれない。


ワタシはまだ何が起こったのか、

実感が沸いてこず

でも。

これからどうしよう

この先、ワタシ達はどうなるんだろうと

漠然と思っては、いた。


刑事は

「もうこんなになったら別居して離婚でしょ?」

と言った。

そうですよね‥と答えたが、

なんだか置かれた状況にも、

別居にも、離婚にも実感が沸いてこない。


異常ながらも

栄介が毎晩暴れる生活が常態化しており

昨日までは

それが、そんな生活が、

普通の生活になっており

突然、別居、離婚となると

それはそれで

なんだか上手く言えないが

他人事のようで、

実感が無いのだ。


住むところが無いならと

DVシェルターみたいな所を紹介されたが

保証金が100万円必要だと言う。

なんでも以前入所したDV被害女性が、

突然行方不明になったことから

そういうシステムになったらしいと言われた。

100万円って。

100万円という金額を、

出せない訳ではなかったが、

ワタシは子供が大学生だった為、

入居資格は無く、

別をあたるように言われた。

だが、ワタシ当てはまらなかったが、

夫にDVされて家を追われるように逃げ出して来た人に100万円払えと言うのも酷なのではと、

思っていた。

何のためのシェルターなのかと。


とりあえず

近くのビジネスホテルを一週間予約した。

セミダブルの部屋を一部屋、

子供と宿泊することになった。

その期間で今後住む部屋を、

探さなければならないのだ。


生活安全課の刑事が、

身の回りのものが必要だろうと、

家に付き添ってくれると言ってくれた。

刑事はその時話した栄介を見て、

「今は案外普通だね。飲むと変わるの?ダンナ」

普通に見えるけどねと言う。

刑事にはわからないだろう。

酒を呑んだ時の、その豹変を。



栄介からこの間に何度かメールが来ていた。

自分が何をしたのか、

酔っていて、よく覚えていない。

子供に怪我をさせて申し訳ない。

反省しているので、

もう一度戻ってくる気はないか。

そういう内容だった。



ワタシはまだ混乱していて、

気持ちの整理がついていない。

まだ家にいる戻るかにはなれないと返信した。


その日から約10年間

別居している。



そしてここからまた新たな戦いが、

始まる。
















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