瀬川と大宮

福岡辰弥

徘徊老人と密室

 休日に瀬川と会うのは実は初めてのことかもしれないな、と大宮は考える。

 とは言え、それでは平日によく会っているのかと言えば、その表現も正しいとは言いがたい。そもそも、瀬川と会うのは約五年ぶりのことだった。そのさらに前も、七年近く会っていない。前回は仕事中——より正確を期すなら、業後の飲み会中——に数時間だけ再会しただけである。つまり、大きな範囲で言えば十二年ぶりの再会、ということになる。

 その十二年前のことを思い出すと、しかし、つい昨日のことのように思えるから不思議なものだった。と言っても、十二年前にしてみたって、瀬川と大宮は平日も休日も問わずに顔を合わせるような付き合い方をしていたわけではない。いわゆる腐れ縁というやつで、小学校から大学までずっと一緒だっただけだ。別々のクラスになれば疎遠にもなったし、同じクラスで、しかも同じ部活動に入った時は一番距離が縮まった。しかしお互いに——恐らく瀬川も——この関係に『親友』という呼称は用いないだろう。

 ただ何となく、大宮にとって瀬川という人間は忘れがたい人物であり、いよいよ行き詰まった今回のような状況において、自分から連絡を取るという——有り体に言えば、頼りたくなるような人物であることは確かだった。そして、自分がそういう立場に甘えることにも、抵抗感がないような人物であった。

 決して、押しに弱いとか、頼みやすい人間であるという意味ではない。それよりももっと大きな存在——大樹とか、海原とか、そういう自然的なものに近い印象を大宮は持っていた。もちろんそんなことは、本人に言えるわけもないが。

 久しぶりの再会に胸を躍らせていたわけではなかったが、大宮は待ち合わせ時間よりも三十分以上早く、地元のファミレスにやってきていた。今現在、大宮は東京で一人暮らしをしているため、地元に帰ってくるのは約半年ぶりだった。年末年始に実家に帰省し、それ以来の帰省となる。何の意味もなくスマートフォンで日付を確認してから、視線を上げ、目の前にある窓の外を眺めた。文句の付けようのない快晴だった。六月六日と言えば雨が降るんじゃなかったのか、と大宮は思ったが、ただの迷信らしい。いや、そもそも絵描き歌が元ネタだったか……考えながら次に店の中にある時計に目を向ける。待ち合わせ時間の十分前だった。ドリンクバーを頼んでいたので、もう一杯ホットコーヒーをもらおうと立ち上がる。店内には学生と思しき団体と、家族連れ、行き場のない老人が混ざり合っていた。午前九時開店、現在時刻は午前九時五十分。だというのに、ほとんど空席はない。みんな案外、健康的なんだなと思う。

 ホットコーヒーを注ぎ、席に戻る。

 ソファ席に、瀬川が座っていた。

 一目見てそうだとわかるくらい、あの頃のままだった。

「ああ……びっくりした。いつの間に来たんだ、お前」

「おはよう」瀬川は抑揚のない声で言った。「つい、今しがた」

「二分も席を空けてなかったのに。ていうか、店員さんもよくわかったな、ここの席って」

「いや、僕が待ち合わせだと言って、勝手にここに座った」

「なんでこの席ってわかったんだ?」

「聞きたいか?」瀬川は少しだけ、口元を歪める。「面白い推理がふたつと、面白くない推理がひとつある」

 大宮は、変わっていないな、と感じ、つい破顔した。瀬川という男のもったいぶった話し方もそうだが、何よりもこの空気感というか、お互いの関係性が当時のままであることに驚いた。本当に、つい昨日も会ったばかりのような気持ちになる。

「面白い推理を先に聞こう」

「その前に、僕も紅茶をいただこうかな」

 自分のドリンクバーが既に注文されていることを知っているような口ぶりだった。大宮は、瀬川が席を立った二分程度の時間で、何故瀬川がそのような仮説に至ったかを考えてみる。こんなに脳を動かすのは久しぶりのことだったが、何故だか当時と同じく、考えるよりも先に考えていた。

「すごいね、茶葉がいくつもあったよ。僕はアールグレイにした」と、ティーカップとソーサーを丁寧に持って瀬川が戻ってくる。「何か考えている顔だね」そして、大宮の対面に座るなり、そう言った。

「何故注文するより早くドリンクバーを取りに行ったのか、について考えていた」

「ふうん。答えは?」

「伝票を見た」

「まあそうなるね」と、特に気にする様子もなく、瀬川は言った。「面白くないタイプの推理だ」

「前にも言ったけど、お前は極端にコミュニケーションを排除するのが悪いところだ。普通、わかっていても、『僕のドリンクバーも頼んでくれた? そう、ありがとう。じゃあ紅茶をもらってくるね』と言って席を立つのが普通だろ」

「僕が普通だったら、今ここに呼ばれてないよ」

 瀬川の言い分はもっともだったので、大宮はそれ以上何も言わなかった。

「で、面白い推理だったね」瀬川は言う。「僕は大宮の性格や人格、人間性なんかを理解しているものと仮定する。つまり、大宮の好みとか、そういうものを熟知している。行動パターンなんかも把握している」

「俺のバッグを見て、ここが俺の席だと判断したわけか」

「バッグの好みね。まあそれもいいけど、それだと面白くないな。例えば……コーヒーカップのソーサーは残っているのに、スプーンがなかった。大宮晶という男は、コーヒーにミルクは入れないが、砂糖は入れる人物であると僕は知っている。席から戻ってくる間にかき混ぜるために、スプーンを持ってドリンクバーコーナーに向かった」

 その推理は正しかった。大宮は感心すると同時に、懐かしい気持ちを味わっていた。

「さらに言えば、大宮晶という男はスプーンをカップに入れたままでコーヒーを飲む。器用にもね。そこまで熟知しているから、そう判断出来た」

「最後の蛇足みたいな説明はなんだ? ……いや、実際に俺はそうやってコーヒーを飲むんだが」

「ソーサーが汚れていなかった。普通、スプーンを一度置けば汚れる。真っ白なソーサーのどこにも汚れがないということはあり得ない。考えられるとすれば、スプーンを使わなかったか、または汚れを拭き取ったかのどちらかだろうね」

「だったらそのどちらかかもしれない。そもそも俺が一杯目はコーヒーを飲まなかったかもしれないじゃないか。砂糖を入れなかったかもしれない」

「だからあくまでも仮説。面白い推理だよ」と、瀬川は抑揚なく言う。「普通はソーサーが汚れていなかったらスプーンを使わなかった、あるいは汚れるのが嫌だからナプキンで拭き取った、ということが考えられるけれど、大宮晶という男がスプーンを入れたままコーヒーを飲む人間だということがわかると、一見不思議に思える行動に意味が生まれる。だから面白い推理なんじゃないか」

「いつ思いついたんだ?」

「大宮がコーヒーカップを持って戻ってくるまでの間に考えた」

 つまり、今まで瀬川が語った推理は、実際には大宮の席を特定するに至った理論ではなく、単なる空想の産物だということだった。

「もうひとつは?」

「休日の午前中は、想像以上にファミレスが混む。ショッピングモールに買い物に行こうとする学生連中なんかは、ファミレスで朝食がてら集合するケースもある。外でたむろするより健康的だし、食べても食べなくてもどっちでもいいし、遅刻癖のある友人とつるんでいるなら、時間調節も簡単になる。とりあえずドリンクバーがあるからね。家族連れは、遠出の前の腹ごしらえかな。少なくともこの店は駐車場も広いし、このまま街道を下って行けば高速にも乗りやすい。近所に住む老人たちにとっては、古びた喫茶店に行くより、若者たちの活気が感じられるし、何より長居しやすいのが利点だ。さて、そんな休日午前のファミレスで誰かと待ち合わせをするような人間には、案内されやすい席がある。多くの人間が好まない僻地と言うべき座席で、片方はソファ席、片方は椅子。交通量の多い導線に干渉しているから、ゆっくりとお喋りするには不向き。長居には向かない。そんな座席において、ソーサーが椅子側に配置されていて、バッグも椅子に掛かっていた。普通、一人での利用ならソファ席に座る。だが、一応なりともホストとしての精神を持っていた大宮晶という男は、椅子側を選択して、僕にソファ席を勧めた」

「綺麗な推理だ」大宮は素直に評価した。「さっきの、コーヒーカップがどうのという推理よりも格段に美しい」

「ただ、そんな席が本当にあるのかは知らない」と、瀬川は肩を竦める。「そもそも、店側からすれば回転率を上げるためにも、長居しそうな客にこそそういう悪い席を勧めるべきだろうから、待ち合わせをしてすぐに出て行くかもしれない、休日なのにジャケットを着たサラリーマン風の男をどこに通すかなんて、別段考えもしないだろうね」

「なら、後半だけでいいんじゃないか?」

「椅子がバッグに掛かっていて、ソーサーが椅子側にあった?」

「そうそう」

「それじゃ面白くないじゃない」と、瀬川は笑いながら言う。「前提があるから面白いんだよ。それに、他の人物についても描写が出来るから、なんとなく人混みをイメージしやすいと思わない? 地域の雰囲気みたいなものが、何となく描ける」

「わざわざ必要か?」

「慣れというか、これは習慣みたいなものなのかもね」と、瀬川は遠い目をしながら言う。「わざわざ老人について言及する部分なんて、特にそういう習慣によるものが大きいと個人的には思う。都会なんてあまり行かないからわからないけど——田舎の老人とは多分、種類が違うんだろう?」

「そんなことはないと思うぞ。お洒落で元気な老人もいれば、明日死ぬかもわからん老人だって、スタバでコーヒーを飲む」

「そういうものか。でも、田舎と違って、徘徊老人に関する放送が流れたりはしないんでしょう、都会は」

「それは……どうだろうな」徘徊老人、という言葉に、大宮は少しだけ驚いた。世間話の延長で出てくる言葉にしては、不気味な響きだった。「少なくとも向こうじゃ聞いたことがないかもしれない」

「うちじゃ相変わらず、日常茶飯事だよ。どんな恰好をしていて、いついつの何時頃から姿が見えなくなったか——なんてことを、大々的に放送してる。そういうのを防ぐためには、やっぱり目的を持って歩いて、人と交流することが大事なんだとすり込まれてる。どうして休日の午前中は、ファミレスに老人が増えるんだと思う?」

「どうしてなんだ?」

「病院は休みのところが多いから」瀬川は楽しそうに言って、紅茶を口に含む。「ファミレスとか、イオンとか、そういうところに目的を持って行くっていうのが、大切なんだよ。毎日が昨日と変わらないことの繰り返しになるから、曜日感覚というか、毎日に変わった予定を詰めないといけなくなる。休日も病院の待合室でたむろしてたら、曜日感覚なんてあっという間に崩壊するよ。だから老人は休日にファミレスに来る。周りも休みだから、休日って感覚を味わえる。そういう——なんていうか、大きな視点から説明して、世界観を共有したあとで、小さな視点を詳細に語る。そういうのが習慣付いてるんだ。僕が最初に、全ての座席を見るんじゃなく、ある程度絞ってから推理する、というのが物語において重要なんだ」

「まあ、そういうもんかもしれないな。全ての選択肢を考えるという物量作戦的な推理は、あまり美しいとは言えないか」

「そうなんだよ。ちなみにこれは、過去の経験に基づいて考えた推理」

「で、面白くない推理は?」

「来る途中、窓越しにお前が座ってるのが見えた」

 大宮は溜息をついた。しかしこれは、満足成分の高い溜息だった。椅子側——つまり、通路を背にして座っていた大宮は必然的に、窓を向いて座っていることになる。外から見れば、大宮の顔がわかるということだ。しかもソファ側には誰も座っていないのだから、もし顔まで見えなかったとしても、二人掛けのテーブルで、椅子側に座っている男がいれば、それだけでも目立つのかもしれない。

「いや、割と面白かったよ」と、大宮は素直な感想を口にする。「全てを複合しても特に齟齬がない。ひとつの大きな推理にしてもいいんじゃないか」

「まあ、そういう手法もあるね」

 瀬川は興味なさそうに言ってから、紅茶を口に含む。既にティーバッグは、ナプキンに包まれてテーブルの隅に鎮座していた。

「そう言えば瀬川、もう小説は書いてないのか」

 大宮は世間話を振ってみた。瀬川は怪訝そうな表情をして、「アイスブレイクのつもり?」と尋ねる。

「アイスブレイク。お前がそんな横文字を使うようになるとは」

「横文字くらい使うよ。ファミレス、とかね」

「いやなんだ……いわゆる、イキったサラリーマンが使うような、という意味だよ。アジェンダだの、ファシリテーターだの、ジャストアイディアだの、そういう類の」

「アイスブレイクという言葉は、そういう類なのかな。まあ僕もかれこれ、社会人歴十年以上だからね。日常会話として取り入れてはいるよ」

「お前が社会人をやっているのが本当に想像出来ない」

 五年前にも思ったことを、大宮はまた思った。大宮から見た瀬川という男、という印象以上にも、そもそも今現在目の前に座っている中年男性は、しかし見た目からは大学生らしい雰囲気しか感じられない。あるいは、学生服でも着ていれば高校生と言っても通じる可能性すらある。童顔というよりは、少年顔とでも言うのだろうか。世間に興味がないような、研いだナイフのような鋭さをした顔つきは、昔のままと言えた。それこそ、瀬川と初めて会った当初とほとんど変わりがない。

「普通のサラリーマンだよ、僕は。おじさんサラリーマン」

「にわかには信じられん……」

「そう言えば、最近昇進した」と、瀬川は財布から一枚の紙片を取り出す。名刺のようだった。「小さな会社だから、肩書なんか知れてるけど。現状報告も兼ねて」

「こりゃどうも……え、課長? お前が?」

 名刺と瀬川を交互に見ながら、大宮が尋ねる。課長は愚か、生徒会だの、学級委員だのというものとさえ縁遠かったような人間が、課長。

「小さい会社だから、ほとんど年次で役職を与えられるんだよ。百人もいないからね。あと、うちには係というものがないから、係長という役職はない」

「はー……驚きだな」

「そういう大宮は」

「これは失礼」言って、大宮もバッグから名刺入れを取り出す。「俺はお前と違って、いわゆる万年係長ってやつだ」

「規模が違うよ。ありがとう」名刺を受け取り、それを一瞥すると、瀬川はすぐに財布に入れた。「こういう肩書というのはイメージが先行するから、例えば『課長』というとすごく優秀な人間に見えるかもしれない。特に、僕みたいに三十代前半で『課長』ともなると、非常に優れた人間に見える。しかし実態は、長い間少人数で運営していた会社がITバブルに似たものに乗っかって中途半端に成長して、そのおかげで社員数が増え、それをまとめるのに丁度良い経験をした人間がいないから、消去法で選ばれているだけだ。逆にこういうのは、叙述トリックに使えるかもしれないね。うちの上層部は高齢者が多いから、玉突きで僕が四十代で部長をやっている可能性もある。僕を非常に優秀な人間だと誤認させるための叙述トリックだ」

「お前は優秀だよ瀬川」と、お世辞ではなく、本気で大宮は言う。「仕事が出来るかどうかは知らないが——少なくとも優秀な人間であることは間違いない。俺が保証する」

「それはどうもありがとう」

 屈託なく言って、瀬川は席を立つ。その意味するところは理解出来たので、大宮は何も言わなかった。何となく瀬川の背中を視線で追う。中肉中背——と言っても、一般的な中年男性と比べると非常に線が細い——の瀬川には、目立った特徴はない。髪は長くなく、整髪もしていない。眼鏡は掛けておらず、ホクロや火傷痕などの目立ったものもない。服装も至って平凡。今日はジーンズに、赤と黒のチェックのシャツ。靴はスニーカー。アクセサリーの類は何も見当たらない。つまり、未だ独身なのだろう。涼やかで若々しい顔つきが唯一特徴と言えたかもしれないが、とびきりの美青年というわけでもない。単に、少年らしい顔つきなだけだ。もっとも、年齢から考えれば、それだけでも十分に特徴と言えたのかもしれないが。

「今度はダージリンにしたよ」わざわざ意味のない報告しながら、瀬川は戻ってくる。

「ところでさっきの話の続きだが」

「小説ね。まあ、趣味程度には書いてるよ」と、瀬川は半ば諦め気味に言った。「最終手段というか、本当に何もやることがなくなった時に、少し書いて、それで満足して辞めている。書きかけの小説が大量に溜まっているよ」

「完成させればいいじゃないか」

「なかなかね。社会人という大義名分があるから、本腰を入れていないというのが正確なところかな。今の生活には十分満足しているし、今更天才たちと張り合う気はない」

「天才ねぇ」

「二十歳かそこらでデビューして、それからもずっと良質な小説を生み出す天才たちがいるんだから、僕らはそれを享受していれば十分だよ。そういう天才は不思議なことに、何人もいて、読む本には困らない。特にここ数年、読書スピードは格段に落ちたから、話題作を週に一冊読むだけでも、十分に供給は保たれる」

「未だに趣味は読書か」

「まあそうだね」

「お前、休日とかは何をしてるんだ?」

「そりゃあ」

「俺と会ってる、みたいなのはなしだぞ」

 釘を刺され、瀬川は曖昧に微笑んだあと、「まあ、日が出ているうちは散歩をしたり、本屋に行ったり、家事をしたり……それくらいかな。人と会うことは滅多にない。あとはジムに行ったりするくらいかな。夜は読書」

「ジム! お前がジム通いだと?」

「ジムくらい通うよ」

「それほどまでに一般的な趣味になった、ということか……」

「大宮も少しは運動した方がいいかもしれないね。中年らしい体型になってる」

「余計なお世話だ」

「そっちこそ休日は何をして過ごしてるわけ」

「俺か? 俺は……」言って伝わるのだろうか、と思ったが、隠すことでもないか、と思い直す。「動画配信を見たり、映画を観たり……まあ、ほとんどネットだな。ゲームなんかもまだやってる。スマホでだけどな」

「別にいいじゃないか」

「もちろんそう思っているんだが、お前を前にすると、不思議と後ろめたい気持ちになる」

「僕もゲームくらいするよ」

「お前がゲームをするのか」

「するよ。パズルゲームとか。今もアプリが入ってる」

「そもそもお前がネットを利用するというのが信じられん」

「僕を何だと思っているわけ」瀬川は笑いながら言う。「まあ確かに、普段あまり利用はしないけどね。うちの会社でも、例の期間に在宅勤務という形態が可能になったから、諦めてネット回線を家に引いたよ。幸い、マンション自体に光ケーブルが通っていたから、実際にはプロバイダ契約をするだけで済んでいて、月々千円未満で使えている。でも、仕事以外で使うことはほとんどないかな。ネットニュースを少し読むくらい」

「仙人みたいな生活だな」

「仙人は紅茶なんて飲まないんじゃないかな」

 瀬川がダージリンを一口飲んだところで、大宮はそろそろ良いタイミングだろう、と思い立ち、バッグからクリアファイルを取り出した。

「そろそろ本題?」

「俺もお前と懐かしい思い出話に浸っていたいよ」

「そういうことは言ってないけど、まあいいや。当てようか?」

「うん?」

「大宮の依頼内容」

 急にそんな挑戦的なことを言われ、大宮は一瞬、動きを止めた。

 こいつなら本当に当ててしまうのではないか、という信頼によるものだ。だが、それを当てたところで、結果は変わらない。面白くはあるけれど、意味のないことだ。

「いや、流石に無理だ」大宮は言って、クリアファイルを瀬川に差し出す。「事の顛末を資料にまとめてきた」

「久しぶりに見るね、『大宮資料』だ。大宮こそ、小説書いてないの?」

「俺は綺麗さっぱり足を洗ったよ」

「要するに僕への依頼は、安楽椅子探偵みたいなものだよね」と、瀬川はクリアファイルの中身を見るより前に言った。「大宮の周りで不思議な出来事が起こって、どう考えても論理的に説明が付かない。だけど、警察に届けるほどの問題でもない。放っておけば事件は風化されて、みんな忘れてしまう。しかし、『不思議なこともあるもんだね』と言って放置しておけるほど、大宮晶という男は謎に鈍感じゃない」

「……まあ、大体そんなところだ。よくわかるな」

「わかるよそれくらい。わざわざ僕を呼び出すくらいだし、大宮はそういう人間だよね。どれだけ時間が掛かっても、謎と真摯に向き合う姿勢を持ってる。でも、タイムリミット——と言うより、これ以上の推理が自分だけの力では出来ないと判断した。そこで僕に声を掛けてきた。違う?」

「……不服ながらその通りだ」

「嫌味な言い方だったね」と、瀬川は素直に認める。「ただ誤解しないで欲しいのは、僕は大宮を甘く見ているわけじゃないってこと。というより、どちらかと言うと……」

「わかってる。確かに俺の方が文才があった」

「嫌味だねぇ」と、瀬川は言う。しかしそこに、嫌悪の感情はなかった。「以前もこんな話をした気がするけど、僕と大宮が合体すれば、それこそ良い小説が書けたんじゃないかな。原案担当と、執筆担当」

「小説ってそういう分業スタイル、未だに見かけないな」

「不思議だよね。編集がそういう役割を担っているのか、歴史的背景によるものか」

「とにかく……資料を見てくれ。これは本当に、俺の個人的な依頼だ。お前が言う通り、警察に厄介になるような話でもないし、人が死んだわけでもない。まあちょっとした事件に発展しかけたのは確かだが……瑣末な問題だ。それよりも、こんなことが本当に起こるのかどうかを、俺は知りたい」

「大宮の視点から見ると、それは確かに起こったんでしょう?」

「ああ、確かに起こった」


「——起こったことは、説明できるよ」


 大宮はその言葉を聞いて、なんとも言えない懐かしさを思い出していた。学生時代、幾度となく聞いてきた言葉だった。どんなシチュエーションで聞いたのか、ということも、少しずつ思い出されてくる。一緒にマジックショーの録画を見た時に聞いたこともあったし、騒動に巻き込まれた時にも聞いたことがあった。あるいは、些細な記憶違いによる言い争いの中でも聞いた記憶がある。そしてそのどれに対しても、瀬川は完璧なまでの理論を打ち立てた。そういう経験から、大宮は瀬川に対して、絶対的な信頼を置いていた。無論、日常生活でそうそう謎と対峙することはないので、実際に十二年近く音信不通になっていたのだが、その絶対的な信頼は、十二年という時を経ても尚、色褪せなかった。

「せっかくなんだから、推理しよう」と、瀬川はクリアファイルに手を置いて、大宮に視線を向ける。「まず、現場は大宮の実家だ」

「なんでそう思う」

「いや、もう少し前提から話すべきか。僕はこういう、組み立てがやっぱり苦手なんだよね」と瀬川は言う。文才についての釈明だろう。「資料まで用意しているわけだから、この資料は本来、PDFか何かで僕に送付して、推理を依頼すれば済む。いくら僕がインターネットと縁のなさそうな男と言っても、今回の約束はメッセージを通じてやりとりしたわけだから、そこに資料を添付することは出来る。それをしなかったのは、現場が地元にあるからだ。そうじゃなければ、大宮がわざわざ帰省する必要はない。もっとも、帰省のついでに……という見方も可能だけど、普通、旧友の男二人が地元で再会するって言うのに、午前中のファミレスで待ち合わせってのはどうもね。一般的に言えば、夕方から早めに集合して、飲みに行くっていうのが筋ってもんだろうし」

 大宮は何も言わない。その説明は理路整然としていた。特に非の打ち所はないし、実際そうなのだから、否定をする理由もない。

「そうなると、僕のスケジュールを広めに押さえたと考えるのが妥当。つまりこれから実家に行く可能性を考慮していたわけだね。もちろんいいよ、今日は予定もないし。お母さんにも久しぶりに会いたいしね。で……そうなると、前回の帰省はゴールデンウィークかな? ……いや、大宮晶という男が、一ヶ月程度で音を上げるとは思えない。少なくとも三ヶ月以上は考えるはずだ。割と意固地だしね、大宮は。ただ、僕の経験則から言って、社会人はそういう問題に対して真摯に向き合う時間がなかなか取れない。平日なんてくたくただろうしね。特に大宮はそうだろう? 満員電車で通勤なんて僕には考えられない」

「意外と慣れるもんだよ。それに通勤中は小説を読んでるから、そこまで苦痛じゃない」

「そういう使い方も出来るのか。いいね」瀬川は優しく微笑む。「とにかくそういう観点から考えると、半年以上前の出来事だと推察される。であれば、帰省のタイミングとして似つかわしいのは年末年始。約半年間、大宮は謎に対して色々と考えて来た。だけど限界が来たから、僕に相談に来た。こんな話が出来る相手がいない——とまでは言わないけど、嬉々として引き受けるのは僕くらいなものだろうし、それに、僕は大宮の実家をよく知っている。たまに前を通りがかっては、懐かしいな、なんて思う程度にはね」

「そうだったのか」

「ジャスコに行く時に通るんだよ。いや、イオンか」

「行ったなぁ、昔一緒に。一時期は学校終わりに、毎日のように」

「さて次は謎の分類だ。推理——というか、そもそも不思議な現象っていうのには、大枠の種類がある。フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット。僕と大宮にとっては今更な説明だけど、前提条件として提示しておこうか? フーダニットは——誰がやったか。犯人当てだね。ハウダニットは、どうやったか——つまりトリック当て。最後のホワイダニットは、何故やったか——という、動機当てになる。ところで話が脱線するけど、5W1Hという要素があるのに、ウェアダニット、ウェンダニット、ワットダニットというのはあまり聞かないよね。それぞれ、何処でやったか、何時やったか、何をやったか——となるわけだけど、王道的ではない。それは推理というより、小説全体のテーマになるからなのかな」

「流行もあるんじゃないか。ウェア、ウェン、あたりは叙述トリックとして使われることも往々にしてあるように思う。特に、章ごとに時系列が分かれている書き方とか」

「ああ、あるね。一人称が『私』の語り手なのに、実は章ごとに視点が変わっていて、別の人間が喋っているとかいうやつ。あれはウェンダニットか」

「あとは、最後の最後まで『何』が行われたか自体が秘密になっていて、それそのものが謎として機能するパターン。これはワットダニットに分類されるんじゃないか」

「どんでん返しって、実はワットダニットなのかもね」

「そういう意味では今の俺と瀬川の会話は、ワットダニットに属する」

「確かにそうだね。ただ、自分で言っておいてなんだけど、実際にはウェアもウェンもワットも、叙述トリックの要素に過ぎない。せっかくだし5W1Hに則って整理してみようか。ウェンは——今年の年末年始。去年と言うべきかな? まあ『直近』と定義しよう。ウェアは大宮家。ワットは不明、フーも、ハウも、ホワイも不明。ただ、三割くらいは解明出来た。ここからは人読み——というか、単なる推測、勘による当てずっぽうになるけど、ワットについて一番有り得そうなのは——密室に関係する何かだ」

 大宮は、素直に感嘆の息を漏らした。瀬川は本当に、資料に目を通していないのか? と不思議に思うくらいに。しかし瀬川はクリアファイルに手を置いたままなので内容は見えないはずだし、そもそも丁寧にも表紙をつけているから、内容までは把握出来ないはずだ。もし瀬川に、手を置いただけで内容を読み取る力があれば別だが、そんなことは現実的に考えてあり得ない。

「どう?」

「驚いている」

「自慢じゃないけれど、僕ほど密室に青春を捧げた人間はいないと言っても過言ではない」と、瀬川は自慢げに言った。こういう部分は、加齢による柔らかさだろうな、と大宮は直感的に思う。以前の瀬川なら、こんな無意味な発言はしなかったはずだ。「大宮がそんな僕を頼ってきたのは、密室の謎が解けなかったからだろうと思った。実を言うと、連絡をもらったときからそうだろうと思ってた」

「つまり、今話していることは、予め考えていたこと、というわけか」

「そういうことだね。考える時間はいっぱいあった」

「暇なのか? 課長なのに」

「管理職は概ね暇だよ」瀬川は世界の真理みたいなことを口にする。「さて、では密室で何が起きたのか、だね。ワットについて考えたつもりだったけれど、密室はハウ、だったね。で、ここからはあんちょこを使った推理になる」

「アンチョコ? アンチョコってなんだ」

「あんちょこはあんちょこだよ。今風に言い換えるなら……チートシート、とかかな」

「死語だろ。俺は使ったことのない言葉だぞ」

「知ってるだけマシだ。流石はお互い、読書趣味。古い言葉をよく知ってる」瀬川は言って、突然周囲を見渡した。「まあ当然と言えば当然のことを話すんだけど……というか、大宮が当事者なんだから当然知っていることではあるんだけど、あえて説明すると、僕は昨年末に徘徊老人が発生した放送を聞いていた。丁度散歩中だったかな」

 流石は瀬川だ、と大宮は感心した。注意力というか、情報収集能力に関して、瀬川以上に長けている人間を大宮は知らない。どうでもいいことを瞬時に拾って、常に記憶している。それが自分の人生に無関係のことであっても、瀬川は収集を怠らない。

 昨年末——まさに瀬川が言った通り、徘徊老人に関する放送がこの一帯に流れた。それを依頼したのは、大宮自身だ。

 当時、大宮家では年末年始に備え、大宮の両親と二歳上の姉、それに甥っ子がひとり、祖母がひとりの六人で年越しをする準備をしていた。甥っ子は今年で十歳になる。姉は離婚しているので父親はおらず、大宮によく懐いていたので、日中、大宮は甥っ子を連れて二人だけで買い物に出ていた。父と母と姉は年越し用の買い出しに出ており、祖母は体調が優れないと言って、買い物にはついていかず、ベッドで眠っていた。テレビを見ながら年越しまで起きているだろう、という予想もついたので、祖母をひとり残すことに誰も違和感を覚えなかったし、むしろ昼寝をしていた方がいいだろうという判断だった。

 大宮が甥っ子を連れて家に戻ると、既に両親と姉は帰ってきていた。帰ってくるなり「お婆ちゃんは?」と姉に聞かれる。帰ってきたばかりだし、不思議に思って「知らないけど、なんで?」と答えると、「晶たちと一緒に出掛けたのかと思った」と言う。そこでようやく、大宮一家は祖母がいなくなっていることに気付いた。それでも、近所を散歩しているのではないかとか、留守中に知人の誰かが尋ねてきて、どこかでお茶でもしているのではないかという推論も交えられた。母親が方々に連絡をするが、誰も心当たりがない。父親は「少し見てくる」と言って車に乗り込んだが、三十分後に「どこにも見当たらない」と言って戻って来た。時刻は午後三時過ぎ。もうすぐ日が暮れてしまうという段階にあり、大宮はこの事実を公にすることを決断し、警察に通報した。

「大晦日の夕方に、お前は散歩をしていたわけだ」

「正確に言えば、実家に向かう途中だった。けど、あまり早く着いてもやることはないし、かと言って家にいてもやることがないから、遠回りをしていたんだよ。母校の周辺を歩いてみたり、イオンに寄ってみたり。その最中で、大宮ルリさんが行方不明であることを知った。見つかったようで何よりだ」と、瀬川は言う。「地方版のネットニュースで見たよ。詳細を知ったのは正月だったけど。よっぽど僕から大宮に連絡しようかと思ったほどだったけど、連絡したところで役には立たないと思ったから、やめた」

「ああ……ありがとう。気に掛けてくれていたのか」

「おばあちゃんには何度も会ったことがあるしね。そんなわけで、僕は大宮から連絡が来たとき、まず時期を特定して、その時期に起こったことと照合して、大宮ルリさんが当事者であると判断した。これは要は『神隠し』に近いことが起こったと、そう考えるのが妥当。だと思うんだけど、どうだろうね」

 質問というよりは、自分の推理が正しいかどうかを尋ねるような言い方だった。多少不服ではあったが、大宮は「まあ、概ね正しいな」と言うに留めた。

「被害者であり、加害者——というか、フーは大宮ルリさんであるとわかった。ワットは神隠し。ホワイについては……後回しとしよう。整理すると、昨年末、大宮家で、大宮ルリさんが、神隠しに遭った。そしてこの神隠しは密室という問題に紐付いている。これについての推理をしろというのが、お前からの依頼。ここまで推理して、一旦止めておいた。もう少し考える余地はあると思ったけど、全てを安楽椅子探偵じみた推理で済ませるのはもったいないし、久しぶりに大宮家にも行きたいしね」

 そこでようやく、瀬川はクリアファイルを手に取った。大宮はその様子を観察しながら、自分が思っていた以上に、瀬川は研ぎ澄まされている——と感じていた。当時からどこか世間離れした推理力を持っていたし、大宮自身が羨むような回転の速さを感じてはいたのだが、社会に出て、多くの人間に出会い、いわゆる『一般的』な人間との社交に甘んじるに従って、この瀬川という男の特異性に改めて気付かされた。

 そしてそれを久しぶりに目の前で観察することで、その認識はさらに改められた。

 学生時代、大宮は瀬川のことを、推理力やミステリ知識には長けているものの、文才のないミステリマニアだ——というような評価をしていたが、改めて会ってみて思う。

 彼はミステリマニアというより、探偵そのものだ。

 小説を書く側ではなく、小説に登場する側の人間だ、と感じた。

「ああ……蔵、あったねえ。大宮んちの倉庫だよね。今もたまに見るよ。立派な蔵が庭にあって、屋根の壁のところに、丸で囲われた『宮』という字が象られているやつ。あれは家紋じゃないんでしょう?」

「百年だか前は、『丸宮』という万屋を営んでいて、その名残らしい」

「ふうん。大宮家は商家の血筋だったのか」

「瀬川家は?」

「武家だよ」と、興味なさそうに言う。「まあでも、明治時代には既に武家ではなく、海外と交流があるような仕事をしていたらしい。こういうの、学生時代は興味がなかったのに、三十を過ぎた頃から知るようになるんだよね」

「自分のルーツを知りたくなるというか、そういうな」

「蔵の鍵は外からしか掛けられない仕組みというわけだね」資料に目を落としながら瀬川が尋ねる。「室内から明けられる窓はひとつだけあるが、鉄格子が嵌められているために出入りは不可。ふうん、つまり本当に密室なわけだ。鍵が掛かっていたのを確認したのは——大宮晶。お前が証人なんだね」

「そうだ」

 それが一番、大宮を悩ませる種であった。

 大宮ルリ——つまり大宮の祖母は、蔵の中で見つかった。何故鍵の掛かった蔵を探したのかについては、大宮は正しい答えが出せなかった。なんとなく、と言うことも出来るし、直感的に、と言うことも出来る。あの時、昔の血が騒いだわけでもないのだろうが——一番あり得ないところに答えが眠っている、とでも言う感覚が湧いてきたのだ。だから大宮は庭の蔵の鍵を外し、その中を探してみた。小さな豆電球がひとつあるだけの蔵だが、灯りをつければ室内全てを照らしてくれる。祖母はその蔵の中で、膝を抱えて丸まっていた。雪こそ降っていなかったが、大晦日の夕方、暖房もない蔵の中は冷え切っていた。大宮は急いで祖母を担ぎ出し、病院に連絡をして、母と一緒に付き添った。祖母は高熱だったが、幸いにして命に別状はなかった。それでも念のため、一週間ほど入院した。大宮は一月二日には東京に戻っていたので退院には立ち会っていなかったが、特に大きな問題もなく退院し、現在は普通の暮らしを続けているということを、家族からの連絡で知っていた。

 そう、何もなかった。

 何もなかったのだが——蔵には鍵が掛かっていた。

 大宮以外の家族は、それを大宮自身の勘違いだとして片付けた。鍵は掛かっているように見えて、実は掛かっていなかったのだと。祖母は寒さで錯乱し、寒さを凌ぐために蔵の中に逃げ込んだのではないか、というのは母の推理だった。

「歳を取ると、自分が生まれた家に帰ろうとするって言うでしょう」と、姉もその説を支持した。「徘徊老人って呼ばれる人たちは、自分が昔住んでいた風景を頼りに歩いて、生家に戻ろうとするんだって。でも、自分の家が全然見つからないから、当てもなく歩き続けるって言うの。この家だって、立て直しちゃったから当時の面影はないでしょう? だからお婆ちゃん、記憶に残ってた蔵に入っちゃったんじゃない? そう言えば、昔ながらの日本家屋に住んでる人が徘徊するっていうの、あまり聞かないよね」

 姉の言説はもっともで、母が言うことも理に適っている。父はとにかく祖母が無事だったことで安堵したらしく、密室について——というより、その事件自体、言及しようとはしなかった。

 だが、大宮には絶対的な自信があった。

 あの蔵の鍵は、絶対に掛かっていた。

 最初に錠前に手を掛け、開かないことを確認し、わざわざ家に戻り、蔵の鍵を取り出して開けたのだ。「鍵が掛かっているのだから祖母はここにはいない」と考え、そのすぐあとに「それでも念のため見ておいて損はない」と思い直したことも覚えている。

 誰も気にしていない。

 祖母が無事だったから、それでいい。

 だが——大宮はどうしてもその謎に抗いたかった。

 何故そんなことが起きたのか、どうしても知りたかった。

「やっぱり大宮資料は読みやすいよ。プロットと登場人物の個別資料って感じだよね」十五ページにも及ぶ資料を読み終え、瀬川は資料をクリアファイルに戻し、大宮の方へ押しやった。「確かにこれは、家族と再議論するような出来事じゃないし、警察に届けることでもないね。大宮が悩んで僕に相談してきた理由が、はっきりと理解出来たよ」

「……個人的なことなんだ。ただ俺は、こんな不思議なことに合理的な説明が付かないことが、とても恐ろしく感じる。なんだか、年始以降、どうも上の空で——このことばかり考えている。有り体に言えば、生活に支障を来している。だから……」

「残念ながら、今の僕では答えが出せない」

 瀬川は意外にもあっさりと言って、腕を組む。

「だけど、起こったことは、説明できる。逆に言えば、説明できないことは、起こらない。今はまだ、ピースが足りない。……今の探偵っぽかったね」

「じゃあ……早速、実地検分と行くか? 今日は家には誰もいない。というか、そういうタイミングを見計らって帰省したわけだが」

「長男が帰省するタイミングでみんな出掛けたわけ?」

「いや、帰省するとは言ってないんだ」と、大宮は弁解するように言う。「ただ、近々帰るかも知れないからと言って、予定を聞いた。今週末は、両親と祖母の三人で、遠出している。温泉旅行ってやつだ。ばあちゃんもあれ以降特に弱っている様子もないし、年齢的にも遠出は厳しくなるだろうってことで、快気祝いを兼ねた慰安旅行だな」

「ふうん。六月に?」

「安いらしい。オフシーズンってやつだ」

「じゃあ露天風呂が部屋に付いているタイプの、ちょっと豪華なところかな」と瀬川は言う。「晴れて良かったね」

「だな。じゃあ……」

「ああいや、時間に余裕があるなら、ご飯を食べてから行こう」

 瀬川は言って、メニューを広げる。食事をするつもりはなかったので大宮は少し躊躇ったが、瀬川がこういう人間であることをすぐに思い出した。ケチとまでは言わないが、他人の金でメシを食うことが好きな男だった。

「まあ……当然、俺が奢りますよ。俺の納得する答えが出るなら、報酬を払ってもいいくらいだ」

「いらないよそんなの。ただ、夜までに解決出来たら、そうだなぁ……焼肉が食べたいな。久しぶりにお酒でも飲もうかな」

「お好きに。というかお前、課長なんだろ、十分にもらってるんじゃないのか」

「お金に興味なんてないよ。人からご馳走されるという状況が好きなの」

 瀬川に釣られて、大宮もメニューを覗き込んだ。なんだか昔に戻った気持ちになってしまったので、ステーキセットを頼むことにした。ライスは大盛り。食べきれないとわかっているのに、山盛りのフライドポテトも注文した。昔、ポテトとドリンクバーだけで何時間もミステリについての議論を白熱させたことを思い出した。あの時は確か、フェアの定義はどこまでか? ということについて、真っ向から相対する思想をぶつけ合った。どんな結末になったのかは覚えていないが、会話をしているとき、とても楽しかった。

「で、今日は実家に忍び込んで寝るわけ?」

「いや、ホテルでも取ろうかと思ってる。早く片付けば直帰しようかとも考えてたんだが、焼肉を奢らなきゃいけなくなった」

「そう。じゃあ僕んちで良ければ泊まって行きなよ」

「一人暮らしだろ?」

「田舎のマンションは、安い割に広いんだよ」瀬川はなんとも言えない表情で言って、大きく伸びをする。「それに、密室の神隠しが起こるような家に、大宮を一人で寝かせるわけにはいかない」

「実家だぞ。幽霊なんて出るわけない」

「もし幽霊なんかが出た日には、それこそ困る」

「出ないって。出たとして、なんでお前が困るんだ」

「いやあ、幽霊が出たなんて相談に来られても、説明できないよ」

 瀬川は困った風に言って、また無言で席を立った。


 2


 大宮の家は『古川』という場所に位置していて、地名の由来は『古川』という川の近くにある町というシンプルなものであり、そもそも『古川』という川自体、「古くからあった川」くらいの意味であったそうだ。しかしながら、その川も現在は存在しておらず、埋め立てられ、家が建っている。家が建っている地域は『川上』というこれもまた安直な地名を持っている。川自体は存在しないのに、地名にだけはその名残が残滓のように染みついている。それはなんだか、ミステリめいているような感じがした。

『古川』は三十年ほど前に埋め立てられたので、大宮にはその風景がぼんやりとしか残っていない。だが、確かに小さい頃、家の前に小さな川が流れていたのを覚えている。その原風景とでも言うべき光景は、大宮の脳にしっかりと刻み込まれていて、中年になった今も時々思い起こされる。だから自分が今後、徘徊老人になった際には、そうした小さな川の流れを求めて歩き始めるのだろうか——と、車窓を眺めながら考えていた。

「物思いに耽っているような表情だ」と、運転席の瀬川が言う。「帰省は半年ぶりだから、多少は感傷的になるものなのかな」

「いや、お前が車を運転しているという事実に、時の流れを感じる」

「僕だって車くらい運転するよ。車社会なんだから」

「なんだかな……お前がそういう、俗物的な行動をしていると、どうも不思議な気分になる。解釈不一致というか、落胆というか、がっかりというか」

「大宮が徒歩だろうからと気を利かせて車を持ってきた人間に言う台詞がそれか」

「助かります」大宮は視線を窓に向けたまま、頭を下げた。

 ファミレスから大宮家までは徒歩でも三十分ほどだったが、それでも車での移動はやはり快適だった。普段、電車通勤に慣れ親しんでいる大宮にとって、徒歩での移動はそこまで苦痛ではない。が、地元を歩くという行為には、どうにも親しみがなかった。小さい時から車での移動が当たり前だったし、学生時代は自転車での移動が主だった。そんな場所を歩いて移動するというのは、なんというか、違和感があった。

「ご両親は車で出ているんだよね」

「車じゃなかったとしても、二台は停められる」

「確かに」

 と瀬川は短く言う。今では自分よりも大宮家をよく見ているのではないか、と大宮は考えた。少なくとも、家の前にある、前庭とでも言うべきスペースについては知っていることだろう。

 十分程度の移動で、二人は大宮家に着いた。予想通り車がなかったので、瀬川の車を駐車スペースに置く。地面がコンクリートで舗装されている上に、簡易的な屋根もついているスペースだった。

 半年ぶりの帰省だったが、特に思うところはなかった。むしろ、一時期は外出自粛で二年近く帰省していなかったので、最近は割と頻繁に帰っているのではないか、という気もする。

「鍵は?」

「鍵は持ってる」大宮のキーケースには、東京の家の鍵と実家の鍵が両方ついていた。「昔の癖で、なんとなく付けっぱなしだ」

「僕はもう返しちゃったな」

「瀬川らしいと思うよ」

 鍵を開けて実家に入る。懐かしいような、慣れ親しみすぎて特に感慨を覚えないような実家臭が鼻をつく。

「懐かしいなぁ、大宮の家の匂いだ」

「そんなものを覚えてるのか」

「今思い出した、というのが正しい」

 大宮が靴を脱いで上がる。が、瀬川は玄関に立ったまま、動こうとしなかった。

「どうした? 上がってくれ」

「いや、それよりも先に蔵を見よう。蔵の鍵は?」

「ああ……奥の、祖母の部屋にしまってある。というか、正確に言うと仏間だな」

「仏間で寝てるんだ」

「家族の目に付きやすいらしい。取ってくる」

「ここで待ってる」

 大宮は仏間に向かう。祖父と、曾祖父母の写真が飾られている仏壇が置かれている部屋だった。畳敷きで、縁側に面している。そこに不似合いな電動式の昇降ベッドが鎮座しており、小型のテレビが、祖母が寝ながら見られる場所に配置してある。周辺にはゲーム機や、甥っ子のおもちゃ、昔よく遊んだ人形、それに似顔絵なんかも飾られていた。

 東向きに縁側があり、北向きに仏壇。西側に引き戸があって、そこは廊下に繋がっていた。廊下を挟んだ反対側にはダイニングキッチンがあり、そちらは洋風なデザインだった。この仏間は元の家から引き継いだ部分なので、家の中でもかなり異色と言えた。そういうリフォーム方法があるのだということを大宮は知らなかったが、家の一部を残し、残りをリフォームすることが可能らしい。だからこの仏間は、祖母にとっては昔から変わらない、馴染みのある部屋だった。当然、大宮にとっても馴染みがある。もちろん、外観は変わってしまっているので、外から見ると全く別の家に見えるのだが。

 大宮は仏壇の脇に置かれた箪笥の小さな引き出しを開け、中に無造作に置かれている鉄製の鍵を取り上げる。すぐに廊下を戻り玄関に向かうと、瀬川の姿はなかった。恐らくは蔵に行ったのだろう。靴を履いて玄関から庭へ回ると、蔵の前で瀬川が錠前を観察していた。

「無言で消えるな」

「随分と古い錠だね」無視して瀬川が言う。「これはいわゆる、古典的なトリックによる密室は無理そうだ。もしやるとしてもかなり大掛かりなものになるだろうね。うーん、これ、鍵を掛ける時はどうやって掛けるんだろう。流石の僕も初めて見るな」

「蔵に入ったことはないんだっけか」

「多分、一度もないね」

「ロックする時にも鍵が必要になる」大宮は錠前に鍵を差し込みながら、左回しする。「こうやって回すとロックが外れて、開く」

「いわゆるダルマ錠というやつだね」

 正面から見ると、凵という字のような形状をしていて、その空いた部分に棒が通っている錠だった。凵の字が廿の字になる。棒は蔵の扉に付けられた鉄製の穴に通されており、左右の扉の穴に棒がつっかえているため、鍵としての役割を果たしている。

 大宮が鍵を回すと、その棒が左側にスライドし、凵の字の機能を取り戻す。スライドした棒は途中で止まるようになっているため、完全には分離しない。このスライドを利用し、穴を塞いでいた障害物がなくなり、蔵の扉が開く仕組みになっている。

「で、この手の錠は大抵、鍵がなくても棒を押し込めばロックされるんだが」大宮が抜いた棒を再び押し込む。が、それが途中で止まってしまう。「これも鍵を回さないとロックされない構造になっている」そして、再度左回しにする。今度は先ほどよりも大きく、一回転させた。

「インキー防止か」

「インキー?」

「あれ、インキーって言わない? 車の中に鍵を入れたまま鍵を閉めてしまう現象のこと」

「ああ……いや、言うけど、耳慣れない言葉だったから一瞬わからなかった。確かにそうだな、蔵の中に鍵を入れたまま、外から鍵を掛けるということが出来ない構造になっている。それは同時に、鍵を開けて蔵の中に入った人間を外から閉じ込めることが出来ない、という意味でもある」

「合鍵は」

「ない……はずだ。少なくとも俺は存在を知らない」

「ここは鍵はひとつしかないものとしよう。少なくとも、このダルマ錠の理念から言って、合鍵が存在していては意味を成さないからね。さてそうなると——これはピアノ線を使ったトリックとか、そういう古典的なトリックによる封鎖は不可能と考えるのが自然だね。そもそもそんなことをする意味がないし。鍵の場所は家族全員が知っていると考えていいね?」

「甥っ子は知らされてないかもしれんが……まあ、それ以外の家族は全員知っている」

「例えば大宮ルリさんが鍵を開けて蔵に入る。その時、鍵を蔵の外に出しっぱなしにしていた。誰かがその鍵を使ってロックし、鍵を所定の位置に戻す。大宮はそのことを知らずに鍵を持って来て蔵を開けた。中には寒さに震える老人がいた——というのが、この現象を説明するのに最もシンプルな推理だね」

「だが……」

「もちろん、状況的にはあり得ない。大宮ルリさんが数日にわたって閉じ込められていたとかいうなら別だけど、いなくなって数時間後とかに蔵の鍵が開いていて鍵が落ちていれば、真っ先に探すのが普通だ。となるとこの説は却下。じゃあ、鍵を開けなくてもこの扉を開けられる方法がないかな」

 瀬川は扉を開け、蔵の中に入ろうとする。大宮は一緒に蔵の中に入り、壁に後付された電球のスイッチを入れた。と、途端に部屋の中が明るくなる。

「豆電球。資料にあったね」と瀬川が言う。「うわ、光があると埃っぽいな。それに……ああ——そうか、なるほど」

「なんだその意味ありげな発言は」

「いや、構造上そうなるのか、と思って」

「何がだ?」

「扉の内側が汚れている」大宮が蔵の中に入る途中、瀬川が扉の内側——つまり室内側——を指差しながら言った。「いくら電球があるとは言え、この蔵の扉は通常、開けたまま利用されるということなんだろうね。そもそも、扉の内側には取っ手のようなものがないから、閉めるという行為が内側からは出来ない。やるとしたら、外側から閉めてもらうしかない。だけどそんな風に利用することを想定してない。中に入る時に扉を開けたら、出るまで開けっぱなしにするのが通常だと考えた」

「確かに」

 言われてみればそうだな、と大宮は思う。実際、この蔵の中に入り、扉を閉め切った経験はなかった。単純に暗いというのもあるし、蔵に用事がある時は大抵、中にある荷物を持ち出す時か、あるいは入れる時。つまり両手が塞がっている状態で出入りすることになるのだから、扉は開けておくのが普通だった。

「同様に、窓についた扉も汚れたままだ。電球が後付されてからは、ずっと閉じられたままなんじゃないかな」

「そうだろうな、多分。実態は知らんが」

「不思議だよね」

 その言い回しが、大宮に妙な違和感を覚えさせた。不思議なことを解明するのが瀬川の生き方のように思っていたから、不思議なことを単に「不思議だ」と言うのは、意味のないことのように思えた。だが、老化による変化だろうと、深く考えないようにした。

 瀬川は蔵の中を粗方見終えると、無言で外に出た。外壁を確認でもするのかと思ったが、特にそういう意図があるわけではないらしく、「家の中も見たい」と言う。大宮は蔵から出て、外壁のスイッチをオフにする。これは内部のスイッチと連動していた。このような回路を「三路スイッチ」と呼ぶことを、大宮は何故か覚えていた。どこで知ったのだろう? 何かのミステリ小説だろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、扉を閉めて、ダルマ錠を掛け、蔵の中を密室にした。

「今、密室になった」

「密室というか、ただの施錠だな」

「この中にまた大宮ルリさんがいたら、流石の僕も驚く」

「だろう?」

「とにかく……家の中を見せてもらおうかな。ホワイについて考えたい」

 ホワイダニット——つまり『どうして』こんなことが起きたのか、ということだ。その言い方ではまるで『どのように』は解決したような言い振りだったが、逆にハウの部分が解明出来ないから、別の観点から攻めようとしているようにも取れた。大宮はその点について問い詰めようという気はなかった。意味がないことだし、こちらは依頼している立場であるから、瀬川の尊厳を傷付ける必要はないと感じた。

 玄関に回り、大宮が先に靴を脱いで上がった。大宮に先導されるように瀬川は仏間に通され、蔵の鍵を仕舞う場面を確認した。

「当時も鍵はここにあったんだよね」

「そうだな」

「ところで……ゲーム機がある」

「ゲーム機、という言い方をするか普通」

 仏間のテレビ台の上に、ニンテンドースイッチが置かれていた。いつから置いてあるのかを大宮は知らなかったが、甥っ子のために両親が買い与えたものであるらしい。当然と言うべきか、甥っ子も個人的にスイッチを持っているのだが、ゲーム機について疎い両親が孫が来た時に暇をしないようにと買ったものだそうだ。

「テレビに繋いで遊べるタイプのものだね。ゲームしに、わざわざ実家に来るわけ?」

「いや弘人——ああ、甥の名前なんだが、そいつも自分のを持っている。甥が持ってるのはこう、携帯ゲーム機というか、テレビには繋がないタイプらしい」

「スイッチライトね」

「よく知ってるな」

「逆に何故知らないんだ」瀬川は呆れたように言った。「昔は大宮も持ってたろ、ワンダースワン」

「懐かしいなおい!」

「僕はゲームボーイアドバンス派だった。懐かしい」

「まあ一応、棲み分けって言うのか? 実家に来た時は大画面で遊べるって言うんで、こっちの家にこのタイプを置いていて、姉の家ではライトを使ってるんだそうだ。今はすごくてな、ネット経由でセーブデータを共有出来るんだそうだ」

「知ってるよ。持ってるんだから」

「持ってるのか」

「たまにテトリスをやる」瀬川は言って、スイッチの配線を辿る。「とは言え、この家にあるテレビはここにしかないわけじゃないだろう。ご両親が普段見るテレビは、別の部屋にあるんじゃない?」

「両親の生活スペースは基本的に二階だな」

「キッチンは?」

「隣だ」

 廊下を跨いで、大宮は西側にあるダイニングキッチンの引き戸を開ける。一転して、フローリングの床に白い近代的な壁紙の部屋が現れる。天井にはシーリングライトが付けられていて、四人掛けのテーブルがあり、対面式の機能的なキッチンが備え付けられている。

「急に昭和から平成になった」

「そう言えば、リフォーム後に来るのは初めてか」

「初めてだね。そもそもリフォームしたの、五年前くらいだろ?」瀬川はダイニングを見回しながら、周囲を観察する。「外観はたまに見るけど、中に入るのは初めてだ。しかし……相変わらずというか、大宮家には食事をしながらテレビを見るという習慣はないんだね」

「言われてみればそうだな。たまにラジオは流れるが。いやでも最近はあれだ、タブレットとかでニュースは流してたような気がする」

「リビングは二階ということだね。で、リビングに大きなテレビがある。だけど親族が集まる時は、大抵ここが集合場所になる。だからスイッチは一階にある、ってところかな。うん、まあここは別に、不審な点はないか」

「なんだその不審な点ってのは」

「お姉さん、まだ地元にいるんでしょう?」発言を無視して、瀬川は尋ねる。

「地元にいる……というか、出戻りに近いな。いや、この家に住んでるわけじゃないから出戻りってのは違うんだろうが——弘人は埼玉で生まれたんだが、離婚後、姉はこっちに戻って来た。三年前だな」

「色々あるね、大人になると」

 瀬川は満足したのか、勝手に廊下に戻り、また仏間を見物している。この観察が蔵の密室とどう関係があるのか尋ねたかったが、探偵が真面目に調査をしているのに水を差すのも気が引けたので、大宮は別の話題を切り出した。

「お前のところの兄貴はどうしてる」

「さあ。あまり仲の良い兄弟じゃないから、わからない。ただ、結婚をして子どもがいることは知っている」

「実家で会わないのか?」

「海外にいるんだよ。だからあまり帰ってこない。まあ流石に会ったことはあるよ、二年前に会ったのが最後かな……奥さんが海外の人でね。ロシア人なんだけど、とういことは姪がいわゆるハーフに該当するんだけど、驚くような美人に育っていて、あまり会いたくない」

「なんでだよ」

「苦手なんだよね、綺麗なものは。ロシア語も知らないし」

 確かに学生時代から瀬川はそういうものと縁がなかったな、と大宮は思う。

 なんとなく、調査の邪魔になるような気がしたので、大宮はダイニングの椅子に腰を下ろした。が、すぐに思い立ち、「何か飲むか」と電動ポットに手を掛けた。瀬川は仏間の方から「紅茶がいい」と声だけで返事をする。大宮はコーヒーが飲みたかったが、瀬川に合わせて紅茶を飲むことにした。昔の記憶を頼りにキッチンの天井部にある戸棚に手を掛けると、記憶通り、いつ買ったかわからないティーバッグがガラス瓶に詰められているのを見つけた。食器棚からマグカップをふたつ取り、それぞれにティーバッグを入れ、お湯が沸くのを待った。自分の家ながら、まるで窃盗でも働いているような気持ちになった。

「老人ホーム、という選択肢はないのかな」

 突然瀬川がダイニングにやってきて尋ねた。調査を探偵に任せてスマートフォを眺めていた大宮は慌てて、「何?」と問い返す。

「大宮ルリさんのこと。生活ぶりから、かなり弱っているように推察される」

「……ああ、ベッドか」

「電動の可動式ベッドだよね。つまり、要介護状態ってことだ。この辺の高齢化は、日本全体よりもさらにたちが悪い。そもそも、大宮のご両親だって、こういう言い方はなんだけど、かなり高齢だろ」

 実際、もう七十歳を目前にしている。祖母と父——祖母は父方の祖母である——の年齢はさほど離れておらず、祖母が二十二歳の時の子どもだ。しかし、大宮の両親は子どもを授かるのが比較的遅く、二人が三十三歳の時に姉を産み、三十五歳で大宮を産んでいた。六十八歳とか、そのくらいのはずだ……と、大宮はぼんやりと考える。となると、祖母は九十歳。確かに、老人介護施設に出すという選択肢もある。

 もうそんなに歳を取っていたのかと、急に自分が老けた気持ちになる。

「老老介護ってやつだな」

「うちの祖父母は早めに亡くなったからそういう問題は起こらなかったけど、色々大変なんじゃないかな。そもそもご両親、今も何かしら働いているの?」

「いや……もう流石に辞めたみたいだ。定年後も何年かは嘱託社員として働いていたようだけど、流石に疲れたと言ってたよ。幸い、趣味のある人だから仕事を辞めてからも割と精力的に日々を過ごしてはいるようだけど」

「まあそれなら介護をしたり、病院に連れて行ったりという時間は捻出出来そうだね」

「まあそうなんだが、実態は、聞いた限りじゃ、老人ホームに空きがないらしい」

「そう。高齢化社会って感じだね。あ、お湯が沸いたみたいだよ」

 沸騰する音から少し遅れて、電気ケトルのスイッチが切り替わる音がする。大宮は立ち上がり、それぞれのマグカップに熱湯を注いだ。瀬川は無言で片方を手に取ると、ティーバッグを何度か上下させ、「どこに捨てればいい?」と尋ねる。ティーバッグを勝手に捨てるのもなんだか気が引けたので、思い出に従って引き出しを開けると、折り畳まれたレジ袋がこれでもかというほど詰まっていた。そのうちのひとつを開き、「ここに捨ててくれ」と促す。これは持ち帰り、証拠を隠滅する予定だった。

「ところで……弘人君だっけ? 何歳なの」

「十歳だったかな」

「小学三年か四年てとこか。ふむ」

「なんだその意味ありげな『ふむ』は」

「いや別に。付き合いがあった頃に生まれていたら、流石に僕の記憶に残っているだろうと思ったんだよ。卒業したのが十二年前くらいだから……僕らに交流があった時には、まだ弘人君はこの世にいなかったということか、と思ってね」

「ああ……まあ、言われてみればそうか。流石にそのくらいの世間話はしてただろうしな」

 昨日の続きのように話しているが、考えてもみれば十二年ぶりの再会なのだ。五年前に一度会ったことはあったが、それはほとんど瞬間的な逢瀬に近い。こうして腰を据えて会話をするのは、十二年ぶり。だというのに、お互いの感覚は昔のままだった。少なくとも大宮はそう感じている。居心地の良さというか、役割が機能している感覚だった。

「ああ、聞き忘れてた。話を戻すけど、お姉さんは地元にいるけど、一緒に暮らしているわけじゃないんだよね」

「まあ、簡単に言うと部屋が足りないんだ。両親の寝室は二階にあるけど、二階はなんて言うか……両親だけが暮らすスペースというか、そんな雰囲気になってる」

「一階はキッチンと、仏間と、トイレと……バスルーム? もう少し部屋がありそうなもんだけど」

「物置として使われている部屋がある。私室にすることも出来なくはないが、弘人が来るとしたら、弘人の部屋と、姉の部屋が必要になるだろう。だから足りないんだ」

「と言っても、当時は六人暮らしだったわけだろ。どうやって暮らしてたわけ」

「二階にリビングなんてなかったんだよ。というか、リビングというもの自体なかった。昔は二階に祖父母の部屋があって、俺と姉の部屋もあった。それぞれ個室でな。で、一階の今は物置になっている部屋が、両親の寝室だった。まあ、言ってみれば仏間がリビングみたいなもんだったな……って、お前は何度も来たことがあるだろ」

「流石に家族の部屋構成までは知らなかったけど、確かにお前の部屋が二階だったことは覚えてる。お姉さんに壁ドンされた記憶もあるね」

「隣だったし、あの時は受験戦争真っ最中の時期だったからな。俺もよくうるさいって怒られたよ。思い出すと懐かしいな」

「姉という生き物はヒステリックなんだと当時思い知った」

「大体どこもそうだ」

 瀬川は椅子に腰掛け、紅茶を飲みながら周囲を見渡し、物憂げに何事かを考えているようだった。見た目は当時のままなので、いくらリフォームをしたとは言え、自分の家に瀬川がいるのは、なんとも感慨深い気持ちになるものだと大宮は考えていた。目的はあくまでも密室の謎を解くことだったのだが、しかしそれとは別に、なんとなくノスタルジーな感傷に浸っていた。

「お姉さんは何の仕事をしているの」

「スーパーのパートと、夜はスナックみたいなところで接客をしているらしい」

「そう。大変そうだ。まあ君のお姉さん、美人ではあったからね」

「あれを美人と定義すると、なかなか広範囲が美人ってことにならないか」

「悪くない、程度に言い直そうかな」記憶を辿るようにしながら瀬川が言う。「でも離婚だと言っていたよね。養育費くらいはもらっているだろうから、金銭的には困窮していないように思えるけど、掛け持ちするほどなんだ」

「うーん……少々ややこしい話なんだが」

「どうぞ」

「姉が浮気をして、慰謝料を払って離婚している。が、親権は譲りたくないということで、養育費を払わないという約束のもと、弘人が母親と暮らしているという図式になる」

「浮気なんかしたら普通、親権は取れなさそうなものだけど」

「俺の義兄に当たる人間が言うには、本当に俺の子なのかも疑わしい、とのことだ」

「そういう考え方もあるか」瀬川は興味なさそうに言う。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというか。DNA鑑定でもすれば済みそうなものだけどね」

「俺も当時はそう言ったんだが、双方聞く耳を持たなかった。感情的になっていたというのもあるだろうし……」

「双方、ということは、お姉さんの方にも何かしらの疑念があったかもしれないと」

「……ということになる」

「家族がそういう出来事の当事者になるのは、なんだかね」

「まあ……俺はほとんど家庭とは縁がなくなっているから、別にいいんだけどな。少なくとも女親の子ではあるだろうから、弘人との血の繋がりは確かにあるわけで、甥っ子はかわいい。姉も——まあ丸くなったというか、昔よりは良好な関係になってる。中には、家族が浮気だ慰謝料だなんてことをしたら勘当って家庭もあるかもしれないが、うちはそこまで苛烈じゃなかった。元旦那が猛烈に怒っていたから、こちらが姉に対して寄り添った、という見方もあるかもしれないけどな」

「それでも最初は驚いたんじゃない」

「まあ、驚きはした。姉と弟で、こうも男女関係に差があるのかとも思ったよ」

「自虐的な発言だ」

「母親も割と最初は否定的だったな。ただまあ、遅くに生まれた子どもだから甘やかされてるという自覚はある。結局は孫の力で、色々援助してる」

「色々あるね、大人になると」またも興味なさそうに瀬川が言う。「であれば尚更、金銭的には困っているわけだ。無理をしてでも実家で暮らす方が合理的なように思うけどね。そこんところはどうなんだろう。ちゃんと話し合ってるのかな」

「と、思うけどな……まあでも、そこまで金銭的に困っているというわけでもなさそうだぞ。団地——ああほら、高際って覚えてるか? 小学校の」

「覚えてるよ。ぎわっちゃんね」

「あいつが住んでた団地あるだろ、あそこに今、姉が住んでる。家賃は安いらしい」

「高遠団地ね。うん、場所もわかる。家賃、四万円くらいだったかな。あれはボロいからね、高度経済成長期からあるという噂だし。今はもう少し高いのかな」

「家賃までは知らんが、まあ生活に困窮するほどではないそうだ。両親からもいくらか援助しているようだし、ゲームも買ってるくらいだからな。まあ余裕があるとまでは言わないが、金に困って生活が立ち行かないというレベルでもないんだろう」

「そうだね。なるほど、高遠団地か……」

「なんだよ」

「いや……というか、なんだか普通の世間話をしてしまってるね。ダイニングという場所がそうさせるのかな」自分の役割を突然思い出したかのように、瀬川は立ち上がり、周囲を見る。「でも、もう調査すべきところはなさそうかな……」

「え、なんだよ、謎が解けたってことか?」

「うーん……」

 瀬川は困ったような表情を見せたが、それは一瞬のことだった。それを悟らせないように、瀬川はなんとも言えない複雑な表情に切り替えて、「一応、もう一回蔵を見ようかな」と言って、勝手に仏間に戻り鍵を取り出して、廊下を歩いて行った。付いていく必要がないように思えたので、大宮はその場に腰を下ろしたまま、少しぬるくなった紅茶を口に運んだ。

 壁に掛かった時計に目をやる。今日は早起きをして電車移動をしてきたので、まだ正午付近だということに驚いた。もう、夕方でもおかしくない疲れ具合だった。

 瀬川という男に調査を任せたことで、大宮の密室に対する熱意は少し醒めていた。正確に言えば、読者に回ったような気分だ。自分が頭を捻らなくても、時間の経過と共に真相が明かされるというような、そういう感情だ。大宮は紅茶を飲み干すと、残っていた瀬川の分も含めて、早めにカップを洗ってしまうことにした。悪いことをしているつもりもなかったが、出来るだけ、証拠を残したくないという気分だった。


 3


 大宮と瀬川は、高遠団地に来ていた。

 時刻は午後一時半。高遠団地というのは大宮たちの世代が呼んでいた呼称であり、正式名称ではない。正しくは『稲谷公共団地』という名前である。何故『高遠団地』と呼ばれているのかについては諸説あり、単純にここが、大宮たちの通っていた小学校から最も遠い学区であり、且つ、高台に位置していることから「高くて遠い団地」として呼ばれていたとする説。あるいは、『高遠』という姓の生徒が多く住んでいたことから付けられたとする説。その真相は定かではない。大宮が小学校に通うようになった時には既にその名称が定着していたため、誰もそれに異を唱えることはなかった。今現在もその呼び名が利用されているかは知らないが、弘人に聞けばわかるかもな——ということを、今更ながらに考えた。

「で、どうしてわざわざここまで来たんだ」

「いやあ、懐かしかったし、昔この辺にゲーセンがあったのを覚えてる?」

「あったなぁ。高校生の時くらいか? よく来たよな」

「今はもうなくなって、跡地には電気屋が建ってるんだけど……って、そのくらいのことは大宮も知ってるか。お姉さんの住んでるところだし、地元だし」

「流石にそれくらいは知ってる」

「この辺は徘徊老人が少ない」と、瀬川は突然言う。「どちらかというと、孤独死をする老人が多いらしい。思うに、徘徊老人というのは、家の中に自分の居場所がないと感じる老人がする行為なんじゃないかと僕は思う。家の中にいるのに、自分の家じゃないような感覚から、自分の居場所を求めて逃げだそうとする。で、思い出の場所に辿り着こうとして、変なところまで歩いて行っちゃうんだと思う」

「新鮮な意見だ」

「団地に住んでいる老人ってのは、大抵は昔から住んでいて、そのまま住み続けている人が大半だろ。だからここは彼らの居場所なんだよ。だからもしこの団地が取り壊されるようなことがあったら……大変だろうね。閉じ込めていた老人たちが四方に散らばって、思い出を求めて彷徨うのかもしれない。魑魅魍魎のように。百鬼夜行ってそんな感じだろうね」

「どうした急に」

「ほら」

 瀬川は団地の入り口付近にある、大きな掲示板を指差した。プラスチックか何かで保護されているおかげで辛うじて原形を留めている様子だが、中にある掲示物はどれも薄汚れていて、何年も掲示され続けている痕跡が伺える。

 その中のひとつに、「新規入居者受付停止のお報せ」という文言が見えた。

「なんだ?」

「高遠団地は、新規の受け入れを止めてる。もう二年近く前からそうだ」

「そうだったのか」

「つまり?」

 瀬川は尋ねる。大宮は少し考えてから、瀬川の筋立てに気付いた。

「……取り壊し、か」

「もう少し数が減ったらそうなるんじゃないかな、と僕は睨んでる。ここは駅に近いしね」と、駅の方角を見ながら言う。駅と言っても、地元の主要駅ではなく、そのひとつ隣の小さな駅だった。だが、曲がり形にも駅前というステータスである。「再開発されるだろうと考えている。国道から一本入った場所だし、立地はかなりいい。再開発して立派なマンションでも建てれば入居者は期待出来そうだよね」

「瀬川、お前は休日に散歩しながらそんなことばかり考えているわけか」

「端的に言えばそうなる」瀬川は笑いながら言った。「我ながら面白みのない人間だ」

「俺は面白いと思うが」

「見てる分にはそうだろうね」

 大宮は改めて高遠団地を眺めてみる。すると、そこに人々の営みがそれほど感じられないことに気付いた。ほとんどの部屋の窓にはカーテンがなく、ガラスが割れたまま放置されている部屋もある。洗濯物は愚か、物干し竿も存在しない部屋が多数。もちろん中には、ベランダに観葉植物がある部屋があったり、今も部屋の明かりが漏れているところもあるのだが、割合としては三割程度だ。ほとんど幽霊団地とでも言うべき風格だった。階段部分に放置されている小さな三輪車も、駐車というより、廃棄と言うべき汚れ具合だった。

「……なんだか、切ないな」

「順当に入居者が減って……あるいはもう既に再開発の日程は決まっていて、来たるべきその日まで、彼らはここで生き続けているわけだ。まあ、君のお姉さんにとってはいい立地なんじゃないかな。スナックみたいなところで働いていると言っていたけど、駅が近いからね。一本乗れば駅前の繁華街に行けるわけだし。まあ、自転車でも全然行ける距離だけど」

「確かにそうだな……あまり姉とそういう話はしないから知らなかった。そうか、高遠団地、なくなるんだな」

「まあ公言されているわけじゃないけど、恐らくね。だからどうって話じゃないんだけど……」

 なんとも歯切れの悪い瀬川の物言いに、どう言葉を返すべきか迷ったが、結局何も言わないことにした。そもそも、瀬川が何故こんな場所に連れてきたのか、大宮は考えても答えに辿り着けずにいた。

「午後二時前。なんだか思ったより、夕飯には程遠い時間だ」瀬川は腕時計を見て呟く。「思ったよりやることがないね。どうしようか、カラオケでも行く?」

 それが瀬川なりの冗談であることはすぐにわかった。大宮と瀬川は、学生時代から一緒にカラオケに行くなどという行為をしたことがなかった。もっぱら本屋に行くか、学校で議論を交わすのが精々だ。そもそも、学生時代それなりに親しくしていたはずだったが、お互いに休日に外に出て友人と遊ぶという文化がなかった。休日はゆっくり読書に時間を割ける貴重な時間であったし、同時に、小説を書くようになってからは、一日中小説と向き合える大切な時間だった。お互いにそれがわかっていたから、誘うようなこともしなかった。そして結局と言うべきか何と言うべきか、初めて休日に会ってみたが、やることはなかった。

「どこかでお茶でも飲むか。お前、紅茶が好きなんだな」

「好きというか、コーヒーを受け付けないんだ。悪い意味じゃなく、物理的に吐き気を催す」

「知らなかった」

「でも、お茶というのはいい案だね。一度僕の家に行こうか。途中で宿泊用の準備を済ませて、車を置いて、駅前まで歩いて行って、駅前の焼き肉屋で食べよう。その道中にどこか……まあイオンかな……お茶でも飲むか、本屋を廻るのもいい。最近も小説は読んでるんだろ? 久々にオススメの小説を紹介し合うのもいいんじゃないかな。泊まりは確定でいいんだろ」

「お前が密室の謎を解いたら焼肉を奢る——という約束だが」

「まあそれは……食べながら話すよ」

 瀬川にしては珍しい言い方だ、と思った。だが、依頼している立場で答えを急かすのも悪い気がしたし、実は謎が解けていないという可能性もある。大宮としては、瀬川に依頼し、彼に出会ってようやく気付いたことだったが——実は密室の謎などどうでも良かったのかもしれない、と思っていた。いや、正しく言えば、瀬川が理路整然としたトリックを説明出来ないのなら、諦めようという気持ちだった。瀬川にわからなければ、きっと誰にもわからない。大宮は謎を解きたいというより、ひとりで抱え込むことにストレスを感じていたのだと、今になってようやく気付いた。

 この謎を共有し、ふたりで一緒になって「不思議だ」と感じていられれば、それで良かった。

 まるで、曖昧なオチで終わった小説を読んだ者同士、「あれはこういう意図なんだよ」と話し合っていればそれで十分とでも言うような、そんな感情だった。


 4


 イオンの中にある喫茶店に入り、大宮はケーキとコーヒーを、瀬川は紅茶だけを頼んだ。途中、イオンの本屋で本を一冊買った。小説ではなく、ミステリ関係の雑誌だった。学生時代に購読していたもので、懐かしさと、一緒に読めるという観点から買った。だが実際には、ほとんど雑誌に手を付けることはなく、喫茶店での会話は終始、この十二年間で読んだ小説で何が心に残ったか? という話題になった。

 意外だったのは、瀬川は今現在はほとんどの蔵書を処分していて、小説はもっぱら図書館を利用して読んでいるということだった。学生時代、瀬川は小遣いのほとんどを小説に費やしていたし、古本屋を利用して安価に手に入れることに情熱を注いでいたように記憶している。そんな瀬川が、今では図書館で本を借りて読んでいるのだという。予定がない時は朝から図書館に行き、その場で読破することもままある、とのことだった。

「そういう生活はお前、老人がやるものじゃないのか」

「精神的にはもう老人に近いのかもしれない」瀬川は雑誌をパラパラとめくり、中身を読むでもなく、その行為を繰り返していた。「何のために働いていて、何のために生きているのかとたまに考える。そういう暗澹とした感情から逃れるには、図書館という施設は割といいんだ。図書館にはそれなりに目的と熱意を持った人間が集まるから、否応なしに自分も背筋が伸びる。ショッピングモールとは少し違う、ピリッとした空気がある」

「鬱なんじゃないか、お前」

「鬱……というのは病名として?」

「なんだか気怠い、ぐらいの意味として」

「可能性はある」瀬川は雑誌をテーブルの奥に押しやる。「要するに熱意のようなものがないわけだ。当時にそんなものがあったかは定かではないけれど、もう少し未来に対する敬意や信頼があった。今は何もない。真面目に働いてお金をもらい、評価も受けるけれど、それに対する報酬の使い道もない。いい生活がしたいという欲求もなければ、美味しいものが食べたいとか、いい服が着たいとか、そういう衣食住的な興味もない。小説を読んでいる時は、少しだけ気が晴れるし、現実を忘れられる」

「完全に鬱だな」

「大人になると色々な負の感情が身近になるだろう。そういう悪いものに中てられると、僕みたいな人間は少し、気が滅入るんだよ」

 しかしその瀬川の姿勢は、大宮から見ると、昔と変わらないな、という評価だった。大人になると……などと言ってはいるが、瀬川は昔から世界に対して飽き飽きしていて、早くこの世から逃げ出したいというような、どこか浮世離れした雰囲気をまとっていた。昔よりも言語化が上手くなっているせいで鬱っぽい言葉を吐いているように見えるが、心情的には変わらないか、あるいは少し、世間と向き合うことに慣れているようにも感じられる。意味がないことをしてみたり、他人の提案に乗ること自体、最も尖っていた時期からは考えられない。丸くなったと評するべきか、諦めがついたと言うべきかは微妙なところだが、それでも、流石に人間らしくなったなと、大宮は思った。社会人という環境のせいだろう。サラリーマンは否応なしに、社交性を身に付ける。

「まあ、俺も似たようなものだよ。特に、俺たちは独身だしな。家族のためとか、子どもの将来のためとか、そういう縛りが一切ない。自分の機嫌を自分で取らないといけないわけだが、老いると共にどんどん、自分の機嫌が良くなる方法が減ってくる。どころか、最近じゃあ奉仕精神みたいなものが湧いてくる始末だ」

「わかるよ」瀬川は得心したとばかりに頷く。「ボランティア的な」

「募金とかな」

「とてもよくわかる。誰かの役に立ちたいという気持ちが強くなる」

「無駄に金を稼いでいるような気分になるんだろうな。特に俺たちのように、無趣味な人間は」

「無趣味というわけでもないはずだけど、お金を使う趣味は確かにないんだよね。図書館で本を借りてもお金は掛からないし、小説を書いていてもお金は掛からない。だから戯れにゲーム機を買ったりしてみるんだけど、どうにも満たされない」

「俺たちはどういう時に満たされるんだろうな」

「そりゃあ——心躍る謎や、未だ見ぬトリックと出会った時だよ」

「……そんなもの、本当にあるのか?」

「あるかもしれない、と思って探すしかないんだ。僕がミステリ小説にのめり込んだのは、そもそも、読む本読む本に度肝を抜かれるようなトリックが使われているから、毎日驚きの連続だった。だけど次第にジャンル分けみたいなものを覚えて、ハウダニット、フーダニット……みたいなものを覚えて、読んだ本を仕分けるようになった。仕分けられない小説に出会えることは稀だ。何かで言い換えが聞くような小説ばかりになってしまった。それは作品の質が落ちたのではなく、僕が本を読みすぎたせいだ」

「なんだか人生お悩み相談みたいな雰囲気になってきたな」

「大宮は最近、度肝を抜かれた小説はなかったのか」

「……ないな。というか、どちらかと言えば、ミステリを読む割合は減った。純文学とか、あるいは新書みたいなものを読むことも増えてきたかもしれない。そちらの方が新鮮で楽しめるということを、最近は覚えた」

「感覚が麻痺してるんだろうね。良くも悪くも、僕たちは青春をミステリに捧げすぎた。解けないように思えるけれど非の打ち所のない解が用意されているトリックなどというものはもうこの世には存在しなくて、自分たちでそれを生み出すことも出来ない。かと言って、絶望するほど悪い暮らしもしてない。なんだかね」

 瀬川は大きく首を回したあと、紅茶に口を付ける。大宮はふいに、スマートフォンで時間を確認した。あまり有意義な時間を過ごしていた自覚はなかったが、気付けば午後五時を過ぎている。焼き肉屋は六時に予約していたから、そろそろ行動しても悪くない時間だった。

「時間?」

「バッファを見てそろそろ移動するか」

「バッファ」

「うん?」

「大宮の仕事って何だっけ」

「変わらず生産品の管理をしてる」

「工場……の管理?」

「工場で作られた製品を保管する、まあでかい倉庫みたいなものだ。生産と検品は別の会社がやっていて、それを保管……というか、まあ簡単に言えば買い取って、他のところに売りつける」

「商社?」

「大枠で言えばそうなるかもしれない」

「そう。いや、バッファというのは、IT寄りな発言だと思ったから、ちょっと不思議に思っただけ」

「そうなのか?」

「そもそもバッファーというのは、緩衝材とかそういう意味なんだけど、ITでは一時記憶装置という意味で使ったりする。まあ元々IT用語というわけじゃないんだけど、ふうん、普通のサラリーマンもそういう言い方をするのか、と思って」

「そう言えば瀬川は未だにプログラマーか」

「いや、今は……なんて言うんだろうな。問題を解消するような部署にいる」

「デバッガーか?」

「とも違う。何らかの問題が発生した時に、その原因を究明して、解決する。プログラムにバグがあればその箇所を究明するし、ネットワーク間に問題があればそれを解消する。何もしていないのにパソコンが壊れた、と言われたら、何が行われてパソコンが壊れたのかを説明してあげるような部署だね」

「適材適所という感じがするな」

「まあ、向いてはいると思うよ。仕事をやるにつれ、特にIT業界みたいな、理屈を知らないまま使われている機能の問題を解消する場合、理路整然と原因を追及するという僕みたいな性格の人間は重宝される。起こったことは、必ず説明できるわけだから。理由も原因も絶対にある。何もしていないのにパソコンが壊れるなんてことは、絶対にあり得ない」

「あり得ないのか?」

「大宮は、プログラムの知識は?」

「多少はある。VBAくらいは書いたことがあるな」

「十分だね。じゃあ例えば、これは過去にあった例だけど——千行くらいのプログラムがあったとして、これは今まで正常に機能していた。でも、仕様変更のために、ループ処理の前で変数を初期化するために、一行追加した。内容は単純なもので、上部で宣言された変数を、ループ処理の前に初期化するだけのもの。例えば数値型だったとして、ゼロを固定値として代入したんだ。意味わかる?」

「ああ、わかるが……わかるが故に、なんでそんな意味のないことをするんだ」

「宣言時に初期化しろということを言ってる?」

「そう」

「まあ、コーディングルールというのが施行されてね。宣言時に変数を初期化するのは当然として、使用する直前にも初期化しろ、というルールが追加された。で、解析してみると、その変数——まあ、仮に小文字のjとしようか。これを使用の直前でゼロで初期化した。すると不思議なことに、特定の挙動を起こすとプログラムが落ちるようになった。しかも必ず」

「初期化して落ちる?」

「いわゆるNULL参照というやつだね。しかしいくら変更前のソースと比較しても、変更点はjの初期化部分のみ。なのに何故か落ちる。不思議だろ?」

「他にNULL参照する可能性のある変数があった、とかではないのか」

「まあ答えは概ねそんなところだね。ただ、もともとNULL参照する変数があったとしたら、変更を加える前にも落ちていそうなものだろう?」

「確かに。で、答えは?」

「謎に対して向き合わなくていいのか」

「プログラムは専門外だ」

「まあ簡単に言うと——解析ソフトでは検出されなかった、ある処理でだけ利用される未初期化の変数kが存在し、これがNULLを参照していた。だが、変更前のソースでこのkが参照していたアドレスには、ゼロという値が入っていたんだ。別の変数がゼロ埋め処理をしていたおかげで、奇跡的にkの初期値はゼロを指すようになっていた」

「アドレス? ゼロ埋め?」

「簡単に言うとね」瀬川は雑誌を適当に開く。「プログラムで使用される変数というのは、人間が読みやすいように変換されているけれど、実際にはゼロとイチで表現されるメモリのどの部分を参照するか、という定義付けに過ぎない。例えばjという変数は、百ページ目を参照する」言って、瀬川は百ページ目を開く。「一方で、kという変数は百二ページ目を参照する」瀬川はページを一枚めくった。「このページに、ゼロという数字を入れることも出来るし、百という数字を入れることも出来る。そういう仕組みになっている」

「なんとなくはわかる」

「ところが、メモリというのは限りがあるし、そもそもひとつの変数が必ず一バイトで済むわけじゃない。例えばキャラクター型——まあ文字列型だね。日本語を代入する変数なら、漢字一文字入れるのに、二バイトとか三バイト必要になる。終端文字を入れて、一般的には四バイトは確保するかな。長い文字を入れるなら、六十四バイトとかね。そうやって確保する。で、どの変数がどのページを参照するかは、コンパイル時に機械が上手いこと計算してやってくれる。なんだけど、『プログラム』自体もメモリに展開されるわけだから、変数とかプログラムとかっていうのは、全部同じ、この雑誌の中で完結するわけだよ。一ページ目から五十ページ目まではプログラムの処理が書かれていて、変数の参照先は百ページ以降、とかそんな感じで割り振られる。余った部分は、都度確保して、使い終わったら解放して、メモリをやりくりする。まあ今時カツカツなプログラムなんてないけど」

「うーん……まあなんとなくわかった。二百五十六バイトしかないメモリ上には、例えば変数が五十六バイト使うと、残り二百バイトはプログラムが使うってことか」

「まあそんな感じ。さて、じゃあプログラムに一行追記した場合、プログラムが占有するメモリ領域が——まあ仮に八バイト増えるとしよう。メモリというのはブロック単位で確保されるから、言ってみれば変数の参照先が押し出される形になる。で、元々kという変数は百二ページを参照していたんだけど」瀬川は百二ページを開きながら言う。「これがプログラムの変更によって、一ページ押し出され、百三ページを参照するようになった」

「そこが元々NULLが入ったメモリだってことか」

「そう。百二ページ目は偶然、元々ゼロが入ったメモリだった。だからkは未初期化でも、いつでもゼロを参照していた。だけど百三ページ目には元々NULLが入っていた。だから最初の参照でゼロを見ていた時は平気だったのに、プログラム変更後にNULLを参照するようになって、落ちるようになった」

「玉突き事故って感じだな」

「それぞれの役割に対して、きちんと居場所を作ってあげなきゃいけないという教訓だね」

「そんなに深い話だったか?」

「大切なことだよ。それぞれがきちんと機能するためには、十分に余裕を持ったメモリの確保が必要。とにかくこのように、起きたことには絶対に理由があるし、原因がある。よって、説明することができる。一見すると、何が起きたのかわからない、あり得ないバグのように思えることでも、絶対に説明ができる。そもそもプログラムは物理的な動きの話なんだから、原因は絶対にある」

「お前が今の仕事に向いているってことはよく理解出来たよ」

 多分、大宮が瀬川の仕事に就いていたら、「じゃあこのコーディングルールは少し変更しましょう」とか「もう一行追加したら動かないか?」という対処をするだろうと想像した。実際、瀬川の職場でもそういうことが行われたのかもしれない。一般的には大宮のような考え方をする方が建設的と言えるだろう。費用対効果で考えれば、時間を掛けて原因を究明するよりも、対策を講じてしまった方がいい。だが、優れたエンジニアというのは、恐らくは瀬川のような人間なのだろう。ひとつの問題を応急処置で済まさず、きちんと解明してしまえば、次に同じ問題が発生した時にもすぐ対応出来る。

「その問題は、結構頻繁に起こることなのか?」疑問に思い、大宮は尋ねる。

「いや、それ以来二度と起きていない。今のところはね。恐らく大宮はこう思ったんだろう。頻度の少ない問題なら、別の方法で解決して忘れてしまった方が効率的だと」

「いや……」

「大宮の意見が正しいと思うよ」と、瀬川はらしくないことを言う。「一行追加して問題が起きるなら、そのソースに限っては宣言時に初期化しているんだから例外的に無視するというのが正しい。一度きりしか出会わないようなレアケースは、無駄に時間を掛けて考える必要なんてないんだ」

 本当にらしくないことを言うな、と大宮は思う。あるいはやはり、瀬川もそれなりに社会人経験を積んで丸くなったということなのだろうか。熱意がなくなったというか——やはり諦めがついた、なのだろうか。

「だから……うーん、例の密室についても、あまり深く考えない方がいいんじゃないか」

「らしくないな!」思わず大宮は声を大きくした。「お前がそんなことを言うようになるとは」

「今日一日の観測によると、僕はずっと、らしくないらしいけど」

「横文字を使ったり、車を運転したりな」

「成長なのか変化なのかはわからないけど、全てを完膚なきまでに解決することが、必ずしも正しさには直結しないということだ、と思うようになったということだよ。効率観点でもそうだし、それがわかったところでどうするんだよ、みたいな居心地の悪さもある」

「なんだよ、それはつまり、お前もあの密室の謎が解けなかったから、諦めましょうってことを言ってるのか? 焼肉は奢らないぞ」


「——起きたことを、説明することはできる」


 と、瀬川は悲しそうに言った。

「だけど、説明しなくてもいいんじゃないか、と言ってる」

「意味がわからないな」

「密室の謎が解けたところで、別に大宮は得をしないだろ。今日は久しぶりに旧友に会いに来てくれて、これから楽しく酒を飲んで肉を食って、旧友の家で缶ビールでも買ってまた喋って、昼くらいに起きてゆっくり帰って、ああ懐かしかったな、とでも思えばいいんだよ。何もそんな、半年以上悩んで時間を費やすこともなかったんじゃないか」

「……何を言ってるんだ? 解けたなら教えてくれよ。そもそもそういう依頼だっただろ」

 大宮は瀬川の雰囲気に、どうにも居心地の悪さを感じた。それは、依頼を遂行しない瀬川への嫌悪感ではなく、あの瀬川が何故ここまで言い淀むのか、ということへの疑念だった。本当に解決出来なかったから負け惜しみを言っているのだろうか? 別に、それならそれで良かった。瀬川にわからないなら、それでいい。ただ、除け者にされているような感覚もあって、端的に言って不快だった。

「まあ、そうだね」

「だろ?」

「そろそろ行こうか」

「あ?」

「焼肉。六時予約だろ。わかった。大宮はね、顔に出やすいんだよ。お前今、怒ってるだろ。不機嫌なのが丸わかりだ」

「別に怒ってはいない」

「怒ってるよ。いや僕も確かに悪い。だけどね、僕もそこまで大人じゃない。わかったことをわからなかったとは言えないよ。解決出来たことを解決出来なかったとは言えない。ただ、聞いてどうするんだよ、ということを提案しただけだ」

「お前はわかってるからそう言うんだろうが、俺はわからないから気になるし、聞いてどうするかは聞いた後で決めるよ」

「まあそうだよね」瀬川は困ったように言って、伝票を手に取る。「ここくらいは持つよ」そして、大宮に答えを待たずに席を立った。瀬川は顔には出ないが、行動には出やすい、と大宮は思っている。その大宮から見たところ、瀬川も少し不機嫌なように見えた。


 5


 焼き肉屋に向かい、大宮と瀬川は乾杯をし終えたところだった。

 イオンから焼き肉屋までの道中、二人はほとんど会話をしなかった。だが、生ビールが運ばれてきたのを見届けた後は、お互いに空気を読んで、先ほど一瞬生まれた不穏な空気を解消するよう努めた。お互いに、大人にはなりきれないものの、それなりに大人だった。

「コーヒーは飲めないのにビールは大丈夫なんだな」

「ワインは駄目だね」ジョッキを半分ほど飲んで、瀬川が言う。「ビールは意外と好きだよ。もともと炭酸水は好きだしね」

「炭酸ではないだろう、ビールは」

「まあ似たようなものだよ。ハイボールとかも好きだね。大宮は?」

「ビール党だ」

「サラリーマンて感じだ、お互いに」

 キムチやカクテキの盛り合わせと、枝豆が運ばれてくる。間髪入れずに、牛タンの皿がやってきた。一応はホストであるので、大宮が肉を乗せる係を担当することにした。瀬川はみるみるうちにビールを飲み干し、一枚目の牛タンが焼ける前に、ジョッキを空にしてしまう。

「ピッチが速いな」

「飲まなきゃやっていられない」瀬川が言う。「推理をしなきゃいけない」

「探偵が酔ってどうする」

「どうせ飲むから、僕は大ジョッキを頼むよ。大宮は?」

「人の金だからって……まあいいや、俺も同じのでいい」

 カルビが運ばれてきたタイミングで、瀬川がビールを注文する。お互いに一枚目の牛タンを口にして、しみじみと噛み締めた。瀬川は恐らく、普段からこういった食事に縁がないのだろう、味のあるものを久々に食べた、とでも言うような面持ちだった。

 二杯目のビールが運ばれてきたところで、瀬川が口火を切った。

「僕が話すことは真実じゃない」

「なんだ急に」

「正しくは、真実とも嘘ともつかない。ただの推理——あるいは説明でしかないということ。それを念頭に置いて話を聞いてもらう」

「密室の話か?」

「うん。とにかく——まあ、順を追って話した方がいいね、こういうのは。どこから話そうかな……ああ、居場所の話からしよう」

「居場所?」

「高遠団地で話したろ。自分の居場所がないと感じると、人は存在しない居場所を求めて彷徨ってしまうって話。じゃあ居場所の定義って何だろうか」

「そりゃ……安心感というか、そういうものじゃないか。信頼とか、うん……」言いながら、大宮は自分の中に、居場所の定義がないことに気付く。「まあ、そういうもんだろ」

「例えば肩書なんかもそうだね。僕や大宮の名刺に書かれた役職は、それなりに居場所と言える。同時に、会社に勤めていること自体が居場所だ。そういうものがなくなると、人は居場所を失う。うちの親父もそろそろ定年だけど……既に会社では居場所がなくなりつつある、なんて言ってるよ。うちの親父はまあ、そこそこの企業に就職しているけど、万年平社員のまま定年になる。規模が規模だから仕方ないんだけど、それでもまあ、定年間際になっても平社員というのは、居心地は悪いだろうね。そして次は会社員という居場所も失って、ただの男になる。でも、夫であったり、父であったり、祖父としての居場所は残る。もしかしたら海外にでも行くかもしれないね、両親揃って」

「ロシアにか?」

「いや、住まいはアメリカ」と瀬川は言って、牛タンをつまむ。「とにかく居場所が減れば減るほど、人は拠り所を求める。中には、夫という居場所も、父という居場所も、祖父という居場所も持たずに、ただ老いていく老人もいる。彼らは定年退職したあと、何をするんだろうね。居場所を求めてクレーマーになったりするのかもしれないし、淡々と日々を過ごすのかもしれない。けれどいずれ限界が来て、自分の居場所を求めて歩き始める。それが徘徊老人の誕生秘話というわけだ」

「そういうものか?」

「真実か嘘かはさておく」と、瀬川は改めて言う。「しかし僕らのように、停滞気味の人生を送っていると、誰かに対しての奉仕精神みたいな感情が湧いてくるのも確かだ。自分の機嫌を取れなくなって、自分の存在意義が見つけられなくなる。これは居場所を失い続けて、次第に自分の存在価値をも失っていくのと同義だ。でどうなるかと言うと、募金をしたり、人助けをしたり、ボランティアに精を出したりする。宗教にハマるのもこの延長線上にあると言っても過言ではない」

「密室の話じゃなかったのかよ」大宮は笑いながらカルビを網に乗せ、ビールを呷った。

「理路整然と話しているんだ」

「いや悪い、茶化すつもりじゃなかった」

「気にしてないよ。とにかくね、それを前提として話しておく。さてと——ここで肝の部分について少し話す。結末はさておくとして——あの密室は、特別なトリックを用いて作られたものじゃない。単純に、人が閉めたんだよ」

「人が? 誰かが外から鍵を掛けたって言うのか?」

「そういうこと」

「バカ言うな。だって——」

 言い掛けて、大宮は口を噤んだ。だって、そんなことが出来る人間は、家族以外にあり得ない。だとしたら、犯人は家族のうちの誰かということになる。つまり瀬川は、大宮以外の家族の誰かが——祖母を閉じ込めたと、そう主張しているのか。

「……顔に出やすいな、大宮は」

「いや、だって……お前、それは——」

「ここで話をやめたっていい」と、瀬川は真剣な表情で大宮を見つめる。「昔みたいに、馬鹿話をして、旧友との交流を深めるのもいいと思う。僕は……その方がいいな。さっきも言っただろ? 聞いてどうするんだよ」

「だからって……いや、あり得ないだろ。そんなこと」

「あり得るよ」

「だから、バカ言うなって。第一、そんな時間的余裕はなかったはずだ。ばあちゃんがいなくなってから、みんな必死で探したんだぞ。人の目を掻い潜ってばあちゃんを——」


「僕は、起こったことを説明している」


 瀬川の声は、どこか悲しみを孕んでいるように聞こえた。大宮は、平手打ちでも食らったような気がして、言葉を止めた。ああそうだ、質問しているのは俺だ。依頼をしたのは俺だ。大宮は自分の立場を思い出す。瀬川に怒りをぶつけるのは、おかしい。乾いた喉を潤そうと、ジョッキに手を伸ばす。もう空になっていた。そんなに飲んだのか。

「頼もうか?」

「……そうする」

「な、飲まなきゃやってられないだろ?」瀬川のジョッキも空になっている。「すみませーん」

 三杯目のビールが来るまで、会話は中断された。肉はすっかり焼けていたが、皿に移したまま、食べる気力が出なかった。すぐに提供されたジョッキを握りしめ、口にはしないまま、「それで」と大宮は先を促す。

「僕の言ってることは真実とも嘘とも限らない」釘を刺すように、瀬川はまた同じ言葉を繰り返す。「いいんだな大宮、説明を続けて」

「…………ああ、聞かせてくれ」

「わかった」

 瀬川は二割ほどビールを飲んで、深く息を吐いてから、大宮の目をしっかりと捉え、説明を続ける。

「トリックはない、というところまで話した。まずはこれについてきちんと説明しておこう。ダルマ錠は鍵がなければ閉められない。もっとも、合鍵や、それに酷似した機構の代用品があれば鍵を掛けることも出来るけれど、それらは意味を持たない。そもそも密室という状況は、犯行が不可能な事件を演出するために利用される機構だ。今回のように、お婆ちゃんが閉じ込められていただけだ——という観点から見れば、別にこれは密室でもなんでもないんだよ」

 そう言われて、大宮はハッとする。大宮は今まで、突然行方不明になった祖母が蔵の中で見つかった、という現象について考えていたが、誰かが祖母を閉じ込めたのだとすれば、単にそれだけの話だ。否、そんな想像をしたことがなかったかと言えば嘘になる。だが、そんなことはあり得ないことだと、否定していた。家族が祖母を閉じ込めるはずがないのだからと、真っ向から否定していた。だが——瀬川の言っていることは筋が通っている。というか、物理的に考えれば、それ以外にあり得ない。

「だからこれは、ハウダニットでも、フーダニットでもない。ワットでも、ウェンでも、ウェアでもない。ホワイダニットの事件だ。どうしてそんなことをしなければならなかったのか——そういう事件だ。ここまでいいかな?」

「フーダニット、じゃないのか?」大宮は不安そうに尋ねる。

「ああそうか、フーでもあるね。まあ……そこは一緒に説明する。大宮、楽しく肉を食べよう。せっかくの再会だろ」瀬川は無理に笑顔を作ってみせる。「お前は聞くことを選んだんだ。だったら、せめて楽しく食事をしよう」

 言われて、自分が眉間に力を込めていることに気付いた。大宮は再びハッとして、深く息を吸い込むと、「悪い」と言って、ジョッキを掲げた。二度目の乾杯だった。内心はそんな明るい気持ちなどさらさらなかったが、瀬川を付き合わせてしまったという負い目が、大宮に社交性を取り戻させる。

「ハラミも頼もうか。流石に二人とも中年だから、一人前ずつで事足りるね。大宮も何か選んでよ」瀬川がメニューを差し出す。「さてと……次は高遠団地の話だね」

 なんで団地の話になるんだ、と言いたくなったが、大宮は何も言わなかった。代わりに店員を呼んで、ハラミとホルモンを二人前ずつ頼むことにした。追加注文で話の腰を折られるのが嫌だった。今はとにかく、真相が知りたかった。ついでに大ジョッキも二杯注文しておく。もうどうにでもなれ、という精神状態だった。

「よく飲むね……まあそう、高遠団地。あそこが既になくなりそうだという話はしたよね」

「聞いたな」

「それはつまり、お前のお姉さん一家が住む場所を失うということでもある」

 言われるまでもなく、高遠団地を見た時にそう思っていた。だが、それが今回の件とどう繋がるかまでは、大宮は考えなかった。しかしすぐに、その接点に気付く。

「ばあちゃんが死ねば部屋が空くとでも言いたいのか」

「喧嘩腰なら説明はやめるよ」

「あ、いや……違うんだ。すまん。そういうつもりじゃないんだが……」

「気が昂ぶってるのはわかるよ。あ、すみません」瀬川はビールジョッキを手に取りながら、店員に向かって言う。「まあ大宮の気持ちもわかるから、気にしてはいないけどね。うーん……先に言ったように、ただ説明をしてるだけだ。真実か嘘かは定かではない。それを念頭に置いてよ」

「わかった」

「高遠団地はいずれ取り壊される。あの有様を見れば誰でもそう思うよね。で、君のお姉さん一家は家を失う。新しい家を探すというのが一番手っ取り早いけれど、あそこより家賃の安い物件はそうそうないだろうし、同居してしまえばそれが一番楽だよね。そもそもさ、一人一部屋みたいな考え自体が間違っていて、別に何人であれ一緒に住んじゃえばいいはずなんだよ。物置だっけ? 空いてる部屋がひとつあるんだから、お姉さんと君の甥っ子が一緒に住めばいい。贅沢言ってる場合じゃないよ。でもお姉さんは団地に住み続けた。なんで? 浮気して、離婚して、出戻って来た娘を勘当するでもなく——年末年始は仲睦まじく年越しをするような家族なのに、どうしてお姉さんは実家に戻らないんだ?」

「さあ……俺にはわからない」

「僕はこう考えた。誰かが弘人君を快く思っていない。あるいは、お姉さん自身を快く思っていない人が居る」

「……続けてくれ」

 大宮はビールを飲んだ。三杯目のジョッキも空になる。テーブルの端によけて、四杯目を強く握った。酔っている感覚があった。この店に来てどれくらいの時間が経過したのだろう。ビールだけで腹が膨れ上がっている。それでも、来た肉を網の上に乗せた。何かしていないと、正常な精神状態ではいられない気がした。

「浮気によって生まれた子どもの可能性というのが、僕にはすごく引っかかった。それが本当かどうかは僕にはわからない。ただ、母親であるはずのお姉さんがDNA鑑定を嫌がるというのは、どうにも気になるよね。ほとんど自白みたいなものだ。で、誰が嫌っているんだろうと考えた。お姉さんなのか、弘人君自身なのかはわからないけど、どちらかを、誰かが嫌っている。普段あの家に寄りつかない大宮は除外するとして、ご両親かお婆ちゃん。普通に考えれば自分の娘が不貞を働いたら勘当しそうなもんだけど、ご両親はそうはしていなかった。ある種受け入れてる感じだろ? 旦那さん——元旦那さんの子じゃなかったとしても、娘の子どもには変わりないんだから、それを受け入れてる。孫として。ただ、曾祖母であるお婆ちゃんはどうかって言うと、これがわからない。でも誰かが何らかの否定意見を述べているはずだ」

「あるいは、姉が嫌がっていたかもしれない。それか弘人か」

「頻繁に実家に帰省しているようだし、本人が嫌なら、そもそも地元に帰ってくるなんて決断をするとは思えないよ」瀬川は焼かれた肉をお互いの皿の上に乗せる。乗せるだけで、口には運ばない。「地元に戻ってきたのにはそれなりの魂胆があったはずだ。でも、そう上手くは行かなかった。で、話はスイッチの件に移る」

「スイッチ?」

「ニンテンドースイッチ。それ以外にも、弘人君の所有物と思われるものが仏間にはたくさんあった。どうしてだろうと思ったんだよ。リビングは二階にあるんだろ? 普通の家庭なら——いや、この言い方は悪かった。気を悪くしないでくれ。一般的に見れば、年長者に気を遣って、子どもの遊び道具はリビングとかそういうところに置くものだよ。なんでわざわざ、お婆ちゃんの寝室である仏間に、そういった類の道具を置くんだ?」

「なんでって……」

「そこに、弘人君がお婆ちゃんと接する時間を増やそうという魂胆が見える」

「考えすぎじゃないか?」

「せっかくなんだから、でっかいテレビに繋いだ方がいいに決まってるだろ。リビングが二階にあるんなら尚更、そっちで遊ばせておいた方がいい。お婆ちゃんの居場所を奪ってまで同じ空間で遊ばせる必要があるか? 一回、自分の家族ってことを忘れて考えてみなよ。自分が子どもだったとして、曾祖母の部屋でゲームさせられて楽しいか? まあ僕に曾祖母はいなかったんだけどさ」

「そんなことは考えたこともなかった」

「あの配置はどこか意図的だった。そもそもが食事中にテレビを見ない家なんだろ? 食事中にゲームなんか当然しない。だったら仏間にゲーム機を置いておく理由がない。まあお姉さんの家の教育方針は知らないけども……そもそもさ、去年の大晦日は実家に泊まったわけだ。その時大宮はどこで寝たんだ」

「俺は……リビングのソファで寝た」

「で、お姉さんと甥っ子は?」

「……倉庫で寝てたな」

「な? 暮らせるんだよ。なのに暮らしてない。誰かが反対票を投じてる。で、家族全員がお婆ちゃんを説得しようとしていた。弘人君との接点を増やして、なんとかそれを受け入れさせようとしていた。そう考えると、辻褄が合ってくる」

「じゃあ——」言い掛けて、大宮は慌ててビールで口を塞いだ。危うく喧嘩腰になるところだった。冷静さを心掛ける。瀬川に怒る意味がない。こいつは説明をしてくれているだけだ。「……じゃあ、つまりお前は、姉貴が婆ちゃんを閉じ込めたって言ってるんだな」

「……フーについてはホワイと一緒に説明する」瀬川は言って、深く息を吐いた。「ところで、お前が蔵の鍵を開けて中に入った時、電気はついてたか?」

「……いや、ついていなかった」

「それはつまり、電気のスイッチは外にしかないという意味か?」

 言われて、大宮は落胆にも似た溜息を漏らした。そうだ、電球のスイッチは蔵の中にもある。いくら真っ暗闇の中だとは言え、足腰の弱った老人だとは言え、蔵の中に放り込まれて、電気も付けられないという状況になるのだろうか。確かに、それほどに弱っていたとも考えられる。あるいは弱った状態で放り込まれたとか——いや、祖母の容態は安定していたはずだ。長時間寒さに晒されて高熱を出してはいたが、生き延びた。死に直面した人間が、そんなに簡単に自分の人生を受け入れるとは思えない。手足を縛られていたような痕跡もなかった。

 なら、何故。

「蔵の扉の内側は汚れていた。それはつまり、扉の内側を誰かが触れた形跡はなかったということになる。もちろん大宮ルリさんは、閉じ込められたことに気付いた瞬間に全てを悟って無駄な抵抗をしなかった、と考えることも出来る。しかし、普通に考えれば、真っ暗闇に閉じ込められたら、抵抗する。扉くらいは叩くよな。いやそもそも、あの蔵は昔からあるんだろ? スイッチの場所くらい探り当てられてもおかしくない。あの蔵は窓を開けない限り、外から中の明かりは確認出来ない。電球のスイッチを入れたことを察知して、外側にあるスイッチを落とした? ……そんなマメなことしないよな。じゃあどういうことだよ、大宮」

 瀬川はジョッキを傾ける。

 挑戦するような視線だった。

 酔っているんだな、と思った。大宮も酔っている。

 だが、思考は不思議なくらいクリアだった。

「……じゃあ、ばあちゃんが?」

「起こってしまった出来事を説明するためには、それが最も理路整然としている」

 大宮は深い溜息をついた。

 そして沈痛な面持ちのまま、項垂れる。

「蔵があまりにも汚すぎた。つまり抵抗した様子がない。そして密室トリックなどが使われた形跡もなかった。そもそもあの手の錠だとトリック自体考えつかないね。その時点で、大宮ルリさんは自ら蔵に入ることを決めたと考えるのが妥当だ。だがそれには協力者が必要になる。つまり、鍵を閉める人間だ。大宮ルリさんは自ら蔵に入り、死を待つことにした。理由は再三述べた通りだ。自分の存在意義を感じられなくなり、居場所を失いつつある人生。そもそもが老老介護でただ生かされているだけのような日々。孫も曾孫も、自分のせいで生活に困っている。だけど自分はどうしてもそのふたりを受け入れられない。若い家族を愛する気持ちと、生理的に受け付けられない気持ちが相反していた。しかも家族は真綿で首を絞めるように、少しずつ弘人君との繋がりを持たせようとしてくる。生き地獄だな。で、彼女は決心した。自分を蔵に閉じ込めて——間違って閉じ込めたことにしてしまえばいい。だから抵抗もしなかったし、助けを呼ぶこともしなかった。寒さに震え、ただじっと死を待った。それをお前が幸か不幸か——見つけた」

「じゃあ……ばあちゃんと姉が……共謀したってことか」

「いや、不仲だったと考えると、僕はご両親も共犯だったと考える。大宮資料に書いてあったよな。お前と弘人君は先に買い物に出て、ご両親とお姉さんが買い出しに行った。せっかくの年末なんだから、全員で行けばいいだろう。なんでそんな組み合わせになったんだ? 車は一台しかないんだから、きっとお前と弘人君は徒歩かバスで行ったんだろう。何故そんなに無駄なことをする必要があったんだ」

「……姉にそう言われたからだ」

「お前と弘人君を送り出した家族は、全員で共謀しておばあさんを蔵に閉じ込めた。そのあと買い物に行き、二人の帰宅を待った。そもそも、家に帰っておばあさんが見当たらない時点で、お前に電話の一本でもすれば済む話だろ。それをしなかった。お母さんは近隣住民に電話、お父さんは車で探しに出る。警察に連絡したのは誰だ?」

「俺だ」

「だからつまり……そういうことだよ」

 瀬川はそう言って、話は終わりとばかりに口を噤んだ。皿に乗った肉をようやく食べ始める。大宮は深く息を吸って、吐いて、それを何回か繰り返してから、口を開いた。

「何故、俺が帰省する年末にその計画を行ったんだろう」

「お前という第三者の存在が必要だったんだ。お前がいなかったら、弘人君以外は全員共犯者なんだから。弘人君を連れ出す役割が必要だった。それに、家におばあちゃんがいないとわかっても、誰かが連れ出した——という言い訳が必要だった。それがお前だ。ご両親とお姉さんが家に帰った時点で大騒ぎになって当然なのに、そうはならなかった。お前が帰省していたからだ。お前が帰ってきたことでようやく、その時点から『失踪』はスタートする。その時には既に、事件は終わっていたわけだ。しかしお前が帰省していたことで、事件は正しい『失踪事件』になった。幸いにもお前は、家族の思惑に気付かなかった。いや、それが普通だよ。そして結果的に、事件は未遂に終わった」

「ただ……ただ、一緒に住めば良かったじゃないか」

「それを言い出したら大宮、離婚なんて起こらない。浮気しても埼玉で暮らしていれば良かった。それを許せない人間がいるから、夫婦は離婚する。同様に、親族であっても、そうして不貞を受け入れられない人間がいる。それが大宮ルリさんだったんじゃないか」

「……そんなに嫌っていたのなら、何故自ら死を選ぶなんてことをしたんだ……」

「だから、最後の奉仕精神なんだろ。自分の居場所は少しずつ奪われて、あの仏間と蔵にしかなくなっていた。仏間にしてみても、弘人君の所持品で少しずつ浸食されて行く。プログラムと同じだよ。押し出されたんだ。それに、メモリには限りがある。詰め込みすぎればオーバーフローを起こす。自分の居場所もなければ、存在意義も見出せなくなった彼女は、最後は思い出深い蔵の中で死ぬことを選んだ。もちろん——再三言うように、僕の言葉は真実とも嘘ともわからない。ただの推理だ。ただの説明だ。起こったことを、理路整然と話しているだけだ。だけど——これ以上腑に落ちる説明は、僕には出来ない。正しいかどうかなんてわからない。でも少なくとも、この説明に不備はない」

 大宮は二の句が継げなくなった。瀬川の説明は、確かに腑に落ちる。そう言われてみれば、思い当たる節もいくつかあった。思えば、祖母と姉、甥が仲睦まじくしている様は、あまり見た記憶がない。元よりあまり帰省していなかったというのもあるが、たった数時間とは言え親族が顔を合わせている中で、祖母が祖母らしい顔を見せていた記憶はなかった。自分と会うと嬉しそうな顔をするのは、久しぶりに会うからだと思っていた。だが——

「……これは推理じゃなくていい。ただの感想を聞かせて欲しい」

「なんだ?」

「旅行から、無事に帰ってくると思うか?」

 大宮の発言に、瀬川は少しだけ考えてから、「そこまで無茶はしないでしょう」と答えた。理路整然としていない、ただの感想だったが、大宮は少しだけほっとした。瀬川が言うと、何故かそれが正しい言葉のように聞こえた。

「……もし無事に帰ってきたら、俺はやるべきことをやるよ」

「なにそのやるべきことって言うのは」

「お前が言ったんだろ。俺がこの話を聞いてどうするか、って」

「……そう言えば言ったね。どうするの?」

「推理してみろよ」

 大宮は挑むように言ったが、瀬川は特に気にする風でもなく、

「自分が金を払って手配もするから、大宮ルリさんを老人ホームに入れる、とか?」

 とすぐに言った。

「……なんでわかるんだよ」

「僕でもそうすると思ったからだよ」

「奉仕精神か?」

「そう。誰かの役に立ちたいからね」

 瀬川が言い終えると、どちらともなく笑ってしまった。二人は三度目の乾杯をして、そのあとのことは、あまりよく覚えていない。


 6


 七月の下旬、大宮は瀬川に電話を掛けていた。

 平日の夜だったが、五コール目でようやく繋がり、面倒くさそうな声で「瀬川です」と応答があった。

「大宮だ」

「だろうね。表示でわかった」

「ならもっと愛想良くしろよ」

「要件は?」

「ばあちゃんを老人ホームに入れることになった。で、姉と甥が実家に住むらしい」

「そう、よかった。高いんじゃない? 老人ホーム」

「月額二十万円くらいだ」

「高いなぁ」

「大人が全員で折半することになった。両親が十万、俺と姉がその半額ずつだ」

「よくそんな交渉が通ったね」

「少しだけ、お前の推理を拝借して、家族と話し合った」

「脅しだ」

「脅しなわけあるか。ばあちゃんも暮らしづらいんじゃないか、っていうところを拝借したんだよ。老老介護も大変だろうしって。ばあちゃん自身も俺が説得して、今月末から入居することになった」

「よかったじゃない」

「収まるべきところに収まった感じだ」

「わざわざ報告してくれたわけ? 悪いね」

「いや……軽く話してはいるけど、見方によっちゃこれ、殺人未遂だろ」

「自殺幇助じゃない?」

「どっちでもいいが、流石に表沙汰には出来ないまでも、うちの家族はかなりの極限状態だ。だから、個人的には随分とお前に助けられたと思ってる。家族が犯罪者にならずに済んだし、誰も死ななかった。改めて礼をしたい」

「あそう。タダ飯なら歓迎だけど。帰ってくるわけ?」

「いや、こっちに来ないか?」

「東京? 嫌だよ、面倒くさい」

「昔一緒に新宿の紀伊國屋に行っただろ。学校サボって」

「あったねえ。めちゃくちゃ怒られた。でもいいよ、今はなんでもアマゾンで買えるから。そもそも図書館通いだし」

「いや……俺じゃないんだけど、ちょっと困ってるやつがいるんだよ。そいつの話を聞いて、また得意の推理を披露してくれないか、というのが本題でな」

「ああそういうこと。でもそれこそいつもの『大宮資料』を送ってくれれば、それで説明するけど」

「うーん……それもちょっと特殊な話で、出来れば口頭で説明したいんだ。現場もあるし」

「現場? また密室? というか、警察沙汰なら警察に通報しな」

「密室ではあるんだが……相変わらず警察に連絡するほどのことじゃない」

「何が起きたわけ」

「交通費は出す。俺じゃなくて、依頼人が」

「枕代は?」

「枕代! 古い言葉を使うなあ。宿泊費でいいだろうが」

「東京のどの辺?」

「王子ってところだ」

「あー……北の方だっけ? じゃあ浅草寺にでも行こうかな」

「来てくれるか」

「先に資料。そのあと考えるよ」

「お前のところ、夏休みとかないのか? 予定を立てるから、スケジュール送ってくれ」

「僕は連休取ること滅多にないから……まあいいや、とにかく資料」

「それも会った時に渡す」

「うーん、どう考えても主導権は僕にあると思うけどな……とにかくスケジュールは送るよ。今週中に。でもそもそも、大宮が考えればいいんじゃない? 僕ほどとは言わないけど、それなりに頭は回る方でしょう」

「三ヶ月ほど考えてる」

「はあ。じゃあ四月頃の事件?」

「事件自体は一月に起きたらしい」

「お前は半年考えてから僕に下請けしてるわけ? いやまあいいけど。面白そうなら行くよ。どうせ暇だし。久々に大宮と会ったら、楽しかったしね。貴重な人間関係だ」

「歳を取ると交友関係は減るからなぁ」

「そう。お互い大事にしないと」

「とにかく、ありがとう。先方にも伝えておく」

「で、大宮は帰省しないわけ? おばあちゃんの入居に合わせて、とか」

「ああ……帰る予定だ。会えるか? うーん、じゃあそこである程度は伝えてもいいかもしれないな。資料も書いておくか……」

「そうしよう。じゃあそんな感じで……以上かな? 切るけど」

「相変わらず情緒ってもんがないな。まあ要件はそれだけだ。助かったよ瀬川」

「焼肉ご馳走様。じゃあ、おばあちゃんによろしく」

「ああ」

 大宮は通話を終わらせ、溜息をついた。

 まるで和やかに老人ホームの入居が決まったように話してみたが——実際には、両親と姉に対して、大宮はほとんど脅迫めいた説明をしていた。

 どうしても、家族のことを許せそうになかった。瀬川の言った通り、人類同士が許し合えるなら離婚など発生し得ないのだということを身をもって痛感した。大宮はもう、家族が恐ろしい生き物に見えて仕方がなかった。だから翌週、また帰省し、姉に都合を付けさせ、大人四人で話し合った。核心的な部分は話さないまでも——もちろん瀬川についても話さなかった——大晦日の夜に起きたことについて、警察に話す必要があると考えている、と前置きをした。

「だけど、きっとみんな色々溜め込んでいて、限界なんだろうなという気もした。金銭的にだったり、住居環境的にだったり、そういう……なんだろう、色々が限界に達するとこういうことも起こるんだろう。姉貴の浮気だって、俺は興味ないけど、まあ色々事情があったんだろうと思う。少なくとも、みんなが興味本位とか、目先の利益のために、こんなことをする人間だとはどうしても思いたくない」

 それに対して、母と姉はそれぞれ、否定的な意見——そもそもそんなことをするわけがない、というような釈明——をしていたが、話の途中で父が突然、土下座を始めた。ホテルのラウンジを利用していたのでまさかそんなことをするとは思っていなかっただけに、大宮は驚いた。慌てて止めさせ、座り直させる。店員にも何度も謝罪をした。

 大宮は父のことを寡黙で日和見主義的な人間だと思っていたが、息子が真相に気付き、本気であることを感じ取ったのかもしれない。それほどまでに鬼気迫る様子だった。

「実はうちにはほとんど金銭的余力がない。このまま目減りする一方だ。収入のほとんどはお婆ちゃんや、俺たちの年金に頼っている。お前には詳しく話していなかったが、お婆ちゃんはもうボケが始まっていて、実は過去に二度、家を抜け出している。いよいよ俺たちは何をするかわからん。今後の人生、弘人だけが心の拠り所だ。お婆ちゃん自身、完全にボケられれば幸せなんだろうが、たまに意識をハッキリさせる。お婆ちゃんも辛いそうだ。だから、お婆ちゃんと話し合ってみんなで決めたことなんだ。それが一番みんなが幸せになるんだって、あの時は本気で思っていた。今考えると狂ってる。だけど本当に、それが一番丸く収まるように思えてならなかったんだ。ああ……晶、姥捨て山って聞いたことあるか? それみたいなもんで、みんなが幸せになるならと……考えたことなんだ」

「……金に余裕がない理由は、慰謝料の肩代わりだよな」

 大宮の発言に、父は何も言わない。母も無言だった。しばらくしてから、姉が不承不承といった様子で、「すみません」と小さく言って、頭を下げた。

「親父と母さん二人で、何とかして十万円捻出してくれ。それくらい何とかなるだろ。姉貴は——団地を引き払うなら、五万円くらい何とかなるだろ。家だって広くなるんだし、家賃だと思えば十分だよな。残りは俺が払う。入居時の一時金も——まあ、今まで何の世話もしてこなかったんだから、俺が負担する。それでこの件は、全部終わりにしよう。他に、借金とか、滞納とかしてる人はいないか? あるなら今全部話してくれ。本当、頼むから……しっかりしてくれよ。頼むから」

 大宮の提案は、家族にとっては破格の条件だったと言える。月々二十万円と、入居一時金が三十万円。そのうち、月額の四分の一と一時金を大宮が支払う。父はテーブルに頭をこすりつけるようにして「すまん」と言って、それ以上何も言わなかった。母と姉は何故か敬語で「すみません」と頭を下げる。大宮はと言えば、「今までばあちゃんを見てくれていてありがとう」と、こちらも頭を下げていた。それくらいはするべきだ、と、大宮は自分に言い聞かせる。東京に出てからというもの、ろくに家族と関わろうとしなかったのは自分自身だ。今回の件が口減らしだというなら、俺は出稼ぎに出た長男。金くらい援助しなければ収集がつかない。そう自分に言い聞かせて、決着をつけることにした。

 過去に老人ホームについて話した時、施設に空きがないと言っていたが、実際には「安い施設には」空きがないということだったらしい。金銭的な理由で、老人ホームに入れるだけの余裕が大宮家にはなかったのだそうだ。大宮が東京に戻ってネットで検索するだけでも、近場にはいくらでも空きがあった。老人ホームは今やコンビニと同じくらいの数が乱立していて、どこにでもあった。立地や金額、環境などの条件を満たす最高の施設はなかなか見つからないかもしれないが、とりあえず入居させるのは簡単だった。月の終わりには、祖母は老人ホームに入り、姉は団地を引き払って実家に出戻りとなる。考えてみれば、実家のリフォームを終えてすぐに姉の離婚騒動があり、慰謝料を肩代わりしていたのだから、大宮家の貯蓄はその時にほとんど消えたのだろう、と、大宮は考えた。そういう金の推移を、あまり考えていなかった。俺もほとほと家族に関心がなかったのだと、なんとなく、後悔した。

 通話を終えたスマートフォンを握りながら、父親の一生は何だったのだろう、と考える。母親だってそうだ。全てを犠牲にして育てた娘は誰の子かわからない子どもを産み、挙げ句浮気がバレて離婚。息子は結婚もせず、都会に出てしまい、ただ金を稼ぐだけの生産性のない日々を送っている。彼らの一生は幸せだったんだろうか。同様に、姉や自分は幸せなのだろうか。祖母は? 甥は? 幸せの定義は?

 ——そんなことを考えながら、大宮はもう一度、瀬川に電話をした。

 今度は一コールで通話が始まった。

「瀬川です」

「すまん、言い忘れてたことがあった」

「これで僕も忙しいんだよ。夜は特に」

「どうせ読書だろ。なあ、さっき月末に帰省すると言ったろ。その時、また泊めてくれないか」

「なんでだよ。実家に泊まりなよ。今度はちゃんとした帰省だろ」

「姉たちが引っ越しを始める頃合いだから、寝る場所がないんだ」

「どうせソファだろ。ソファに荷物でも置くわけか」

「寿司奢るよ、寿司。昔、いつか入ってみたいって言ってた寿司屋があったろ」

「三幸鮨ね」

「あそこに行こう」

「…………まあいいけどね。知り合いとやらの事件の話もしやすいか。部屋に空きもあるし。じゃあ、まあ、そんな感じで」

「すまん。時間なんかは追って連絡する」

「はいよ」

 二度目の通話を終え、大宮はまた息を吐いた。今度は幸福の度合いの強い溜息だった。

 どうやら自分は、瀬川という男との関係を、幸せだと定義していることに気付いた。そして幸せとは、居場所とも同義なのではないかと考える。つまり居場所の定義とは、居ることが幸せな空間であり、そのもの人間関係なのではないか。そしてそうした関係は、自然と出来上がるものではなく、お互いの努力によって培われるものなのではないかと、直感する。きちんと話し合って、お互いを尊重し合えば、悪い結果には至らないはずだ。全員分の居場所を確保しながら、寄り添うことが出来るはずだ。

 少なくともこれから、瀬川と久しぶりに繋がったこの関係は、大切にしようと思った。

 中年独身男性同士の、妙な縁だが、それはとても、居心地が良かった。

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瀬川と大宮 福岡辰弥 @oieueo

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