酒論への応援コメント
私は飲酒によって本来性が現れるとは考えません。本来性が能力の欠如状態に宿るとは考えません。第一飲酒による酔い度合いによって多分に差異が現れてしまうし、それによって運転のみならず、歩行さえもできなくなるのであれば、直立二足歩行というヒトの象徴までも失われてしまいます。それを薬の過剰摂取の副作用とみなすのであればそのグラデーション的な前段階の能力欠如も同様の効果と考えない理由はないと思います。故に能力の欠如がまさにそのために本来性の欠如となると考えます。本来できていたことができなくなるのですから。ブレーキの利かない車を本来の状態とは捉えないのと同じでしょう。
そして飲酒状態を本来性に帰属することは多くの人間にとって不本意な結果を招くことになります。人間関係においてはそこは割り切って話のネタにできるならするくらいがいいと思います。我々が酔っている時間なんてごく限られているのだから私であればよほど酔ってない状態の自分を評価してもらいたいものです。自然に生きて、頑張って、無理してるんですからそれを虚構としてアルコールで膜を剝ぎ取ってそれを本来とするよりも実力を十二分に発揮できるというその素面の目で本当の他者を見る方が真摯であると思います。
作者からの返信
基本的に私の思う本来性とは人間という存在の本来性ではなく、一生物としての本来性ですね。歩行出来なくなると仰いましたが、人間だって最初から歩行できていた訳ではないでしょう。勿論、どこまで人間と見做すかの問題となってきますが、私的には本来性とはある程度際限なく遡れるものの思ってます。だから実用的なことを言っているのではなくて、割と概念的なことを言ってます。素面に本当の価値があるとは私は考えていません。それこそみな虚構です、我慢しているのだと私は解釈します。その点で素面はパンスト相撲に似ている。即ち張り詰めているから本来の形状を失っています。能力だって私は勿論、実用的に考えれば歩けなくなるのも車運転出来なくなるのも欠如、つまりは本来性の欠如と思われますが、歩くのはまだしも車の運転が人間の本来の能力に含まれているとは思ってません。直立二足歩行と言えばまあ何となく猿人とかが思い浮かぶでしょうが、彼らに車を運転できる能力があるとは思えない。また、ブレーキが効かなくなった車を例に出されていましたが、それ自体本来性の回帰論に寄与しています。酒を飲んだ結果ブレーキが効かなくなるのであれば、尚更酒は本来性を取り戻す契機となる筈です。多分これはフランス現代思想的な考えです。酒を飲むことでしか多分、本来的な価値は分からないと私は思うのです。勿論、素面も大事ですが。つまらない結論ですが、結局総合的に判断する方がいいとは思います。それに関して、酒を飲んだ状態を無視して人間関係を測るのはある程度無理があるとは思います。そしてこれは試論なので別に真に受ける必要はないです。
酸性塩基性への応援コメント
片や普遍と呼ばれ、片や半端と呼ばれるそれを求めては拒否することがありました。私はその針の孔ほどの均衡点に完全があると考えたこともありました。
作者からの返信
全ての人間に所在を与えて規定し、秩序化する社会の形にいまは私、疑問を抱いています。おっしゃる通り、「均衡点」に完全があるのだと私も思います。それに人間は無意識下でそれを望んでいる、全ての行動は均衡点への運動に帰着されるのです。だから皆んな頑張って生きている、生きる目的が完全にない人間などいないと思います。何故って皆んな均衡点を目指すからです。ただ実現は難しい。でも実現する時があります。それが死です。逆に言えば、実現した時ひとは死ぬのです。それに関して私は生の対義が死だとは思っていません。生の対義は無です。
前言への応援コメント
浸透圧は濃度の高い方にかかる。これはいわば有(集合)の権威ですかね。ただの比喩ですが。
作者からの返信
浸透圧という考えもアリです。私はここでは人間を実体として捉えていませんでしたが、人間を正しく人間として扱うなら浸透圧の考えが必要となるでしょう。有(集合)の権威という考えは正しいです。皆から「あいつを殺したい」と思われると、自分の権威はどんどん下がって行く。これが続くことで集合側の権威が一時的に(かつ相対的に)高まります。ただ、「私」には「殺害予告」によってどんどん他者性が付与されて行きます。その結果、大衆をメタレベルで俯瞰する《絶対他者》となるのです。いまの大きな社会構造とは異なりますが、小さな部分でこの構造はまだ保たれているので、今回はその概略を述べた次第です。
妄想への応援コメント
疑似パノプティコン←→弥生時代的構造
になる理由が知りたいです
具体化すると
監視されている感←→ムラの形成
みたいになってしまうので
作者からの返信
メモにこれを書いたのが随分前のことなので、当時のことを思い返しながら返答させていただきます。当時の私に即した、つまりこの文章の文意に即した回答になるかは分かりません。民衆は監視下に置かれると、本文にある通り、個の意識が強まります。これはパノプティコン状態に置かれた場合の心理変化です。本文の流れを鑑みるとここから少し逆説的にはなりますが、パノプティコン状態となる国家は個々人の力で国を動かせない程、既に規模が大きくなっています。つまりパノプティコン状態となっている頃には既にムラが成立し始めていることが本文文意から分かります。ということは、パノプティコン状態→ムラの形成という命題は真ということとなります。次は、十分性の検証ですが、これは本文からは認められません。詰まるところ、本文には必要十分と書かれていますが、本文中でそれが命題として十分に解決は図られていない(必要条件であるが、十分条件ではない)という事になります。するとおっしゃるような疑義が生じるのは自然なことと思われます。ではどうして当時の私が必要十分と認めたかということとなりますが、これを本文から読み取るのは不可能なので、いまの私が推測します。本文の流れを完全に無視すると割と簡単に十分性の検討はできて、単純にムラが形成されると自ずと衆人環視の状況が出来上がります。そうすると、監視者が明示的でないのでパノプティコン状態にあると言えます。つまり、これより必要性・十分性の検討が出来たので、必要十分であると言えます。(恐らく私から引き出したい答えはこれではないと思いますが、これがいまの私の限界です。)
きらいなひとへの応援コメント
考え方が変わっていくのは、自分が成長したからではないでしょうか?もし可能であれば、自分が好きな人とだけ付き合えば良いと思います。完璧な人間はいないので、自分が思う相手のいい部分と悪い部分を比べてみて、悪い部分が気にならないくらいのいい部分があったのなら、そのまま信じて付き合っていけば良いと思います。もし、みんな嫌いになって、好きな人がいなくなってしまっても、そうなった時はそうなった時で、怖がらずに受け止めればいいと思います。1人で楽しめることもたくさんあります。
作者からの返信
人はポリス的動物であるので一人で生きていくのには限界があります。そうした動物であるという前提の下で、誰一人として好きな他者がいないのはかなり致命的であると考えます。他人行儀な書き方ですが、そもそも私は書き言葉を信用していません。言葉は第三者なので、勝手気儘に運動していきます。それはそうと、社会は広いですから、また多様ですから、私の我儘が通用する範囲もたかが知れてる訳で、我儘を押し通そうとするものはいずれは自分の意図しない形で社会からあぶれていくのです。つまり、私は、私が社会からあぶれないように、社会生活を送れるように、嫌いな人と一緒に暮らしていくしかないのです。
ε AND δ (2)への応援コメント
「小骨の刺さったような、助詞を間違えたときのような、ささやかな違和感。」そんなふとした違和感を感じる時があるな、とはっとしました。
作者からの返信
感情の機微をグラデーションで以て表現する際に違和感という言葉は便利です。
ε AND δ (1)への応援コメント
「瞳の奥には溢れ出る宇宙が籠っていて、女が眼球を移動させる度、万華鏡のように美しく光を散乱させては、それは流れ星のように儚く消えていく。」
ここの表現が美しくて素敵だと思いました。
作者からの返信
人の顔面を形容するのは得意です。
お知せへの応援コメント
今までたくさんの文章で楽しませていただき、ありがとうございました。またいつか、たなべさんの文章が読める日を楽しみにしております。
作者からの返信
感謝します。この決定の全ての起因はこれら文章群によって私の人格が愚劣にも貶められているのではないかという疑念です。無論、私の文章それ自体からではなくこれを読んだ人間に依ってです。この実験的実践から何か得るものがあればこれを継続し、得るものがなければ撤廃します。私は兎に角、私が不当に凌辱されるのを禦ぎたい訳です。私の人格が回復し正常に運転し始めた時、このエッセイは再開されるでしょう。その時にまた会いましょう。