第7話 見知らぬ微笑み
午後5時23分。
図書室の窓の外には、まるで世界が燃え尽きるかのような夕焼けが広がっていた。春の空は柔らかな朱色というよりも、血のような赤に染まり、学校の敷地を囲むフェンスの影が鋭い刃物のようにグラウンドに突き刺さっている。
風が静かに木々を揺らし、そのざわめきが妙に耳にこびりつく。普段なら心地よく感じるはずの風景が、今日はなぜか異様な緊張感を漂わせていた。
そんな穏やかで不気味な風景の中に、明らかに不釣り合いな存在が立っていた。
彼は、グラウンドの隅に佇んでいた。
翼の視線は、まるで何かに引き寄せられるように、その少年に向かっていった。制服の裾が春風に揺れている。しかし、その姿にはどこか現実感が欠けていた。まるでそこにいるはずのない存在が、強引にこの世界に溶け込んでいるかのようだった。
夕日に照らされたその顔には、懐かしさと不気味さが混じった微笑みが浮かんでいた。瞳の奥には、まるで深い闇が宿っているように見える。その視線が翼と合った瞬間、翼の心臓が一瞬だけ大きく跳ねた。
村瀬 悠真。
夢の中で見た少年。
翼の記憶の奥底から呼び覚まされるその名前に、翼はなぜか強い既視感を覚えた。しかし、現実で彼に会うのはこれが初めてのはずだ。それなのに、彼の存在は翼の中で深く根付いているかのように感じられた。
「…美咲。」
翼は隣に座る美咲に声をかけた。彼女は何か資料に目を通していたが、翼の低く抑えた声に気づき、顔を上げた。その表情には、普段とは違うわずかな緊張が走った。
「どうしたの?」
翼は黙って、窓の外を指さした。
美咲が窓の外に目を向けると、彼女の表情が一瞬で硬直した。血の気が引き、唇がわずかに震える。
「…あれ…悠真?」
美咲の声が微かに震えた。彼女もまた、翼が語った夢の中の少年の顔を一瞬で認識したのだ。
二人は無意識のうちに窓辺に寄り、じっとその少年を見つめた。悠真は相変わらずこちらに向かって微笑みを浮かべていた。しかし、その微笑みは決して温かいものではなかった。
それは、何かを知っている者の余裕であり、あるいは警告のようなものが込められている気がした。
「…どうする?」
美咲が囁くように尋ねたが、翼はすでに答えを出していた。
追う。
その決意が翼の中で確固たるものになった瞬間、悠真が突然動いた。彼はゆっくりと踵を返し、無言のまま校舎の裏手へと消えていった。その動きは、まるで翼たちが追いかけてくることを知っているかのように、余裕すら感じさせた。
「行くぞ!」
翼は立ち上がり、椅子を引きずる音も気にせず図書室を飛び出した。美咲もすぐに後を追う。二人の足音が廊下に響き渡る。放課後の静まり返った校舎は、その音をより大きく反響させ、不気味な雰囲気を一層際立たせていた。
二人は階段を駆け下り、玄関を飛び出した。夕日が背後から二人を照らし、長い影を地面に落とす。影はまるで別の生き物のように、二人の動きとは微妙にズレて見えた。
しかし、校庭に出た瞬間、翼と美咲の目の前に広がった光景は――完全な静寂だった。
悠真の姿はどこにもなかった。
「…いない。」
美咲が息を切らしながら呟いた。彼女の声には、驚きと恐怖が入り混じっていた。
「確かにこっちに走ったのに…」
翼は周囲を見渡した。グラウンドの土は柔らかく、誰かが走れば必ず足跡が残るはずだった。しかし、そこには二人の足跡しか存在しなかった。
「おかしい…」
翼は額の汗を拭いながら、もう一度周囲を確認した。何かを見落としている気がした。まるで、この空間そのものが翼たちを欺いているような感覚だった。
そのとき、ふと視線を上げると、翼の目は校舎の屋上に留まった。
屋上のフェンスの向こう側に、影が揺れていた。
その影は、悠真の姿に見えた。しかし、それは人間の影というよりも、まるで何か別の存在――この世のものではない何かのように見えた。
影はじっと翼たちを見下ろしていた。次の瞬間、その影がわずかに手を振るように動いた。
その動きはまるで――「お前はまだ何も知らない」とでも言いたげだった。
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