第6話 日常の崩壊

 翌朝、翼は目覚めた瞬間、昨夜の夢の感触がまだ体に残っていることに気づいた。目覚ましのアラームが鳴り響いているはずなのに、それすらもどこか遠くの出来事のように感じられる。手足の感覚が鈍く、胸の奥に重い何かが沈んでいるようだった。


 「あれは本当に夢だったのか?」


 悠真の冷たい視線、莉子の無表情な顔、そして崩れ落ちる世界――すべてがあまりにも鮮明すぎた。まるで、翼が現実の中で封じ込めていた何かが、夢を通じて溢れ出してきたかのように感じられた。


 これを美咲に話すべきか――翼は迷うことなく決めた。彼女なら、きっと何かを理解してくれるはずだ。



 通学のバスに揺られながら、翼は昨夜の夢のことを美咲に話した。バスの中はいつも通りの喧騒に包まれているはずだったが、そのざわめきさえも翼には遠くの世界の音のように思えた。


 翼が夢の詳細を語り終えると、美咲は静かに頷いた。彼女の表情は真剣で、まるで翼が言うことを全て信じているかのようだった。


 「それ、ただの夢じゃないかもね。」


 美咲の言葉は、驚くほど冷静だった。しかし、その声の奥には、どこか怯えのようなものが潜んでいた。


 「翼の記憶の奥底にある何かが、夢として出てきたのかもしれない。」


 翼は眉をひそめた。

 「でも、もしそうだとしても…俺が本当に何か知ってるっていうのか?」


 バスの窓の外を見つめながら、美咲は静かに答えた。


 「可能性はある。だって、佐伯があんなに確信してたんだもの。何かあるはずだよ。」


 その言葉が、翼の胸の中で重く響いた。自分の知らない自分――その存在が、静かに翼の心に影を落とし始めていた。



 学校に到着すると、翼はすぐに異変に気づいた。

 普段なら聞こえてくるはずの生徒たちのざわめきが、今日は異様に小さく、沈んでいる。廊下を歩く足音さえも、どこか重苦しい響きを持っていた。


 クラスメイトたちの顔もどこかこわばっており、誰もが何かを隠しているような、もしくは何かを恐れているような表情を浮かべていた。


 教室に入ると、その空気はさらに濃くなった。誰もが視線を交わすことを避け、ただ静かに席に着いている。まるで、この教室全体が見えない何かに押し潰されているかのようだった。



 ホームルームが始まる直前、担任の田村先生が教室に入ってきた。


 普段はどこか頼りない印象のある彼だったが、今日は表情が異様に硬い。顔色も悪く、目の下には深いクマが浮かんでいた。彼が教壇に立つと、教室の空気は一瞬で凍りついた。


 田村先生は、教室全体を見渡しながら低く告げた。


 「皆さん、重要なお知らせがあります。」


 教室内のざわめきが一瞬で消える。誰もが田村先生の言葉に耳を傾けていた。


 「佐伯 直人君が行方不明になりました。」


 その一言は、爆弾のように教室内に響き渡った。


 翼と美咲は顔を見合わせた。昨夜、屋上で話をしたばかりの佐伯が、突然姿を消したのだ。翼の胸の中に冷たいものがズシリと落ちるのを感じた。


 一瞬の沈黙の後、教室内はざわめきに包まれた。誰もが口々に憶測を飛ばし、囁き合っている。しかし、そのどの声も現実味を帯びていなかった。まるで誰もが、この現実を受け入れたくないかのようだった。


 田村先生は手を上げて静かに制した。


 「警察も捜査を始めています。 何か心当たりがある人は、私か警察に必ず報告してください。」


 その言葉は、形式的なものだった。しかし、翼にはその言葉の裏に何かを隠しているような気配を感じた。



 放課後、翼と美咲は再び図書室に集まった。昼間の明るさが嘘のように、この空間はどこか冷たく沈んでいた。窓から差し込む夕陽の光さえも、まるで空気に吸い込まれてしまうかのように色褪せていた。


 翼は机に肘をつきながら、静かに呟いた。


 「これって…偶然じゃないよね。」


 美咲も同じ気持ちだったのだろう。迷いのない声で答えた。


 「…ああ。佐伯が消えたのは、絶対に何かの兆候だ。」


 二人の間に、言葉にできない緊張感が漂った。あの写真、佐伯の言葉、悠真の存在――全てが少しずつ、しかし確実に繋がり始めている。


 その時だった。


 図書室の窓の外で何かが動いた気配がした。翼は直感的に顔を上げ、窓の外に視線を向けた。


 校庭の隅に、一人の少年が立っていた。


 その少年は、じっと翼を見つめていた。彼の顔には微かな笑みが浮かんでいる。しかし、その笑みはどこか不自然で、まるで翼の内側を見透かしているかのようだった。


 翼の心臓が大きく跳ねた。

 「あいつは――」


 夢の中で見た、村瀬 悠真と同じ顔だった。

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