虚構の楽園〜誰もが騙され、誰もが真実を知らない〜

ごんぞう

第1話 日常の裂け目


4月10日、午前8時10分。


 春の冷たい空気が、うっすらと温もりを帯び始める頃。季節の境目が作る曖昧な空気が、街全体に漂っていた。篠崎 翼(しのざき つばさ)は駅前のバス停に立ち、列の中でじっとバスを待っている。まだ肌寒い朝の匂いと、どこか湿ったアスファルトの感触が、彼の靴底越しに伝わってきた。


 空は晴れているのに、どこか色褪せたような淡い光が街を覆っている。春の陽射しのはずなのに、やけに重たく感じるのはなぜだろうか――そんなことを考えながら、翼は静かに目を細めた。


 私立青陽高校。進学校としてそれなりに知られているものの、特別な何かがあるわけではない。制服もごく普通のブレザーで、校舎も典型的なコンクリートの塊。中学からエスカレーター式に進学した翼にとって、この高校生活もまた、普通という言葉で片付けられるものになるはずだった。



 バスが到着し、翼は無意識に決まった席へと向かう。窓際の席。そこに座ると、朝の陽射しが斜めに差し込んできて、翼の顔をじんわりと照らした。春の太陽にしては、少しだけ眩しすぎる気がした。


 隣の席では、一ノ瀬 美咲(いちのせ みさき)がスマホを片手に、何かを見ている。画面が反射する光が彼女の顔に映り、無表情にも見えるその横顔が、なぜか遠く感じた。


 彼女は翼の幼馴染だ。小学校からの付き合いで、何かと世話を焼いてくる。翼はその存在に救われていることを自覚しているものの、どこかで一線を引こうとする自分もいる。それは自分でも理由がわからない。ただ、彼女の優しさに甘えすぎたくない――そんな気持ちが、翼の中にわずかに残っていた。


「ねえ翼、聞いた? 先週の土曜、学校でなんか事件があったらしいよ」


 バスの緩やかな揺れに合わせて、ふと美咲が声をかけてきた。その声は、普段の軽やかさとは違い、どこか張り詰めた空気を含んでいた。


 翼は眉をひそめ、窓の外に視線を残したまま答える。


「事件? 何の?」


 美咲はスマホを指で滑らせながら、声を少し潜めた。


「詳しくはわかんないけど…屋上で誰かが倒れてたとか」


 翼は一瞬、言葉に詰まった。屋上――その単語が、妙に耳に残る。しかし、翼はすぐに冷静を装い、肩をすくめた。


「倒れてたって、それだけ? 事故かもしれないじゃん」


 淡々と答える翼に対して、美咲は納得がいかない様子だった。彼女の目は、スマホの画面ではなく、どこか遠くの何かを見つめているようだった。


「でも、その人が誰なのか誰も知らないってさ。先生たちも何も説明してくれないし。変じゃない?」



 バスが学校の正門に到着する。降車して校舎へ向かう途中、翼は自分でも説明のつかない違和感に包まれていた。


 青陽高校の校舎は3階建て。特別目を引くわけでもない、どこにでもあるような学校の建物。しかし、今日はその建物全体が、微かに歪んで見える気がした。フェンスの向こう、屋上の床がちらりと視界に入る。何もないはずのその場所に、翼の視線は自然と吸い寄せられていった。


 ――あそこに何かがいる。


 そんな感覚が、翼の背筋をわずかに冷たくさせた。



 教室に入ると、クラスメイトたちも同じ話題でざわついていた。彼らの声は、まるで昨日の続きをそのまま再生しているかのように、どこか無機質に感じられた。


「なあ、土曜日の件、やっぱマジだったらしいぞ」


「誰か見た人いる? 屋上に運ばれてくとこ、見たって噂もあるけど…」


 憶測が飛び交い、教室の空気は妙に重苦しい。誰もが何かを知っているようで、実際には何も知らない。その曖昧さが、余計に不安を煽っていた。



 その日、ホームルームの最後に担任の田村先生が教壇に立った。彼の表情は普段と変わらず、冷静そのもの。しかし、その冷静さこそが逆に不気味だった。


「先週末、校内で一部設備の点検を行いました。生徒の皆さんは立ち入り禁止区域には近づかないようにしてください」


 それだけだった。何も明かされない説明に、生徒たちはますます不安を募らせた。教師たちの態度は不自然に淡々としており、まるで何かを隠しているかのようだった。


 翼は田村先生の言葉を反芻しながら、窓の外――屋上に再び目をやった。そこには何もないはずなのに、まるで何かの影が見えた気がした。


 その瞬間、翼は確信した。


 この日常のどこかが、確実に歪んでいる。


 それが何なのかはまだわからない。だが、この日を境に、翼の普通だった日常は、少しずつ確実に崩れていくのだった。

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