第2話 鍵を持つ者

 放課後。


 校舎の廊下は、生徒たちのざわめきが徐々に遠ざかり、静寂が支配し始めていた。翼は一人、図書室の窓際の席に座り、ノートを開いて宿題を片付けようとしていた。外から差し込む夕陽がページを赤く染め、静かな空間が翼の周囲を包み込む。


 普段なら、この静けさは翼にとって心地よいはずだった。だが、今日は何かが違う。空気が少し重たく、まるで部屋全体が息を潜めているかのような感覚があった。


 隣のテーブルでは、一ノ瀬 美咲が資料を広げ、熱心に何かを調べていた。彼女の眉間には僅かな皺が寄り、スマホの画面と手元の紙の間を何度も見比べている。


 ――どうやら、美咲は例の**“屋上事件”**について何か掴もうとしているらしい。


「ねえ翼、これ見て」


 美咲が声を潜めながら差し出したのは、青陽高校の旧校舎の配置図だった。紙は色褪せ、角がわずかに擦り切れている。どこかで見たような、しかしどこか異様な雰囲気を纏っていた。


「これ、学校のウェブサイトに残ってたんだけど、今と微妙に違うんだよね」


 翼は眉をひそめ、図面に目を落とす。確かに、現在の校舎と比べるといくつかの違いが目についた。しかし、特に気になったのは――屋上に通じるもう一つの階段の存在だった。


「…この階段、今はないよな?」


 翼の指先が図面の上をなぞる。そこには明確に、現在存在しないはずの階段が描かれていた。しかし、学校のどこを探してもそんな階段は見当たらない。


「古い図面だからじゃないの?」


 翼は何気なく言ったが、美咲は首を振った。


「いや、それにしても不自然じゃない? ほら、この部分、消した跡があるし」


 美咲の指が図面の隅を指し示す。そこには明らかに修正された痕跡が残っており、何かを意図的に隠しているように見えた。消されたインクの下には、うっすらと別の線が浮かび上がっているようだった。


 翼はその微かな違和感に心を引き寄せられた。単なる偶然なのか、それとも――。


 そのときだった。


 図書室の奥、書棚の影から誰かの視線を感じた。微かな気配が、背後から翼の首筋を撫でるように漂ってくる。


 翼は静かに顔を上げた。視線の先には――**佐伯 直人(さえき なおと)**の姿があった。


 彼は本の影からじっとこちらを見つめていた。無表情で、まるでそこに立っているのではなく、影そのものが形を取ったかのような存在感だった。彼の目はどこか冷たく、何も映していないようでいて、すべてを見透かしているかのようだった。


 佐伯は普段から無口で目立たない存在だが、今日はその沈黙が不気味さを際立たせていた。彼の佇まいには、言葉では説明できない異質さがあった。


「…何か用?」


 翼は意識して声を平静に保ちながら問いかけた。しかし、心の中ではわずかな緊張が走っていた。


 佐伯は答えず、ただ静かに一歩ずつ近づいてきた。その動きはゆっくりとしていたが、どこか不自然に滑らかで、まるで重力を無視しているようにさえ感じられた。


 席に到達すると、彼は低い声で呟いた。


「屋上のこと…調べてるのか?」


 その言葉に、翼と美咲は一瞬、息を呑んだ。佐伯の声は小さいのに、耳元で囁かれているような圧迫感があった。


 美咲がわずかに戸惑いながらも口を開いた。


「…別に。ただの好奇心だよ」


 佐伯はその言葉に対して何の反応も示さず、ポケットに手を入れた。次の瞬間、彼が取り出したのは――古びた鍵だった。


 その鍵は、くすんだ金属製で、明らかに長い年月を経ていた。表面には細かい傷が無数に走り、使い込まれたような光沢が消えかけていた。しかし、何よりも不気味だったのは――鍵の先端に刻まれた奇妙な模様だった。


「これ…屋上の鍵だ」


 佐伯は淡々と告げる。その言葉の重みは、図書室の静寂に鈍い衝撃を落とした。


「…なんでお前がそんなもん持ってるんだよ?」


 翼は驚きと疑念を隠せずに問い詰めた。佐伯は一瞬、口元に微かな笑みを浮かべた。その笑みは冷たく、何かを知っている者の余裕を感じさせた。


「知りたきゃ…夜に屋上へ来い。 真実が見えるかもしれないから」


 その言葉を残し、佐伯は静かに背を向け、図書室を去っていった。彼の足音は床にほとんど響かず、まるで最初から存在していなかったかのようだった。



 佐伯が去った後も、図書室には重苦しい沈黙が残った。翼と美咲は顔を見合わせた。お互いに何も言わなくても、何かが動き始めていることを確信していた。


 翼の胸の中には、これまで感じたことのない奇妙な興奮が沸き上がっていた。恐怖とも好奇心ともつかないその感情が、彼の心を揺さぶっていた。


「…どうする?」

 美咲が静かに問いかける。


 翼はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「行くしかないだろ。真実があるなら、確かめなきゃな」

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