第2話:美弥【崩落─2】

「なんだよ、痴漢にでも遭ったみたいに」


 薄ら笑う声。

 伸び放題の髪と髭も手伝い、腹が立つより寒気を覚える。けれども美弥を抱える腕から、ゆるりと力が抜けていく。

 さっと抜け出ると、嘲笑う形に歪む男の唇が不愉快な音を続けた。


「いい家だな。儲かってるみたいじゃねえか」


 両手を顔の高さに、ひらひらと振る。代わりに漁るような視線が壁を伝い、奥のキッチンを覗き込んだ。


「キヨさ──あなたに関係ないでしょ」


 堂木どうぎ清勝きよかつというこの男に、昔使った呼び名を口走りかけた。

 瞬間に飲み込んだつもりだったが、清勝の見下す眼が厭らしく笑む。


「へへっ。邪魔するぞ」

「あっ、ちょっと!」


 くたびれて汚れた作業靴を脱ぎ散らかし、清勝は踏み入った。美弥は行く手を塞ごうとして撥ね退けられ、肩を壁に打ちつける。

 反射的に、ぎゅっと眼を瞑るだけの痛みはあった。が、今まさに犯されようとする我が家を前にしては瑣末なことだ。

 伸ばした手が清勝の後ろ襟をつかむ。しかし無造作に払われただけで、取り逃がしてしまった。


「ジタバタ騒ぐなよ。立ったままじゃ話にもならねえってだけさ」


 そこらじゅうを見回す清勝の鼻が、すんすんと動く。嗅ぎつけたらしいフライパンの蓋を取り、直に手を突っ込んだ。


「なんだあ? お子ちゃまの味だな、こんなんじゃアテにもならねえ」

「なに、どうしたいの。話ってなに」


 先回りをしようにも、清勝は一瞬とてじっとしていない。投げて戻された蓋がけたたましく鳴り、それが静まるころにはパソコンのある部屋へ入っていった。


「高そうなパソコンだな。俺にくれよ、しばらくの小遣いにゃ十分だ」

「仕事場の借り物なの。無理に決まってるでしょ」

「ああ、仕事なあ」


 ぴたり。清勝の足が止まり、危うく後頭部に鼻をぶつけそうになった。吐き気のする濃い体臭を、思わず胸いっぱいに吸い込んだ。


「儲かるんだろ、製薬会社勤めってのは」


 パソコンを置いたテーブルに、意味ありげなノックがされた。揃いの椅子を撫で、厚い遮光カーテンをはたき、クローゼットの戸を開けるふりなどしながら、清勝は部屋を一周する。


 都度「やめて」と言ったが聞き入れられることはない。やはり金の無心に来たらしいと理解させられるばかりで。


「座らないで」


 整えたベッドに、清勝の尻が向かう。今日、初めて先回りした要望はある意味で叶えられた。

 薄っぺらな黒いビニールの上着、似合いもしないどぎついピンクのシャツ、擦り切れだらけのジーンズ。


 その全てがベッドの上へ投げ出された。なにを付着させているのか白くかすれたところと、泥水に浸けたような染みと。そういうあれこれが美弥の寝床に擦りつけられた。


 出逢ったときには、人の嫌がることを絶対にしない優しい男だったのに。

 ふっと浮かんだ過去の景色に、ではなく。そんなものにまだ縋ろうというらしい自分に、美弥の眼は熱くなる。


「帰って。お金ならあげるから、二度と来ないで」


 テーブルの脇にかけたバッグから財布を取り出し、入っていた札を根こそぎ握った。

 締めて二、三万ほどのそれを投げつける。と、清勝はのろのろと起き上がりつつ拾う。


「お偉くなったもんだ」


 小馬鹿にした声が音階を二つか三つも下げた。言いつつのろのろと起き上がった清勝は札を拾い、握り潰した拳を突き出すそぶりで動かす。

 届くはずもなかった。けれども美弥の身体はびくりと震え、勝手に強張る。


「金を寄越せなんて言った覚えはないけどな」

「……い、言ったようなものでしょ。それにあなたがどう思ってるかは関係ない、とにかく出ていって」


 ひっくり返る声を必死に張った。しかし清勝は「へえ」と興味なさげな声を発するのみ。集められた札は、しっかりとポケットへ押し込められたが。


「今日、来たのは金のためじゃない。頼みがあるんだ」

「知らない。聞くわけないでしょう?」

「薬屋なら、俺の欲しい薬も手に入るだろ」


 一応でも、会話は成立しているはずなのに。構わず清勝は、己の言い分ばかりを押し通す。こちらの願いは叶えられる気配もない。

 鼻を衝く熱と痛みを、美弥は懸命に飲み込んだ。


「薬なら薬局に行って」

「だから、売ってねえんだって」


 ベッドの端に腰かけた清勝の手が、反対の腕に注射をして見せる。もちろん注射器は想像の産物で。


「──そんな薬、あるわけないでしょ」

「ないこたぁないだろ? 本当にないんなら、作ってくれたっていい。理科の成績はさっぱりだったから、俺にはできない」


 社屋のどこかには、清勝の望むような薬もあるにはある。厳重に保管されていて、今の美弥ではまったく手の届かない物だ。


「できないし、できたとしても犯罪になるでしょ」

「本当にできないのか」

「本当。というか、どうしてあなたのためにそんなことを?」

「そうか、できないのか」


 残念そうな口ぶりとうらはら、清勝の眼が嘲笑う。


「じゃあ別の奴に頼むとするか、陽葵とかな。小学校の理科室にあるだろって」

「なっ、なに言ってるの!?」

「しょうがないだろ、お前ができないって言うなら。あと俺が頼れるのは、自分の娘くらいだ」

「やっ、冗談でもやめて。そんなことしたら陽葵が……って、どうしてあの子のこと知ってるの」


 陽葵がお腹の中にあるころ、婚姻届を取りに行くと言った背中を思い出す。そのまま煙のごとく消えた男は今、にやにやとした眼で見上げる。


「そうよ、私の勤め先だって」


 清勝と出会い、消え失せたのは美弥が大学一年のこと。その時点で予知でもしていなければ、陽葵の名も製薬会社も知るわけがない。


「今の時代、俺にもそれくらいは調べられるんだよ」


 言って、笑みを消した清勝は立ち上がった。かと思うと美弥の乳房に服の上から触れ、そのまま玄関に足を向ける。


「ど、どこへ行く気」


 己の身を掻き抱いても、もはや男は振り返らない。玄関のあちらとそちらへ飛んだ靴に舌打ちをし、蹴りつけるようにそれぞれ履いた。


「ここにない物を今すぐって言うほど馬鹿じゃないんでな、また来る。用意できないってことなら、来週にでも陽葵のとこへ行くからな。それともお前の会社がいいか?」


 そんな場所で、違法な薬物を渡せなどとまさか叫んだりはすまい。だが美弥にしろ陽葵にしろ、困らせる方法はいくらでもある。


 どうすれば。美弥は唇を震わせ、歯を食いしばろうにも噛み合わなかった。

 従いたくはない。もし従うとしても、そんな薬物を手に入れる方法がない。無理を言うにも程度が過ぎる。ほかに採るべき方法があるとするなら、警察に頼むくらいだ。

 出ていこうとする清勝の背を見つつ、靴箱へ置いた花瓶に手が触れる。貰い物だがそれだけに立派な品で、片手で持ち上げれば手首を痛めかねない。


 できれば、警察には言いたくなかった。

 いや、なるべく。

 絶対に。


 ──それなら。


 急に唾の溢れた気がして飲みこみ、そっと花瓶の持ち手をつかんだ。慎重に、静かに、反対の手も動かそうとしたところで清勝が振り向いた。


「分かってるな? 俺には別に失うものはないんだ。大ごとになって困るのは、お前だけだからな」


 咄嗟に頷く。と、清勝はむしろ驚いた風に怪訝な表情を浮かべた。すぐに満足げな顔を作り、頷いたが。

 まま、去った。野良犬にも似た、ギトギトとした饐えた臭いを残し。


 玄関の扉が閉まる。色調の異なる黒地に黒の草模様が、へたり込んだ美弥の眼には夜の海の渦巻きに思えた。

 必死に腕を伸ばし、やっと鍵をかける。途端、力が抜けて壁にもたれた。


「あんたのせいじゃない、なにもかも。陽葵の顔だって、あんたがちらついてまともに見れない!」


 嗚咽が九割の声は、傍に誰かがいたとして理解できなかったろう。

 胃の中身を全て吐き出しそうな、それでいて喉を塞がれたような。溺れそうな心地でどれだけを過ごしたか。


 清勝が去っていく音は聴き取れなかった。玄関の前に別の誰かがやってくる気配も。

 美弥自身の鼻を啜る音のせいかもしれない。ぐずぐずと呟き続けたなにごとかのせいかも。


 ただし明確に、またチャイムが鳴った。

 冷えた息が喉を抜ける。立つことも叶わず、美弥は縮こまった。じっと息を止めていれば、見逃してもらえると願って。

 抑えた息を五度ほど、もう一度鳴る。「消えて」と頼んだのに、扉をノックまでされた。


「お母さん、いないのかな」


 違う。そこに清勝はいない。小学二年生の幼い声が、美弥を渦の底から引き上げる。

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